獣人フェリカ
翌朝、グラムは開拓の礎で朝食を取ってから、ギルドへ向かった。
昨日の帰り道、誰かに見られていた。
殺気ではなかった。追ってくる気配もない。ただ、背中に残る視線だった。
気にするほどのことではない。
そう思ったが、忘れてはいなかった。
ギルドの扉を開けると、朝の受付はすでに混んでいた。依頼板の前では若手が札を選び、奥では素材場のダリオが誰かを怒鳴っている。リーナが紙束を抱えて走りかけ、グラムに気づいて足を止めた。
「あ、おはようございます。」
「ああ」
リーナはそう言って、また奥へ走っていった。
受付の方へ行こうとしたところで、グラムは依頼板の前に立つ獣人を見つけた。
灰色の毛並み。長い鼻面。革鎧の上に、くたびれた外套。人間の頭に耳と尾がついているのではない。二本足で立つ狼に近い体つきだった。
周囲の冒険者が、少しだけ距離を空けている。
昨日、ギルドを出る時に感じた視線と、よく似ていた。
グラムはその背中へ近づいた。
「昨日見ていたのは、お前か」
狼獣人の耳が動いた。
ゆっくり振り返る。黄色がかった目が、グラムを正面から見た。
「気づいてたのか」
「露骨だった」
「気味悪いな」
「そうか」
「褒めてない」
近くで札を掛け替えていたモーリスが、顔をしかめた。
「朝から依頼板の前で火花を散らすな。邪魔だ」
「散らしてない」
狼獣人が短く返す。
「お前の顔は、黙ってても散るんだよ、フェリカ」
フェリカ。
それが彼女の名らしい。
フェリカはモーリスを無視して、もう一度グラムを見た。
「あんたがグラムか」
「ああ」
「帝国の剣闘士」
「そうだ」
フェリカの鼻先が、わずかに歪んだ。
「否定しないんだな」
「事実だ」
「獣人も斬ったか」
ギルド内に緊張が走る。受付の方で、リーナが紙束を落としかけた。ミレーヌは羽ペンを置いたが、すぐには口を挟まなかった。
グラムは少しだけ黙った。
闘技場には、獣人もいた。人間もいた。魔獣も、人獣もいた。名前を呼ばれた者もいる。呼ばれなかった者もいる。
選べたことは、一度もなかった。
「闘技場では、相手を選べなかった」
フェリカは目を細めた。
「便利な言い方だな」
「そうか」
「本当に、そういうところが気に入らない」
モーリスが依頼札を一枚持ち上げた。
「続きは外でやれ」
奥から赤札担当のハイゼが出てきた。片目の下に古い傷がある男だ。昨日の人獣報告を処理した時と同じように、黙々と自分のするべきことをこなしている。
「フェリカ。厄介ごとを起こすなと言ったはずだ」
「まだ起こしてない」
「さっきのが厄介ごとでないとでも?」
「ちょっと会話しただけだ」
「どうだかな」
フェリカは舌打ちした。
ミレーヌが受付台から回り込み、一枚の紙をハイゼへ渡す。
「昨夜、獣人街の手前で職人が一人戻っていません。家族から届けがありました」
「現場は」
「旧石壁沿いの職人通りです。夜に裏道を使ったようです」
「人獣の可能性は」
「昨日の件があるので、無いとは言い切れません。ただし、まだ何も決まったわけではありません」
フェリカはその言葉に、口を挟まなかった。
ただ、外套の袖を握る手に力が入っていた。
「もう騒いでる」
彼女が低く言う。
「昨日出た人獣の話が、獣人街の話になってる」
ミレーヌは視線を下げた。
羽ペンを持っていない手が、受付台の端を軽く押さえている。
「だから、早く事実を確認する必要があります」
ハイゼは赤い札ではなく、通常の調査札を取り出した。その端にだけ、小さな赤線を引く。
「調査依頼だ。人獣と決まったわけじゃない。単独行動は禁止。フェリカ、受けろ」
「言われなくても」
「言われる前に一人で行こうとするから言っている」
ハイゼはそこでグラムへ目を向けた。
「グラム。お前も同行候補だ。昨日のヴォイスエイプで、人獣の声真似を見ている」
「分かった」
フェリカはグラムを見上げるように睨んだ。
「帝国の剣闘士と並んで歩けって?」
「別の奴にするか」
「探してる間に、また一人消えたらどうする」
「なら俺が行く」
「……チッ」
モーリスが依頼札を板へ掛けた。
獣人街周辺失踪事件の調査。
推奨ランクD。
人獣の可能性あり。単独行動禁止。
札の文字を見た冒険者が、少しだけざわつく。
人獣。獣人街。
二つの言葉が並ぶだけで、空気が変わる。
グラムはフェリカを見た。
昨日のヴォイスエイプとは違う。見た目も、立ち方も、目の動きも、まるで違う。
同じものとして見る方が難しい。
「人獣と獣人は違う」
そう言うと、フェリカの耳がわずかに動いた。
「誰に言ってる」
「誰にもいってない」
フェリカはしばらく黙った。
怒るかと思ったが、怒らなかった。鼻で短く息を吐いただけだった。
「……それを、街の連中にも言えるならいいけどな」
ミレーヌが紙を差し出す。
「今日は現場確認だけです。日が高いうちに戻ってください。無理に奥へ入らないこと。声が聞こえても、すぐ追わないこと」
「昨日と同じか」
グラムが言う。
「同じとは限りません。でも、急いで間違えるよりはましです」
その言い方は、いつもの受付の声だった。少し疲れているが、乱れてはいない。
フェリカは依頼札の控えを受け取り、くしゃりと折りかけて、ミレーヌに見られているのに気づいた。少しだけ手を止め、折らずに外套の内側へ入れる。
「行くぞ」
「ああ」
二人がギルドを出ると、朝の通りはもう人で埋まり始めていた。
フェリカは半歩前を歩いた。案内のためか、警戒のためかは分からない。通りの端で野菜を並べていた女が、彼女を見て声を落とす。向かいの店では、扉が少しだけ早く閉まった。
市場を抜け、職人通りへ入ると、空気が少し変わった。木屑と油の匂いが強くなり、道端には修理待ちの荷車や壊れた椅子が積まれている。獣人街へ向かう古い石壁は、その先に黒く見えていた。
フェリカは足を止めた。
「ここから先、騒ぐな」
「騒がない」
「剣もすぐ抜くな」
「相手による」
「そこは、分かった、でいいんだよ」
「分かった」
路地の奥に、倒れた籠があった。
木片が散り、壁には何かが擦れた跡が残っている。血は少ない。だが、人が急に消えた場所にある、妙な空白だけはあった。
フェリカが鼻先を上げる。
「人間の匂い。木屑。油。あと……知らない匂いが少し」
グラムは壁際にしゃがんだ。
昨日の森とは違う。声はしない。爪跡もはっきりしない。それでも、誰かがここで抵抗した跡はある。
「ここで消えたのか」
「たぶんね」
フェリカの声が、少しだけ低くなった。
「帝国の剣闘士」
「何だ」
「私の後ろに立つな」
「なぜだ」
「落ち着かない」
グラムは一歩、横へずれた。
フェリカは横目でそれを見て、何も言わなかった。
まだ仲間ではない。
だが、同じ依頼書に名前が並んでいる。
二人は路地の奥へ進んだ。
朝のざわめきが、背中の方で遠くなっていく。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




