声の正体
森の奥から、もう一度声がした。
「助けてくれ……こっちだ……」
商人が荷車の陰で息を呑む。馬も耳を立て、落ち着きなく蹄を鳴らした。
セイルはすぐに剣を抜かなかった。片手を上げ、荷車の周りにいた全員を止める。
「ミラ、左。ユーリ、後ろ。ガドは荷車の前」
「了解」
三人は返事だけして動いた。大声は出さない。ミラは木立の左へ矢を向け、ユーリは来た道を見張る。ガドは斧を低く構え、御者と馬の間に立った。
グラムも剣の柄に手を置いたまま、森を見た。
声は弱い。怪我人が助けを求めているようにも聞こえる。だが、近づいてくる足音がない。枝を折る音も、地面を擦る音もない。
「誰かいるんだろ?」
ガドが声を落として聞く。
「いる」
「なら行くか」
「待て」
グラムが短く言うと、ガドは眉を上げた。
「なんでだよ。怪我人ならまずいぞ」
「何かがおかしい」
セイルが横目でグラムを見る。
「どういう意味だ」
「苦しそうに聞こえる。だが、息が一切乱れてない」
ミラが小さく舌打ちした。
「嫌な言い方するね。でも、私も変だと思う。さっきから声の高さが同じ。怖がってる人間の声なら、もう少し震えてもおかしくない」
ユーリが矢をつがえたまま言った。
「断定するにはまだ早い」
セイルは低く答え、倒れている木箱へ目を向けた。
休憩場は荒らされていた。荷箱は割れているが、中の商品は半分ほど残っている。盗賊なら持っていくだろう。マナウルフなら食い荒らす跡がもっとある。血は少ないのに、地面には人を引きずった跡があった。
ミラがしゃがみ込み、泥に残った靴跡を指でなぞる。
「一人分だけ森に向かってる。途中から足跡が乱れてるね。自分で歩いたんじゃない。たぶん、引っ張られてる」
「マナウルフの跡は?」
セイルが聞く。
「ある。でも荷馬を追った跡じゃない。休憩場を荒らしたあと、すぐ離れてる」
ユーリが壊れた箱を覗き込む。
「水袋も干し肉も残っています。人をさらうためだけに荒らした、とは言い切れませんが……妙ですね」
ガドが斧の柄で肩を叩いた。
「面倒な現場だな。普通に狼が食った、で終わってくれりゃ楽なのに」
「楽じゃないから呼ばれたんだろ」
セイルは商人へ向き直る。
「ここを使う小荷隊に、荷運びが一人いたんだな」
「は、はい。若い男です。門でも一緒に出るのを見ました。名前は……エド、だったと思います」
森の奥から、また声がした。
「エドだ……足をやった……動けない……」
商人の顔色がさらに悪くなる。
「今、名前を……」
「聞いていたかもしれない」
グラムはそう言った。
ガドが嫌そうに顔をしかめる。
「おいおい、やめろよ。そういうのは夜に酒場で聞く話だろ」
「酒場なら金が取れるね」
ミラは軽く返したが、矢の先はしっかりと声の方を向いている。
セイルは短く息を吐く。
「荷車はここから動かすな。相手が怪我人でも、化け物でも、まず荷を守る。ミラ、姿を見たい」
「任せて」
ミラは矢を一本、声のした少し手前の木へ放った。矢は幹に当たり、乾いた音を立てる。
沈黙。
次の瞬間、茂みの奥で草が揺れた。
「……やめてくれ。撃たないでくれ」
声と一緒に、人影が現れた。
頭巾をかぶった若い男に見えた。片足を押さえ、木の根元に座り込んでいる。服は破れ、顔には泥がついている。遠目なら、襲われて逃げ込んだ荷運びに見えなくもない。
ガドが一歩出かけた。
「待て」
今度はセイルが止めた。
「エドだな。どこの隊だ」
男は顔を上げた。
「西の……小荷隊……早く、血が……」
「荷主の名前は」
「……荷主?」
わずかな間があった。
その間に、グラムは男の手を見た。
泥に汚れている。だが、爪の先だけが異様に鋭い。布で隠しているつもりなのか、指を丸めている。しかし、痛がる人間の手つきではない。地面を掴む獣の手だ。
それに、目線が違う。
助けを求める人の目ではない。まるで、あの時の。
「違う」
グラムが言うと、男の目だけがこちらへ向いた。
「助けて……」
「荷運びじゃない」
その言葉が終わる前に、男が跳んだ。
座り込んでいた姿勢から、ありえない速さで地面を蹴る。頭巾が外れ、耳の形が露わになる。人間に似せた顔の奥で、口が裂けるように開いた。
商人が悲鳴を上げた。
「人獣だ!」
ユーリの矢が飛ぶ。だが、人獣は横へ跳ねて避けた。ミラが続けて放った矢が肩をかすめる。
人獣は真っ直ぐグラムへ来なかった。荷車の方へ走る。御者の悲鳴、馬のいななき。ガドが斧を振り上げる。
「ガド、馬の前に出るな!」
セイルが叫ぶ。
「分かってる!」
ガドは斧を振らず、柄で馬の横へ飛び込んだ人獣を押し返した。人獣の爪が斧の柄を削る。そこへグラムが入る。
剣を抜く。
人獣は爪を伸ばし、グラムの首元を狙って跳ね上がった。
爪は速い。だが、反応できる。
上体を逸らしたグラムの頬を爪が掠る。
「浅い」
グラムが呟く。
「逃げるぞ!」
ミラが叫んだ。
人獣は木立の奥へ飛び込む。その直前、男の声で泣いた。
「助けてくれ……こっちだ……」
同じ声だった。
商人が震えながら耳を塞ぐ。ガドは吐き捨てるように言った。
「ふざけやがって」
逃げた人獣の足跡は、ほんの少しだけ地面に残っていた。人間の靴ではない。指の跡が深く、爪の先で土を引っかいている。
その脇に、細い革紐が落ちていた。荷箱を縛るものではない。小さな木札がついていて、泥で汚れた字がかろうじて読める。
「エド」
ユーリが拾い上げようとして、すぐ手を止めた。
「触らない方がいいですね」
「毒でも塗ってあるのか?」
ガドが嫌そうに言う。
「分かりません。ただ、あいつがわざと落とした可能性もあります」
ミラが視線を森から外さずに答えた。
「本物の荷運びが持っていた物かもしれない。どっちにしろ、奥に何かある」
セイルは木札を棒の先で寄せ、布に包んだ。
「追うか?」
グラムがセイルを見る。
セイルはすぐには答えなかった。倒れた木箱、怯えた馬、荷車の車輪、森へ続く足跡を順に見る。
「全員では追えない。商隊を置いていけばそちらが狙われる」
「なら、俺が行く」
「グラム、貴方一人では行かせられない」
ミラが矢筒を叩く。
セイルは短く頷いた。
「ならミラとグラムで追ってくれ。俺は少し後ろから行く。ユーリとガドはここを守れ。声が聞こえても動くな」
「言われなくてもな」
ガドは斧を構え、荷車の前に立った。
グラムは森の奥を見た。
声はまだ続いている。弱く、哀れで、助けを求める声。だが、その奥に獲物を待つ気配がある。
「声は聞くな」
ミラが言った。
「動きだけに集中しろ」
「分かった」
グラムは剣を握り直した。
荷運びの声が、木々の間からまた流れる。
「こっちだ……早く……」
グラムはそれに返事をせず、折れた枝と浅い足跡だけを追って、森へ踏み込んだ。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




