甘い香り
路地の奥には、誰もいなかった。
倒れた籠。壁に残った薄い擦り跡。踏み荒らされた土。職人通りの朝の音は背中の方でまだ続いているのに、この細い裏道だけは妙に静かだった。
フェリカは鼻先を上げたまま、しばらく動かなかった。
「……匂いが切れてる」
「匂い?」
「ええ。木屑と油の上から、変に甘い匂いがかぶってる。多分、香料ね。鼻が痛い」
そう言って、フェリカは顔をしかめる。
グラムも壁際に残った跡を見た。爪で抉ったようにも見える。だが、浅い。人を攫うほど暴れたにしては、傷が少なすぎる。
フェリカが横目で見てくる。
「何見てる」
「浅い」
「そうかしら?」
「お前の爪なら、もっと深く入る」
「……」
フェリカは一瞬だけ口を閉じた。
「まるで見たことあるような口ぶりね」
「違うのか」
「違わないけど」
グラムは黙った。
フェリカはそれ以上言わず、倒れた籠をつま先で少し動かした。中に残っていたのは革紐と細い木片だけだ。職人が使う小物らしい。
「ここで消えたなら、もう少し騒ぎになる。夜だったにしても、声くらい聞こえたはずだ」
「聞こえなかったのか」
「近くの店は、何も聞いてないってさ。今朝、私が先に聞いた」
「先に来ていたのか」
「依頼札が出る前から、街は騒いでたんだよ」
フェリカは路地を出た。
グラムも続く。後ろには立たない。さっき言われた通り、半歩横へずれると、フェリカの耳が少しだけ動いた。何か言うかと思ったが、彼女は黙って歩き出した。
職人通りを抜けると、赤橋市場の音が一気に近くなった。
魚を捌く刃の音。革を叩く槌の音。荷馬の鼻息。安い鍋を並べる男の声。香辛料の袋を開けた匂いに、焼いた肉の煙が混じる。
セントレアは広い。
ギルドと宿と門だけを歩いていた時には分からなかった。人間の商人がいて、獣人の荷運びがいて、耳の長い子どもが荷車の隙間を走り抜ける。誰かが笑い、誰かが舌打ちし、誰かが値段を吊り上げる。
フェリカはその中を迷わず進んだ。
「フェリカ、昨日の件、本当かい」
肉屋の男が声をかけた。腕の太い人間だった。
「何が」
「人獣が出たって話だよ。北西街道で」
「出た」
「じゃあ、獣人街の方で消えた職人も……」
「まだ決まってない」
フェリカの声が低くなる。
男はすぐ口を閉じた。悪気というより、続きを言う前に自分でまずいと思った顔だった。
「そうか。悪い」
「肉、焦げてるよ」
「うわっ」
男が慌てて鉄板へ戻る。フェリカは足を止めずに進んだ。
グラムはその横顔を見た。
怒っている。だが、彼女なりに抑えているようにも見えた。
威嚇のようだとグラムは思った。
「顔が広い」
「この辺で仕事してるからね」
「嫌われているのか」
「好かれてはないだろうね」
「そうか」
「やっぱりって顔だね」
通りの反対側で、薬草を並べていた老婆がフェリカに手を振った。フェリカは顎だけで返す。
少し先では、獣人の子どもが二人、木箱を運んでいた。片方がグラムを見て足を止め、もう片方に背中を押されて慌てて走る。
グラムへの視線も街に来た時より増えている気がした。
帝国の剣闘士。人獣を斬った新人。フェリカと一緒に歩いている男。
言葉にはならなくても、目がそう言っていた。
「気になるか」
フェリカが聞いた。
「見られているだけだ」
「本当に気味悪いな、あんた」
「よく言われる」
「誰に」
「昨日、ミラに」
フェリカは少しだけ黙り、それから鼻で笑った。
「言われるだろうね」
赤い欄干の橋が見えた。
市場の真ん中を細い水路が通っていて、その上に古い橋が架かっている。橋の向こう側が獣人街へ近い区画らしい。店の看板が少し粗くなり、革や作業道具を扱う屋台が増える。
フェリカが橋に差しかかった時、小さな影が荷車の下から飛び出した。
「フェリ姉!」
猫獣人の少年だった。
人間の子どもより細く、耳が大きい。背負っている袋が体に合っていない。走ってきた勢いのままフェリカの前で止まり、グラムを見て、すぐフェリカの後ろへ半分隠れた。
「ノア。走るなって言っただろ」
「走らないと、他のやつに先越される」
「何の話」
