帰る理由
何日か投稿が空いてしまいました
すみません!
赤橋市場を抜けると、通りの匂いが変わった。
焼いた肉と香辛料の匂いが薄れ、革をなめす油と、削った木の粉の匂いが混じる。店先には作業用の手袋や革紐が吊られ、半端な木材を積んだ荷車が道端に寄せられていた。
フェリカは、人の流れを避けるように歩いていた。迷いはない。
「ここは革工房通り」
「革の店が多い」
「見れば分かるでしょ」
「分かる」
「なら言わなくていい」
フェリカはそう言ってから、少しだけ鼻を鳴らした。
「ここから先が白壁通り。人間の職人が多い。獣人街に出入りする連中もいるけど、昨日から空気が悪い」
「空気」
「見れば分かる」
今度はフェリカが言った。
グラムは黙って前を見た。
白壁通りは名前の通り、壁を白く塗った店が並ぶ通りだった。金具屋、木工屋、革職人の店。扉を半分だけ開けている店もあれば、締め切ったままの店もある。
フェリカが通ると、視線が向いた。
すぐに逸らす者もいれば、じっと見る者もいた。昨日の人獣の話が、ここまで伝わっているのだろう。
路地の手前に、王都警備隊の男が二人立っていた。
紺色の上着に、革の胸当て。片方は若い。もう片方は四十前後で、短く刈った髪に疲れた目をしている。彼はフェリカを見ると、眉をわずかに動かした。
「フェリカか」
「オスカー。まだ残ってたんだ」
「残るだろ。家族が帰らないって騒いでる。店も閉められない。おまけに見物人だけ増える」
オスカーと呼ばれた男は、そこでグラムを見る。
「そっちは?」
「ギルドの同行者」
「名前は」
「グラム」
オスカーは何か言いかけて、やめた。
帝国。剣闘士。人獣殺し。
そのあたりの言葉が、彼の顔の上を一度だけ通って消えた。
「……ギルドがつけたならいい。中へ入れ。ただし、勝手に物に触るなよ」
「見るだけか、わかった」
路地は狭かった。
両側の壁が高く、朝なのに薄暗い。地面には削りくずが落ち、倒れた籠の中から革紐がこぼれている。
籠は倒れている。壁には擦れた跡がある。地面には片膝をついたような汚れが残っている。
それなのに血は少ない。
人が一人消えた場所にしては、静かすぎた。
「失踪したのは、マルク・ダナン。革職人だ」
オスカーが言った。
「昨日の夕方、獣人街側の作業場へ納品に行った。その帰りに、ここを通ったらしい。家へ戻らず、今朝になって妻が届け出た」
「目撃は」
フェリカが聞く。
「ここへ入る姿を、向かいの金具屋の小僧が見た。出るところは誰も見ていない」
「声は」
「聞いていない。騒ぎもなしだ」
フェリカは壁際へ寄り、鼻先を上げた。
獣人の顔は人間とは違う。耳も、鼻も、口元も、すべて狼に近い。人間のような表情は読みづらい。だが、今のフェリカが嫌なものを嗅いでいることだけは分かった。
「……甘い。さっきの市場より濃い」
「香料か」
「たぶんね。不快な匂い」
グラムは地面を見た。
靴跡は多い。職人、警備隊、見物人。昨晩何があったのか、判断するのは難しそうだった。
それでも壁際は、乱れが少なかった。
片足だけ深い跡。
擦れ。
その先で、靴跡が消えている。
「上か」
グラムが言うと、フェリカとオスカーが同時に顔を上げた。
壁の途中に、わずかな擦り跡があった。人が普通に登るには高い。だが、石の継ぎ目を使えば届かない高さではない。さらに上、屋根の端に薄い黒い汚れが残っている。
「マルクが登った?」
フェリカが言う。
「違う」
「なんで」
「足跡が少なすぎる」
オスカーは若い隊員へ目を向けた。
「屋根の上、見たか」
「いえ。まだです」
「裏から回れ。裏には登れる場所があったはずだ」
「はい」
隊員が走っていく。
その足音に、路地の外から女の声が重なった。
「その獣人に、何が分かるんですか」
フェリカの耳が動いた。
路地の入口に、一人の女が立っていた。髪をきちんとまとめているが、目元は赤い。手には革の前掛けを握っている。眠っていないのだろう。声だけが妙に尖っていた。
「ビアンカ」
オスカーが低く言う。
「ここへ入るなと言ったはずだ」
「夫が消えた場所です。入ってはいけない理由がありますか」
「調査中だ」
「その調査が終わったら、夫は帰ってくるんですか」
オスカーは黙った。
ビアンカの目がフェリカへ向く。
その目には疑念が色濃く写っている。
「昨日の人獣も、獣人街の近くだったんでしょう」
「北西街道だ」
フェリカが答える。
