第10話
酒場のぬるいアルコールの匂いと煙草の煙の中で、ルパートは弾かれたように顔を上げた。
「ア、アネット……!?」
そこに立っていたのは、間違いなくアネット・フォスターだった。
だが、その装いは王宮の事務見習いの慎ましさとは程遠かった。胸元を大きく開けた真紅の派手なドレスに、塗りたくったような濃い紅。
そしてその腕は、裕福そうな商人の若旦那――第三小隊にも物資を納めているトーマスという男の太い腕に、しっかりと絡みついていた。
「アネット! お前、ここにいたのか……! 聞いてくれ、エディスのやつが、あのハルデンベルク閣下に誑かされて――」
藁にもすがる思いで、ルパートは痛む手首を押さえながら立ち上がった。
エディスに捨てられ、すべてを失いかけた今、自分を「頼りになる」と慕ってくれたこの可憐な後輩だけが、唯一の味方のはずだった。
だが、ルパートが手を伸ばした瞬間。
「キャッ! ちょっと、何するんですの!? 汚い手で触らないでくださる!?」
ピシャリ、と甲高い音が響いた。
ルパートの伸ばした手が、アネットの扇子で思い切り叩き落とされる。
「え……?」
ルパートは呆然と立ち尽くした。
アネットはハンカチで自分のドレスの袖をゴシゴシと擦りながら、まるでドブネズミを見るかのような、底意地の悪い目でルパートを睨みつけていた。
「泥だらけの服で近寄らないでよ、不潔ねぇ。せっかく新調したドレスが汚れちゃうじゃない」
「ア、アネット……? 何を言ってるんだ? 俺だぞ、ルパートだ! お前の足の湿布を貼って、家まで送ってやった……」
「はあ? 何それ、いつの話をしてるんですか?」
アネットはあからさまに鼻で嗤った。
甘ったるい舌足らずな喋り方はどこへやら、声を低くして、畳みかけてきた。
「湿布を貼って家まで送ってくれなんて、私、一度も頼んでませんけど? 勝手に『俺が送る』ってついてきたのは貴方でしょう? 頼まれてもないのに押し付けてきて、恩着せがましいにも程があるわ」
「な、なんだと……!? お前、俺に『ルパート様だけが頼りです』って……!」
「そりゃあ、貴方が近衛の小隊長様だったからですよ」
アネットは扇子をパチンと閉じ、あざけるように唇を歪めた。
「帰る前に、本部へハルデンベルク家から通告が届きましたよぉ。 ペンデルトン伯爵令嬢に捨てられた挙句、ハルデンベルク閣下に喧嘩を売って、敷地に不法侵入して犬みたいに叩き出されたんですってね。……本当に引くわ。馬鹿じゃないの?」
「ば、馬鹿……!?」
「当たり前でしょう! 相手は泣く子も黙る『氷の軍監』よ!? あの閣下に睨まれた男が、これからも小隊長でいられるとでも思ってるわけ? 降格確定、下手をすれば追放の落ちぶれ男に、私が何の用があるっていうのよ!」
ルパートの視界が、真っ白に明滅した。
耳を疑うような罵詈雑言。
自分が「可憐で守ってやりたい」と鼻の下を伸ばし、エディスとの三年間を放り出してまで優先した女の口から、今、吐き気を催すような本音が垂れ流されている。
「お前……! 俺を騙していたのか!? 俺が奢った高い飯も、あの真珠の首飾りも……!」
「騙す? 人聞きの悪いこと言わないでくださる? 男が見栄を張って勝手に貢いできただけじゃないの。ねえ、トーマス様ぁ?」
アネットは隣の商人の男にしなだれかかり、上目遣いで甘えた声を上げた。
「この人、エディス様っていう都合のいい女に身の回りのこと全部丸投げして、自分は仕事ができる男気取りしてただけの無能なんですぅ。早くあんな薄汚い男、放っておいて上等なお肉食べに行きましょ?」
「ははは、そうだなアネットちゃん。落ち目の騎士なんかに構ってちゃ時間の無駄だ」