ノアは市場の端を気にしながら、声を落とした。
「昨日の夜、見たんだ。白壁通りの方から来た人間の男。誰かを連れて、こっち側へ歩いてた」
フェリカの耳が立つ。
「誰かって?」
「顔は見えなかった。大人の男。ふらふらしてたから、酔ってるのかと思った。でも、案内してる男の方が変だった」
「どう変だった」
グラムが聞くと、ノアはびくっと肩を揺らした。
フェリカが横目で見る。
「大丈夫だよ。こいつは噛まないから」
「噛まない」
ノアはしぶしぶグラムを見た。
「手袋してた。夜なのに。あと、甘い匂いがした。市場の香料屋の裏を通ったあとみたいな匂い」
「顔は」
「人間に見えたよ。笑ってた。優しそうな声だった。でも、目が変だった」
フェリカが低く息を吐いた。
「どっちへ行った」
「橋を渡って、香料横丁の方。そこからは追ってない。フェリ姉に怒られると思ったから」
「そうだね、追ったら怒ってたよ」
「だよね」
ノアは少し得意げに言ったが、すぐにグラムの視線に気づいて口を閉じた。
「その男の名前は」
「知らない。でも、前にも見た。道に迷った人に宿を教えてた。安いとこがあるって」
「宿?」
「獣人街の中じゃないよ。旧水門の方。あっちは夜、あまり行かない」
フェリカはノアの頭を軽く小突いた。
「助かったよ。ありがとう。今日はもう裏道に入るな。ガルバの所へ行って、私が呼んだって言え」
「また使い走り?」
「嫌ならここでグラムと留守番する?」
ノアは一瞬で首を振った。
「行く!」
少年は袋を揺らしながら走り出した。途中で一度だけ振り返り、グラムを見て、またすぐ前を向く。
「怖がられている」
「だろうね」
「何もしていない」
「何もしてなくても、顔と噂で十分なんだよ」
フェリカは橋の向こうを見た。
香料横丁の方から、甘ったるい匂いが流れてくる。市場の匂いに紛れているのに、ノアの言葉を聞いたあとでは、少しだけ浮いて感じた。
「手袋の男か」
グラムが言う。
「人間なら、暑い日に手袋なんかしない。仕事で使うやつは、もっと傷む。きれいな手袋なら、隠してるんだろ」
「手をか」
「手か、指か、あるいは爪か」
フェリカはそう言ってから、グラムを見た。
「あんた、さっきから驚かないね」
「人間に見える人獣は、昨日見た」
「そうだったな」
フェリカは短く答えた。
その声に、ほんの少しだけ別の色が混じった。警戒は残っている。だが、ただ嫌っているだけの声ではなかった。
橋の向こうで、誰かがフェリカの名を呼んだ。
獣人の荷運びが、半分閉じかけた店の前から手を上げている。フェリカはそちらへ歩き出した。
「まず、ガルバに話を聞く。ノアが見た男を、他にも見てる奴がいるかもしれない」
「香料横丁へは行かないのか」
「行く。でも先に、こっちの口を押さえる。変な噂が増える前に」
「口を押さえる」
「黙らせるって意味じゃない。余計なことを言うなって頼むの」
「そうか」
「……いちいち物騒に受け取らないで」
フェリカは歩きながら、尻尾を一度だけ揺らした。
グラムはその横を歩く。
市場の人混みは途切れない。誰かが値切り、誰かが荷を運び、誰かがこちらを見てすぐ目を逸らす。
人が多い。
匂いも、声も、足跡も多い。
闘技場のように、敵だけが立っている場所ではない。
その中に、人間の顔をした何かが紛れている。
グラムは剣の柄に触れた。まだ、抜くべき場所ではない。
赤橋を渡りきる頃、フェリカが低く言った。
「帝国の剣闘士」
「何だ」
「こっち側では、勝手に剣を抜くな。柄を触るのもやめた方がいい」
「相手による」
「そこは、分かった、でいいんだよ」
「分かった」
フェリカは少しだけ目を細めた。
「本当に分かってる?」
「まだ斬っていない」
「そういう話じゃない」
市場の騒ぎの中で、フェリカのため息はすぐに消えた。
二人は獣人街へ続く通りへ入った。
背後では、赤橋市場のざわめきがまだ続いている。その中に、甘い香料の匂いだけが細く残っていた。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




