第8話
近衛の勤務中であることも、自分がどのようなみすぼらしい身なりをしているかも、ルパートの頭からは完全に吹き飛んでいた。
王都の一等地にそびえ立つ、ハルデンベルク伯爵邸。
黒鉄の重厚な正門の前で、ルパートは息を切らしながら小隊長の身分証を叩きつけた。
「俺は近衛騎士団のルパート・カークランド小隊長だ! エディスに……エディス・ペンデルトンに用がある! 今すぐ通せ!」
「お引き取りください。当主マティアス閣下より、面会のお約束のない者の立ち入りは一切禁じられております」
門番の衛兵二人は、ピクリとも動かない。
普段なら王宮を守る近衛の小隊長など、下級貴族や平民からすれば雲の上の存在のはずだ。だが、ハルデンベルク家の私兵たちは、ルパートをただの不審者を見るような冷え切った目で一瞥しただけだった。
「ふざけるな! エディスは俺の婚約者だぞ!? あいつが勝手にこんな屋敷に入り込んでるんだ、俺が連れ戻すのは当然だろうが!」
「婚約者? ……何を寝ぼけたことを。ペンデルトン様は、当主の婚約者でいらっしゃいます。身の程を弁えなさい」
「なっ……!」
身の程を弁えろ。
門番ごときにそんな言葉を投げつけられ、ルパートは顔を真っ赤にした。
ルパートは正門を離れ、外壁沿いを走った。裏手の通用門で、食材を運ぶ荷車が入っていくのが見える。閉まりかけた門へ肩から体を押し込み、御者の脇をすり抜けた。
「止まれ!」
呼び止める声を無視して走る。門番が笛を吹き、庭師が振り向いた。それでも、エディスに直接話せば済むと信じていた。
手入れの行き届いた広大な庭園。
色とりどりの花が咲き乱れる小道の先、白大理石の東屋に、その人影はあった。
「あ?」
ルパートは思わず足を止め、目を疑った。
東屋の白いテーブルの前に座り、優雅に銀のティーカップを傾けている女性。
身に纏っているのは、今朝届けられた、柔らかな若草色のデイドレスだった。繊細なレースが惜しみなくあしらわれ、上品な金の刺繍が陽光を浴びて煌めいている。
綺麗に結い上げられた栗色の髪には、艶やかなパールのピン。
そして何より――その顔立ちだった。
化粧っ気もなく、いつも疲れたように眉を寄せていたはずのエディスが、まるで別人のように輝いていた。
透き通るような白い肌、手入れの行き届いた長い睫毛、ふっくらと赤みを帯びた唇。
木々の間から差し込む光を浴びて微笑むその姿は、社交界の中心に咲く大輪の薔薇そのものだった。
――あいつ、あんなに綺麗だったか……?
ルパートの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
自分が「地味で頑丈な女」と決めつけ、安い服を着せて陰に押し込めていた女が、たった数日で、自分の手の届かない遠い世界の住人になってしまったかのような錯覚。
だが、その動揺は一瞬で、ドス黒い独占欲と怒りへと塗り替えられた。
(調子に乗りやがって……! ほかの男の金で着飾りやがって! あいつは俺の女だぞ!)
ルパートは芝生を乱暴に踏み荒らし、東屋へと駆け上がった。
「エディス!!」
怒声が庭園に響き渡った。控えていた侍女がエディスの傍らへ寄る。追いついた私兵二人が東屋の入口を塞いだ。
「私から、はっきりお断りします。そばにいてください」
エディスが言うと、私兵の一人は無言で頷いた。もう一人は、正門の方から早足で近づいてくる当主を認め、敬礼した。ルパートは振り返りもしなかった。
エディスは手にしたカップをソーサーへ戻した。カチリと澄んだ音がして、ルパートへ向き直る。
その瞳を見た瞬間、ルパートの背筋にヒヤリとしたものが走った。
驚きも、動揺も、恐れもない。
ただ、道端の泥水を見るかのような、底冷えのするような冷淡さ。
「何の真似ですか、カークランド小隊長。ここはハルデンベルク伯爵家の私有地です。不法侵入ですよ」
「不法侵入だと!? お前、どの口がそんなことを言ってやがるんだ!」
ルパートはテーブルに両手を叩きつけた。ガタガタと銀のポットが揺れる。
「今朝の朝礼で、ハルデンベルク閣下が何て言ったか知ってるか!? お前と婚約しただと!? 全騎士の前で大恥かかされた俺の身にもなってみろ!」
「ええ、知っておりますわ。閣下からそのように伺っておりましたから」
「伺ってただと……!? おい、冗談は大概にしろよエディス!」
ルパートは血走った目でエディスに詰め寄った。
息が荒く、唾が飛び散る。
「当てつけならもう十分だろ!? アネットに嫉妬したからって、こんな大それた狂言にハルデンベルク閣下を巻き込むな! お前が俺にベタ惚れなのは分かってるんだよ! 三年間も俺のために飯を作って、軍服を繕ってきたお前が、俺以外の男と結婚できるわけねえだろ!」
「……」
「分かったよ! 誕生日をすっぽかしたのは悪かった! アネットと飯を食いに行ったのも謝る! これで満足だろ!? だから――」
ルパートはさも寛大な態度を装い、エディスに向かって傲慢に手を差し出した。
「結婚してやるから、今すぐ荷物をまとめて俺のアパートに戻れ」
結婚してやる。
今すぐ戻れ。
その言葉を聞いた瞬間、エディスの唇から、微かな吐息が漏れた。
それは怒りではなく、心の底からの失笑だった。
「……『結婚してやる』、ですか?」
「あ? そうだ! 俺がここまで頭を下げてやってるんだぞ? お前みたいな行き遅れ、俺くらいしか貰い手がいねえんだから感謝しろよ!」
エディスは静かに立ち上がった。
姿勢を正し、ルパートをまっすぐに見るその姿には、凛とした揺るぎない気品があった。
「お断りいたします」
「は?」
「聞こえませんでしたか? お断りすると申し上げたのです。私はもう、貴方と婚姻を結ぶ気など爪の先ほどもございません」
「な、何を言って……!」
「貴方を三年間、お待ちしました。ですが貴方は約束を果たさず、私を蔑ろにし、別の女性を優先された。……もう、私の時間は貴方のためのものではありません」
エディスが右手を胸元に当てた。
その細い薬指に嵌められた大粒のサファイアが、陽光を捉えて青い火花のように眩く輝く。
息が詰まるほどの圧倒的な本物の輝き。
ゴミ箱に放り投げた安物のガラス玉とは、比べものにすらならない家宝の指輪。
「私はすでに、マティアス閣下の正当な婚約者です。二度と私の前に姿を現さないでいただけますか」
「ふざけるな……! ふざけるなよエディス!!」
ルパートの目が、指輪に釘づけになった。
自分の傲慢なプライドを守るため、ルパートは鬼のような形相で腕を振り上げ、エディスの華奢な手首を掴もうと身を乗り出した。
「誰の指輪を嵌めてやがる! 外せ! 力尽くでも連れて帰って――」
その手が、エディスの肌に触れる寸前。
椅子が倒れ、大理石の床に鋭い音を立てた。
「ぎゃああああっっ!?」
伸ばした腕を背後へ捻り上げられ、ルパートは膝から崩れた。痛みから逃れようともがくほど、肩と手首に力がかかった。
横を見上げると、そこには――
漆黒の軍服を纏い、地獄の底から這い出た死神のような冷たい笑みを浮かべた、マティアス・ハルデンベルク伯爵が立っていた。




