第5話
招待状が届いてから、一週間が過ぎた。
「おい、なんで予備の軍服がねえんだよ」
朝、ルパート・カークランドは脱ぎ散らかした私服とゴミで足の踏み場もない自室で、苛立たしげにクローゼットを引っ掻き回していた。
普段なら、糊のきっちり利いた清潔な軍服が、ハンガーに並んで掛かっているはずだった。
だが、今そこにあるのは、先週の演習で泥にまみれたまま放置された一着と、昨日の酒の匂いが染み付いたしわくちゃの一着だけだ。
「ちっ、エディスのやつ……まだ意地張って部屋に来てねえのかよ」
舌打ちしながら、仕方なく一番マシなしわくちゃの軍服に腕を通す。
ボタンを留めようとして、胸元の第二ボタンがポロリと床に落ちた。
「うわ、マジかよ! おい、針と糸どこだっけ……!?」
裁縫道具箱の場所など知るはずもない。すべてエディスが管理していたからだ。
靴を履こうと玄関に向かえば、革靴は埃と泥を被って白っぽく変色していた。
いつもなら、毎朝鏡のようにピカピカに磨き上げられ、靴べらとともに揃えて置かれていたのに。
「頑丈で気が利くのが取り柄の女が、家事までサボるようになっちゃお終いだな。……今日あたり、ペンデルトン家に怒鳴り込んでやるか」
苛立ちを募らせながら、みすぼらしい身なりのまま騎士団の詰所へ向かった。
「おいカークランド、お前その格好どうしたんだ?」
詰所に足を踏み入れた瞬間、同僚の騎士たちから怪訝な視線が一斉に突き刺さった。
「ボタンが一つないぞ。それに軍服もしわくちゃだ。靴も磨いてないのか? 小隊長がそんなだらしない格好してたら、部下の示しがつかないだろ」
「う、うるせえな! 急な用事でバタバタしてたんだよ!」
顔を真っ赤にして言い返すが、同僚たちの冷ややかな目は変わらない。
朝礼が始まり、整列した部下たちの前で訓示を垂れるが、部下の若い騎士たちがルパートの胸元や足元をチラチラ見て、小声でくすくす笑っているのが分かった。
屈辱で奥歯を噛み締めながら、午前中の装備点検に移る。
腰の佩剣を引き抜いた瞬間、ルパートの背筋が凍りついた。
「な、なんだこれ……!?」
美しいはずの刀身の根元に、赤黒い錆が浮き出ていた。
刃こぼれもそのままになっている。
「嘘だろ……なんで錆びてんだよ!?」
「当たり前だろ、先週の雨天訓練のあと、油を塗り直してないのか?」
隣の小隊長が呆れたように言った。
「お前のその特注剣、下町の頑固な研ぎ師のじいさんに定期的に見てもらってたんだろ? 今月は出しに行ってないのか?」
「研ぎ師……? じいさん……?」
ルパートは絶句した。
そんな職人の名前も、店の場所も知らない。
ルパートが「剣が鈍った」と放り投げておけば、いつの間にかエディスが下町の工房まで足を運び、小遣いから研ぎ代を払って、最高の状態にして枕元に置いてくれていただけなのだ。
(あいつ……あいつ、俺の命を預ける剣の手入れまで放置しやがったのか!?)
怒りと焦りで手汗が滲む。
だが、地獄はそれだけでは終わらなかった。
午後、執務室のデスクに戻ると、副隊長が分厚い書類の束をドサリと机に置いた。
「小隊長。来期の通常警邏における物資補給申請書と人員配置案です。今日の夕方までに主計課に提出しないと、うちの小隊の消耗品と馬車の手配が滞ります」
「あ? ああ……それな。おい、アネット!」
ルパートは近くの席で、優雅にハーブティーを飲んでいたアネットを呼んだ。
「これ、いつものように清書して主計課に出しといてくれ」
「ええ?」
アネットはティーカップを置くと、露骨に嫌そうな顔をして眉を八の字にした。
「ルパート様ぁ、私、事務『見習い』ですよぉ? 補給計画書なんて難しい計算、できるわけないじゃないですかぁ」
「いや、でもお前、事務員だろ? 前はちゃんと期日通りに出てたぞ」
「前の書類は、ルパート様がご自宅から持ってきてくださったんじゃないですかぁ! 私、数字ばっかりの書類見ると頭痛くなっちゃうんですぅ。それにぃ、今日ネイル塗り直したばかりで、ペン握ると爪が痛んじゃいますぅ」
甘えた声で言い訳しながら、アネットはぷいっと横を向いた。
先週までは「可愛い」と思えていたその仕草が、今は胸を掻きむしりたくなるほど鬱陶しい。
「おい、冗談だろ……? じゃあ、これも俺が書かなきゃならねえのか……」
頭を抱えるルパートに、副隊長が冷え切った視線を投げかけた。
「小隊長、まさか以前の分も、ご自分で書かれていなかったんですか? 以前の集計は、品目ごとの消耗率まで計算してありましたよ。主計課からは、あれを基準に今期の数量を出すよう言われています」
「う……」
「まさか、あれも婚約者様が下書きされていたんですか?」
ギクリ、と心臓が跳ね上がった。
「ち、違う! 俺が書いたに決まってるだろ! いいから置いてけ、自分でやる!」
副隊長を怒鳴りつけ、ルパートは羽ペンを握りしめた。
だが、羊皮紙を睨みつけても、何一つ書けない。
エディスが作ってくれていたのは、外部補助を許された消耗品の集計と書式の整理だった。警邏経路や人員配置は副隊長が作り、自分は二つをまとめて提出していただけ。
それで評価されたのをいいことに、覚える機会をすべて人へ押しつけてきた。今は古い控えを読んでも、どの数字を拾えばいいのか分からない。
机の奥には、アネットに受領印を押させた伝票があった。実際には届いていない物資の分まで、受領済みにしてある。先月から二人で使った金額を思い出し、ルパートは慌てて引き出しを閉めた。
今さら副隊長に帳簿を見せて助けを求めるわけにもいかない。
一時間、二時間と時間だけが過ぎていく。
インクの染みだらけになった羊皮紙を前に、ルパートの額から冷や汗が滝のように流れ落ちていた。
「くそっ……! くそっ……! なんだよこれ、意味分かんねえよ!」
散らかった部屋。
外れたボタン。
泥だらけの靴。
錆びた剣。
そして、一行も進まない書類。
――お前なら、放っておいても大丈夫だ。
自分の放った言葉が、今頃になって脳裏に蘇る。
違う。
放っておいても大丈夫だったんじゃない。
エディスが、自分の見えないところで、全部、全部一人で処理してくれていたから、俺は『優秀な小隊長』の皮を被っていられただけだったのか……?
「い、いや……認めねえぞ。俺の実力だ。あいつはただの雑用をしてただけだ!」
ペンを机に叩きつけ、ルパートは立ち上がった。
息が荒い。目の奥が血走っていた。
「調子に乗りやがって……! 俺が困るのを見越して、わざとやってるんだろ!? 今すぐペンデルトン家に行って、全部元通りにさせてやる……!」
エディスが自分を捨てるはずがない。
まだそう自分に言い聞かせながら、ルパートは逃げるように執務室を飛び出した。
机には書きかけの申請書が残った。副隊長が戻った時には、提出期限まで半刻もなかった。




