第7話
翌朝の王宮練兵場は、早朝の冷たい靄に包まれていた。
近衛騎士団の第一から第四小隊、総勢百名を超える騎士たちが整列している。
その列の先頭で、ルパート・カークランドは激しい頭痛と寝不足に苛まれていた。
「くそっ、なんで居留守なんて使いやがるんだ……」
昨日の夕方、ルパートは文句を叩きつけてやろうとペンデルトン伯爵邸へ向かった。
だが、門番に「当主も令嬢も不在です。面会のお約束のない方の立ち入りはお断りします」と冷たく追い返されたのだ。
部屋に戻れば足の踏み場もないゴミの山。結局、昨夜も泥のついた靴を磨こうともせず、外れたボタンもそのままに登城する羽目になった。
おまけに、昨日の補給申請書は副隊長が残業して仕上げ、主計課へ届けたという。今朝は団長から、職務を放り出した理由を報告せよと命じられていた。
「ルパート様ぁ、あくび出ちゃいますねぇ。朝礼なんて早く終わればいいのにぃ」
列の端で、事務見習いのアネットが呑気に小声で囁いてくる。
普段なら「可愛いな」と笑って流せただろうが、今朝ばかりは苛立ちしか湧かなかった。
「静かにしろ。今日は軍監閣下が来られるんだ」
その時、練兵場の正門が重々しい音を立てて開いた。
空気が、一瞬で凍りついた。
私語を交わしていた騎士たちが一斉に直立不動の姿勢を取り、息を呑む。
近衛騎士団長を従えて歩いてきたのは、漆黒の軍礼装を纏ったマティアス・ハルデンベルク伯爵だった。
乱れのない銀の飾緒、胸元に光る黒鷲の勲章。冷徹な美貌には笑みの一つもなく、ただ歩くだけで周囲の空気を切り裂くような圧倒的な威圧感を放っている。
「総員、軍監閣下に敬礼!」
団長の号令が響き、全員が一糸乱れぬ敬礼を捧げる。
壇上に立ったマティアス閣下は、紫水晶の冷ややかな瞳で練兵場を見下ろした。その視線がわずかに自分を掠めたような気がして、ルパートは思わず喉を鳴らした。
――相変わらず恐ろしい男だ。
あんな感情のなさそうな冷血漢が、エディスみたいな地味女に興味を持つはずがない。やはりあの招待状は、エディスがついた稚拙な嘘に決まっている。
ルパートは密かにそう思い直し、胸の内で安堵の息を吐いた。
「春季通常警邏における人員配置、ならびに補給計画の確認を終えた。各隊、遺漏のないよう訓練に励むように」
マティアス閣下の低く通る声が、練兵場に響き渡る。
事務的な訓示が終わり、団長が前へ出た。
「以上で本日の朝礼を終了――と、したいところだが。最後に、軍監閣下より直々に、訂正のお知らせがあるとのことだ」
何の訂正だ?
ルパートは眉をひそめた。
騎士たちの間に、ざわりと微かな動揺が走った。
マティアス閣下が、再び演壇の中央へと歩み出る。
その表情が、ほんのわずかに、誇らしげに緩んだのを、ルパートは見逃さなかった。
「私の家から出した招待状について、偽物だという話が広まっていると聞いた。誤解を正しておく」
マティアス閣下は静かに告げた。
「先週、私マティアス・ハルデンベルクは、ペンデルトン伯爵家長女、エディス殿と正式に婚約を結んだ」
――時が、止まった。
ルパートの頭の中で、パーン、と何かが弾け飛ぶ音がした。
ペンデルトン伯爵家長女。
エディス。
正式に婚約。
「な……?」
声にならなかった。
耳の奥で、キーンと甲高い金属音が鳴り響く。
「来月、王都大聖堂にて結婚式を執り行う。近衛騎士団の諸君にも、ぜひ祝っていただきたい」
マティアス閣下の言葉が終わった瞬間、練兵場のあちこちで声が上がった。
「ハルデンベルク閣下が……ご婚約!?」
「ペンデルトン伯爵令嬢って……おい、あのエディス様か!?」
「待てよ、エディス様ってカークランドの婚約者じゃなかったのか!?」
「おいカークランド! どういうことだ!?」
同僚たちの視線が、一斉にルパートへと突き刺さった。
先週、休憩室で招待状を見て笑っていた騎士たちが、青ざめた顔で隣の列を振り向く。
「おい、カークランド! あ、あの招待状、本物だったのかよ!?」
「嘘だろ!? お前、ハルデンベルク閣下に婚約者を奪われたのか!?」
「奪われたんじゃない、あいつが浮気して捨てられたんだろ!」
「ち、違う……!」
ルパートはガタガタと震える唇を開いた。
視界がぐにゃりと歪む。手足の先から血の気がサーッと引いていく。
「違う、嘘だ……! エディスが俺を捨てるはずがない! あいつは俺にベタ惚れで、三年も待ってたんだぞ!? 何かの間違いだ、ハルデンベルク閣下が騙されているんだ!」
狂ったように叫ぶルパートの声を遮るように、壇上から冷徹な声が降ってきた。
「カークランド小隊長」
ビクリ、とルパートの身体が跳ねた。
壇上のマティアス閣下が、冷酷極まりない瞳で、まっすぐにルパートを見下ろしていた。
その表情は、まるで道端に転がる汚物を見るかのようだった。
「招待状は、すでに貴殿のアパートの郵便受けにも届いているはずだが。……届いていなかったか?」
「あ、閣下、それは……! あれは、エディスの悪質な悪戯で……!」
「悪戯なものか。私が貴殿の宛名を書き、家の印を押したものだ」
マティアス閣下は冷ややかに口元を歪めた。
「旧来の仮誓約は解除されている。彼女が誰かを騙したという事実もない。本人にも、ご家族にも確かめずに名誉を傷つける発言をするな」
ルパートは口を開けたまま、返す言葉を見つけられなかった。
あの招待状を振り回して笑っていたのは自分だ。彼女が泣いて戻ると言い切ったのも、自分だった。
誰かが目を逸らした。その気遣いが、笑われるより堪えた。
「ひっ……」
横にいたアネットが、恐怖に顔を引きつらせてルパートから二歩、三歩と後ずさった。
「ル、ルパート様……? ハルデンベルク閣下を怒らせたんですか……? 私、関係ありませんからね……!?」
「ア、アネット……? おい、待てよ……!」
取り縋ろうとしたルパートの手を、アネットは振り払うようにピシャリと叩き落とした。
周囲からは、押し殺した笑いが聞こえた。
『あんな地味女、ハルデンベルク閣下が相手にするわけがない』と豪語していた先週の自分が、どれほど滑稽で、哀れなピエロだったか。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
これ以上、周囲の顔を見ていられなかった。
「エディス……! お前、俺に無断で何やってんだよ!!」
朝礼の解散号令も待たず、ルパートは狂ったように練兵場を飛び出した。
目指すは一つ。ハルデンベルク伯爵邸だった。
「止まれ、カークランド! まだ勤務中だぞ!」
団長の制止にも振り返らない。マティアスはすぐに近侍へ命じ、屋敷への先触れを走らせた。自らも団長に後を任せ、馬を用意させた。