商人の男が下品に笑い、ルパートの汚れた靴を一瞥した。
「ま、待て……! 待てよアネット!!」
去ろうとする二人にルパートが縋り付こうとした、その時だった。
「やっと捕まえたぞ、カークランド小隊長」
ドスン、と重々しい音を立てて、酒場の筋骨隆々とした店主がカウンター越しに立ちはだかった。
その太い手には、長々と書き連ねられた羊皮紙の伝票が握られている。
「な、なんだよ親父……!」
「なんだよ、じゃねえよ。フォスター男爵令嬢が先週からウチで飲み食いした、最高級ワインと熟成肉のツケだ。お前が支払いを引き受けると署名した分だ。締めて、金貨三十枚だ」
「き、金貨三十枚……!? 一週間で、そんなに使うか!?」
伝票にはルパート自身の署名があった。アネットの前で金払いのよさを見せつけたくて、上限も決めずに書いたものだ。
「あらぁ?」
出口の扉に手をかけたアネットが、振り返ってにこやかな笑みを浮かべた。
「ルパート様、前に仰いましたよね? 『アネットの飲み食いする分くらい、男の甲斐性で全部俺が払ってやる』って。男なら、ちゃんとツケくらい払ってくださいねぇ? うふふ、ごちそうさまでしたぁ!」
カランカラン、とドアベルが鳴り、アネットは商人の腕に抱かれて夜の街へと消えていった。
「あ……あ……」
ルパートの口から、掠れた声が漏れる。
金貨三十枚。平騎士の半年分の給与に匹敵する額だ。
懐を探るが、入っているのは銀貨数枚と銅貨ばかり。実家からの祝い金も、アネットとの外食と真珠の支払いで底をついていた。公金から抜いた分も、もう残っていない。
「おい、カークランドの若旦那」
店主の目が、スッと座った。
胸ぐらを乱暴に掴み上げられ、カウンターに叩きつけられる。
「払えねえのか? ああん? 近衛の小隊長の看板ぶら下げて、女に貢いだツケを踏み倒そうってのか!? おい、裏の連中を呼べ! 身包み剥いで騎士団本部に突き出してやる!」
「ま、待て! 待ってくれ! 払う、払うから……! 実家に連絡すれば……!」
みっともなく許しを請いながら、ルパートの脳裏に、かつてのエディスの姿が走馬灯のように駆け巡っていた。
エディスは、一度だって俺に高い服や食事を強請ったことはなかった。
エディスは、俺が小隊長になるために、自分の小遣いを削って特注剣の研ぎ代を払ってくれていた。
エディスは、自分の誕生日を忘れられたのに、冷めたスープを温め直そうとしてくれた。
それを。
俺は、何のために捨てた……?
こんな、ただの金食い虫の悪女に鼻の下を伸ばすために。
自分を心から愛し、三年間も信じて支えてくれた唯一無二の宝物を、自らの手でゴミ箱へ放り投げたのか……!?
「エディス……エディス……!」
酒場の汚れた床に組み伏せられながら、ルパートは涙と鼻水を垂れ流して叫んだ。
だが、何度呼んでも、酒場の扉が開くことはなかった。
店主は騎士団の当直へ使いを出した。迎えに来た憲兵の前で、ルパートは伝票の署名が自分のものだと認め、債務確認書にも名を書かされた。軍医に手首を診てもらったのは、その後だった。
骨には異常がなく、強く捻ったための腫れだという。添え木と包帯を巻かれ、痛み止めを渡されても、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝、ようやく出頭した詰所で、団長はルパートに謹慎を命じた。机の上には軍監府からの召喚状がある。
「第三小隊の会計について、説明してもらうそうだ」
ルパートは包帯の巻かれた手を、机の下へ隠した。今度ばかりは、誰に書類を任せれば逃げられるのか、まるで思いつかなかった。