「でも、皆そう言っています。人獣だとか、獣人だとか、私には分かりません。ただ、夫は獣人街へ行った帰りに消えたんです」
フェリカは言い返さなかった。
握った拳が、少しだけ強く絞まる。
グラムはビアンカを見た。
戦いに来た顔ではない。剣も持っていない。だが、言葉は人を刺す。
刺したあとで、自分でも苦しそうな顔をしている。
「見ていない」
グラムが言うと、ビアンカがこちらを見た。
「何をですか」
「犯人を」
「……」
「なら、まだ決められない」
ビアンカの口が開きかける。
だが、言葉は出なかった。
フェリカが横で、小さく息を吐いた。笑ったのではない。怒ったのでもない。たぶん、少しだけ力が抜けたのだ。
オスカーが一歩、ビアンカの前へ出た。
「奥さん。今ここで誰かを責めても、マルクは戻らない。だから調べている」
「調べて、どうなるんですか」
「何があったかを突き止める。そしてマルクを連れ戻す」
ビアンカは前掛けを握ったまま俯いた。
その肩が小さく震える。
「……あの人、昨日、納品が終わったら早く帰るって言ったんです。新しい靴を直す約束をしていて」
「誰の靴だ」
グラムが聞いた。
ビアンカは一瞬だけ変な顔をした。
なぜそこを聞くのか、分からなかったのだろう。
「私のです。古い靴で、かかとが減っていて……」
「その靴はあるか」
「え?」
「マルクが直す予定だった靴だ」
ビアンカは戸惑ったまま、店の方を見た。
「家にありますけど」
フェリカがグラムを見る。
「何で靴?」
「約束があるなら、帰る理由になる」
「……ああ」
フェリカは合点がいったようだった。
「つまり、自分でどこかへ逃げた可能性は低いってこと?」
「たぶん」
ビアンカの顔が少しだけ変わった。
怒りではない。泣きそうな顔でもない。さっきより、ほんの少しだけ息ができる顔だった。
路地の奥から、隊員が戻ってきた。
「オスカー隊長。屋根の上に擦れ跡がありました。北側へ続いています。ただ、途中で瓦が濡れていて、そこから先は分かりません」
「分かった。下り口を探せ」
「はい」
フェリカはもう一度、壁際へ寄った。
甘い香料の匂いが強い場所。靴跡が消えた場所。屋根へ上がった擦れ。
「誰かが、ここでマルクを連れて行った」
「誰か、ではないかもしれない」
グラムが言う。
「何か、って言いたいの?」
「人間に見えるものなら、昨日見た」
フェリカは返事をしなかった。
ただ、耳だけが少し後ろへ倒れる。
オスカーは二人を見た。
「ギルドには、こちらからも報告を出す。勝手に夜に調査したりするなよ。人が多い時間帯だけにしておいてくれ。お前らまで消えられちゃかなわん」
「分かってる」
フェリカが言う。
「本当にか?」
「うるさいな。分かってるって」
オスカーは疲れたように眉を下げた。
「フェリカ。お前が焦ると、周りも騒ぐ。顔役たちにも話を通しておけ」
「ガルバの所へ行くつもり」
「なら早く行け。ここは警備隊で押さえる」
ビアンカが小さく顔を上げた。
「ガルバさん……熊獣人の?」
「知ってるのか」
グラムが聞く。
「夫の革を、よく買ってくれていました。怖い顔だけど、代金はいつもきっちり払う人です」
フェリカが鼻を鳴らした。
「本人に言ったら喜ぶよ。怖い顔ってところ以外は」
ビアンカはほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、というには弱い。
それでも、さっきよりは人の顔に戻っていた。
フェリカは踵を返した。
「行くよ」
「ああ」
二人が路地を出ると、外の通りには人が増えていた。誰も正面から話しかけてこない。だが、目だけが追ってくる。
フェリカはそれを無視して歩いた。
グラムは横につく。
「さっきの」
「何だ」
「靴の話」
「おかしかったか」
「いや」
フェリカは少しだけ歩調を落とした。
「見直したよ」
「そうか」
「ちょっとだけだ。まだ剣闘士を信用したわけじゃない」
「そうか」
赤橋市場のざわめきが遠ざかり、獣人街の方から革を叩く音が聞こえてくる。
甘い香料の匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。
フェリカは何も言わなかった。だが、足はまっすぐ、熊獣人の革工房へ向いていた。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




