第9話
「ぐ、あああっ……!? は、離せ、折れる、折れるっ!」
ルパートは白大理石の床に膝をつき、情けない悲鳴を張り上げた。
マティアス閣下は相手の腕を押さえたまま、私兵に佩剣を外させた。抵抗がやむと、それ以上は力を加えなかった。
「伯爵邸への不法侵入。ならびに、私の婚約者に対する暴力未遂。……近衛騎士団の小隊長ともあろう者が、随分と華々しい軍法違反を重ねてくれるな、カークランド」
怒鳴り声ではなかった。それでも、その場の全員に聞こえた。
見上げるルパートの顔は、激痛と恐怖で土気色に染まっていた。
「か、閣下……! 誤解です、誤解なんです……! 俺はただ、自分の婚約者を連れ戻しに来ただけで……!」
「婚約者?」
マティアス閣下の紫水晶の瞳が、侮蔑を孕んで細められた。
「ペンデルトン伯爵家との仮誓約は、すでに先週のうちに王室法務院の承認を得て正式に破棄され、貴殿の父上にも送達済みだ。現在、エディス・ペンデルトンの唯一の婚約者は私だ。……貴殿の脳髄には、今朝伝えたことすら残っていないのか?」
「ひっ……!」
喉元に刃を突きつけられたような殺気に、ルパートの歯の根がガチガチと音を立てる。
だが、ここで引き下がれば自分の人生が完全に終わるという本能的な焦りが、ルパートに最後の悪あがきをさせた。
「エディス! エディス、目を覚ませよ!」
ルパートは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、マティアス閣下の背後に立つ私に向かって必死に叫んだ。
「騙されてるんだよ、お前は! こんな冷血漢がお前を本気で愛するわけないだろ!? こいつはお前の実家の後ろ盾や、お前の身体が目当てなんだ! お前のことを一番よく分かってるのは俺だ! 三年間も一緒にいたんだぞ!? 俺たちの思い出を、絆を、こんな男のために捨てるのかよ!?」
思い出。絆。
どの口が、それを言うのか。
マティアス閣下が私を一瞥した。
「エディス、話を続けられるか」
私は頷いた。閣下が手を離すと、私兵がルパートの両脇についた。ルパートは痛む手首を抱え、床に座り込んだ。
私はゆっくりと、一歩前へ出た。
膝をついて見上げてくるルパートの視線を受け止め、首を小さく傾げてみせる。
「私を一番よく知っているのは、ご自分だと?」
大きな声を出す必要はなかった。ルパートは私を見上げ、次の言葉を待っていた。
「な……?」
「では、私があの夜、なぜドレスを着ていたか、お分かりになりますか」
私はクスリと微笑んだ。
かつて彼に向けたことのない、完璧な社交用の、冷え切った笑みだ。
「貴方は私の誕生日すら忘れておられました。私が一番好きな花も、お肉の焼き加減も、靴のサイズも、ドレスの好みも、何一つご存知なかったではありませんか」
「そ、それは……忙しかったからで……!」
「私の十八歳から二十一歳までの時間は、貴方にとって『たった三年』で、都合よく放置していい雑草のようなものだったのでしょう? ……ですが、マティアス閣下は違いました」
私はマティアス閣下の隣に並び、自らその逞しい腕にそっと手を添えた。
閣下が即座に私の腰を引き寄せ、守るように抱き寄せてくれる。その温もりが、たまらなく誇らしく、心地よかった。
「閣下は、ご存じないことを私に訊いてくださいます。何が好きか、どうしたいか。指輪だって、私の指に合うように直してくださいました」
「エ、エディス……」
「貴方の機嫌を取るために、自分の気持ちを黙らせるのはやめましたの」
私はルパートをまっすぐに見下ろし、はっきりと引導を渡した。
「二度と私の前に現れないで。二度と私の名をその汚れた口で呼ばないで。……私にとって貴方はもう、過去に捨てた生ゴミ以下の他人ですわ」
生ゴミ以下の他人。
その言葉が突き刺さった瞬間、ルパートの顔から完全に生気が抜け落ちた。
何か言い返そうと唇を動かし、声が出ないまま俯いた。
「衛兵」
マティアス閣下の冷徹な号令が下った。
東屋を取り囲んでいた私兵たちが、ルパートを立たせた。
「この不審者を門外へ叩き出せ。二度と敷地内に近づけるな。近衛騎士団本部へは、カークランド小隊長の職務放棄および住居侵入の件で、正式に通告を送る」
「はっ!」
「ま、待て……! エディス! 嘘だろエディス! 悪かった、俺が悪かったから! 頼むから戻ってきてくれ! エディスうううううっ!!」
両脇を私兵に抱え上げられ、靴を引きずりながら連れ出されていくルパート。
みっともなく泣き叫び、泥だらけになりながら手を伸ばしてくるその姿は、かつて私が「立派な騎士様」と信じて尽くしていた男の見る影もなかった。
庭の向こうから、鉄門が重々しく閉まる音が響いた。
やがて、狂乱の叫び声も聞こえなくなった。
「怖かったか?」
静寂が戻った庭園で、マティアス閣下が私の顔を覗き込んできた。
さっきまでの冷酷な死神の顔は消え失せ、そこには痛ましいほど私を案じる、優しい男の瞳があった。
「腕を上げられた時は、怖かったです。でも、来てくださったので」
私が微笑むと、閣下は安堵したように深く息を吐き、私の額に優しく唇を落とした。
「よく言ったな、エディス。最高の啖呵だった」
「ふふ、少し言葉が過ぎたかしらと反省しておりますけれど」
「いや、足りないくらいだ」
閣下は紫水晶の瞳を細め、静かに告げた。
「先月の定期検査で、第三小隊の受領簿に不一致が見つかっている。調査は別の監察官が担当しているが、君にも下書きの控えを提出してもらうことになるだろう」
「家に保管してあります。私が作った分は、全部」
「助かる。私が審理に加わることはない。今日のことは、君と同じく証人として話す」
「はい、閣下。……私、もう振り返りません」
私は自分の薬指に輝く、大粒のサファイアを見つめた。
冷え切った過去は終わり、ここから先は、私を尊んでくれるこの人とともに歩むのだと、改めて心に誓った。
その日の夕暮れ。
ハルデンベルク邸の門前で泥まみれになって放り出されたルパートは、痛む手首を抱え、這うようにして王都の酒場街へと流れ着いていた。
財布には小銭が数枚。
軍服は破れ、邸の外で返された剣の鞘も、土に汚れている。
「クソッ……クソッ……! なんで俺がこんな目に……!」
カウンターに突っ伏して安酒をあおるルパートの背中に、甘ったるい香水の匂いが漂ってきた。
「あらぁ? ルパート様ぁ?」
振り向いたルパートの目に映ったのは、派手なドレスを着て、商人らしい若い男の腕に絡みついているアネットの姿だった。




