第6話
ハルデンベルク伯爵邸へ移って、一週間が過ぎた。その日の午後、陽光が差し込む広間で、私は立ち尽くしていた。
目の前には、王都一番と名高い高級服飾店『メゾン・ロラン』の店主と、十人もの針子たちが控えている。
絨毯の上には、目も眩むような色とりどりの絹織物、最高級のレース、そしてベルベットの布地が山のように積み上げられていた。
「ペンデルトン様、まずはどの生地からお身体に当ててみましょうか? 閣下からは『王都にある最高の素材をすべて持って行け』と仰せつかっておりますのよ」
ふくよかな女店主が、満面の笑みで私に歩み寄ってくる。
私は気後れして、思わず半歩後ずさった。
「あ、あの……マダム・ロラン。このような上等な生地は、私には少し華美すぎるのでは……。もっと落ち着いた、地味な色合いのもので十分ですわ」
思わず口をついて出た言葉に、女店主がきょとんと目を丸くした。
無理もない。
この三年間、私のドレス選びの基準は常に『安さ』と『目立たないこと』だった。
『お前は派手な格好なんて似合わないよ。質素で大人しくしてるのが一番だ』
『俺が小隊長に昇進するまでは節約しろ。金のかかる女はみっともないからな』
ルパートにそう言われ続け、私は毎年、同じ型の灰青色やモスグリーンの地味なドレスを仕立て直し、着回していた。夜会に出ても、壁際で目立たないように息を潜めていた。
それが『良妻賢母の美徳』だと信じ込まされていたのだ。
「地味な色が好きなら、それもいい。だが、似合わないからと諦める必要はないだろう」
不意に、広間の重厚な扉が開き、低く澄んだ声が響いた。
執務服を脱ぎ、上質なカシミアの上着を羽織ったマティアス閣下が歩み寄ってくる。
針子たちが一斉に深々とカーテシーをした。
「か、閣下……。ですが、私のような行き遅れに、これほどの贅沢は身分不相応です。無駄金を使わせてしまうのは申し訳なくて……」
「無駄金?」
マティアス閣下は私の前で足を止めると、形の良い眉をわずかにひそめた。
怒っているのではない。その紫水晶の瞳には、胸を締め付けられるような痛ましさが滲んでいた。
「エディス。新しい服を選ぶのに、あの男へ遠慮することはない」
マティアス閣下は女店主に声をかけた。
店主が恭しく差し出したのは、息を呑むほど深い、夜空の群青色をしたシルクのドレスだった。銀糸で繊細な星芒の刺繍が施され、動くたびに夜露のような輝きを放っている。
「当ててみないか」
促されるまま、針子たちが私の身体にそのドレスを重ねる。
大きな姿見の前に立たされた私は、そこに映る自分の姿に言葉を失った。
地味で、華やかさに欠けると思っていた自分の肌が、深い青に引き立てられて雪のように白く透き通って見える。結い上げられた髪の艶が、銀糸の輝きと重なって、まるで夜会の主役のような気品を放っていた。
「あいつの目は節穴だな」
私の背後に立ったマティアス閣下が、姿見越しに私を見つめ、低く囁いた。
大きな手が私の肩に置かれ、温かい熱がじんわりと伝わってくる。
「よく似合っている。私の目には、そう見える」
私は鏡越しに彼を見た。ドレスを褒めた後も、閣下は私の顔を見ていた。
「だが、私が褒めたからといって、これに決めることはない」
マティアス閣下は私の肩から手を離し、私の目線の高さまで腰を落として覗き込んできた。
「エディス、君はどちらが好きだ? この深い青と、あの若草色なら」
「私が、好きな方ですか?」
「そうだ。私の顔色など見ずに選んでくれ」
若草色の布を指で撫でる。こちらも気になっていたのだと、ようやく口にしてよい気がした。
「こちらの、深い青のドレスが着てみたいです。そして、普段の庭園のお散歩には、あの若草色のドレスを仕立てていただきたいですわ」
「散歩にも、私を誘ってくれるか?」
「閣下がお忙しくなければ」
「忙しければ、空いている日を探す」
マティアス閣下が心底嬉しそうに目を細めた。
若草色のドレスは店の見本を私の寸法に直せば、明朝には届けられるという。群青色の方は、次の夜会までに仕立ててもらうことになった。
店主たちが下がり、広間に二人きりになると、マティアス閣下はポケットから黒革の小箱を取り出した。
カチリ、と静かな音を立てて蓋が開く。
中に鎮座していたのは、見たこともない大粒のサファイアの指輪だった。
青い炎を閉じ込めたようなその宝石の周りを、完璧なカットのダイヤモンドが幾重にも取り囲んでいる。
「これは……」
「ハルデンベルク家で代々、当主から結婚する相手へ贈ってきた指輪だ」
マティアス閣下は私の右手を取り、手袋を外させた。
露わになった私の薬指に、冷たい貴金属の感触が滑り込む。
吸い付くように、少しの狂いもなくぴったりと根元に収まった。
あの、ルパートが露店で買ってきたブカブカの安物指輪とは、何もかもが違っていた。
「先日の採寸は、こちらのためだったのですね」
「少し直してもらった。きつくないか?」
私は指を曲げて確かめた。回ってしまうことも、締めつけられることもない。
「はい。ぴったりです」
閣下は自分でも確かめるように指輪へ触れた。その慎重な手つきが嬉しくて、私はしばらく手を預けていた。
「エディス。気に入ってくれたか?」
「はい。大切にします」
彼が手の甲へ口づける。顔が熱くなり、指を引っ込めそうになった。
その時、閣下の袖口のボタンが糸一本でぶら下がっているのに気づいた。
「取れそうですわ」
「本当だな。後で直してもらおう」
「私が直しても、よろしいですか」
閣下の顔が曇りかけたので、私は先に笑った。
「頼まれたのではありません。して差し上げたいのです」
侍女に裁縫箱を持ってきてもらい、上着を預かった。彼は隣の椅子に腰を下ろし、黙って私の手元を見ている。
「そんなにご覧になると、針目が曲がります」
「すまない。嬉しくて」
針を止めて顔を上げた。からかっているのかと思ったのに、本当に嬉しそうだった。
「このくらいのことで?」
「君が、私にしてやりたいと思ってくれたのだろう」
あと数針で終わるのが惜しくなった。結び目を作って渡すと、閣下は礼を言い、留め直した袖口を満足そうに撫でた。
「明日は全体朝礼がある。結婚式の招待状が偽物だという噂が出ているので、訂正してくる」
「偽物、ですか」
「カークランドが触れ回っている。君が私の名を騙ったことにされては困る」
あの人なら、そう思うのかもしれない。私は薬指を見つめ、それから閣下を見た。
「では、本物の婚約者として、お帰りをお待ちしていますわ」
閣下は一瞬黙り、私の手へもう一度口づけた。今度は、なかなか離してくれなかった。




