↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年待ってプロポーズされなかったので、別の男と結婚します  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/15

第5話

 招待状が届いてから、一週間が過ぎた。


「おい、なんで予備の軍服がねえんだよ」


 朝、ルパート・カークランドは脱ぎ散らかした私服とゴミで足の踏み場もない自室で、苛立たしげにクローゼットを引っ掻き回していた。

 普段なら、糊のきっちり利いた清潔な軍服が、ハンガーに並んで掛かっているはずだった。

 だが、今そこにあるのは、先週の演習で泥にまみれたまま放置された一着と、昨日の酒の匂いが染み付いたしわくちゃの一着だけだ。


「ちっ、エディスのやつ……まだ意地張って部屋に来てねえのかよ」


 舌打ちしながら、仕方なく一番マシなしわくちゃの軍服に腕を通す。

 ボタンを留めようとして、胸元の第二ボタンがポロリと床に落ちた。


「うわ、マジかよ! おい、針と糸どこだっけ……!?」


 裁縫道具箱の場所など知るはずもない。すべてエディスが管理していたからだ。

 靴を履こうと玄関に向かえば、革靴は埃と泥を被って白っぽく変色していた。

 いつもなら、毎朝鏡のようにピカピカに磨き上げられ、靴べらとともに揃えて置かれていたのに。


「頑丈で気が利くのが取り柄の女が、家事までサボるようになっちゃお終いだな。……今日あたり、ペンデルトン家に怒鳴り込んでやるか」


 苛立ちを募らせながら、みすぼらしい身なりのまま騎士団の詰所へ向かった。



「おいカークランド、お前その格好どうしたんだ?」


 詰所に足を踏み入れた瞬間、同僚の騎士たちから怪訝な視線が一斉に突き刺さった。


「ボタンが一つないぞ。それに軍服もしわくちゃだ。靴も磨いてないのか? 小隊長がそんなだらしない格好してたら、部下の示しがつかないだろ」

「う、うるせえな! 急な用事でバタバタしてたんだよ!」


 顔を真っ赤にして言い返すが、同僚たちの冷ややかな目は変わらない。

 朝礼が始まり、整列した部下たちの前で訓示を垂れるが、部下の若い騎士たちがルパートの胸元や足元をチラチラ見て、小声でくすくす笑っているのが分かった。


 屈辱で奥歯を噛み締めながら、午前中の装備点検に移る。

 腰の佩剣を引き抜いた瞬間、ルパートの背筋が凍りついた。


「な、なんだこれ……!?」


 美しいはずの刀身の根元に、赤黒い錆が浮き出ていた。

 刃こぼれもそのままになっている。


「嘘だろ……なんで錆びてんだよ!?」

「当たり前だろ、先週の雨天訓練のあと、油を塗り直してないのか?」

 隣の小隊長が呆れたように言った。

「お前のその特注剣、下町の頑固な研ぎ師のじいさんに定期的に見てもらってたんだろ? 今月は出しに行ってないのか?」

「研ぎ師……? じいさん……?」


 ルパートは絶句した。

 そんな職人の名前も、店の場所も知らない。

 ルパートが「剣が鈍った」と放り投げておけば、いつの間にかエディスが下町の工房まで足を運び、小遣いから研ぎ代を払って、最高の状態にして枕元に置いてくれていただけなのだ。


(あいつ……あいつ、俺の命を預ける剣の手入れまで放置しやがったのか!?)


 怒りと焦りで手汗が滲む。

 だが、地獄はそれだけでは終わらなかった。


 午後、執務室のデスクに戻ると、副隊長が分厚い書類の束をドサリと机に置いた。


「小隊長。来期の通常警邏における物資補給申請書と人員配置案です。今日の夕方までに主計課に提出しないと、うちの小隊の消耗品と馬車の手配が滞ります」

「あ? ああ……それな。おい、アネット!」


 ルパートは近くの席で、優雅にハーブティーを飲んでいたアネットを呼んだ。


「これ、いつものように清書して主計課に出しといてくれ」

「ええ?」


 アネットはティーカップを置くと、露骨に嫌そうな顔をして眉を八の字にした。


「ルパート様ぁ、私、事務『見習い』ですよぉ? 補給計画書なんて難しい計算、できるわけないじゃないですかぁ」

「いや、でもお前、事務員だろ? 前はちゃんと期日通りに出てたぞ」

「前の書類は、ルパート様がご自宅から持ってきてくださったんじゃないですかぁ! 私、数字ばっかりの書類見ると頭痛くなっちゃうんですぅ。それにぃ、今日ネイル塗り直したばかりで、ペン握ると爪が痛んじゃいますぅ」


 甘えた声で言い訳しながら、アネットはぷいっと横を向いた。

 先週までは「可愛い」と思えていたその仕草が、今は胸を掻きむしりたくなるほど鬱陶しい。


「おい、冗談だろ……? じゃあ、これも俺が書かなきゃならねえのか……」


 頭を抱えるルパートに、副隊長が冷え切った視線を投げかけた。


「小隊長、まさか以前の分も、ご自分で書かれていなかったんですか? 以前の集計は、品目ごとの消耗率まで計算してありましたよ。主計課からは、あれを基準に今期の数量を出すよう言われています」

「う……」

「まさか、あれも婚約者様が下書きされていたんですか?」


 ギクリ、と心臓が跳ね上がった。


「ち、違う! 俺が書いたに決まってるだろ! いいから置いてけ、自分でやる!」


 副隊長を怒鳴りつけ、ルパートは羽ペンを握りしめた。

 だが、羊皮紙を睨みつけても、何一つ書けない。

 エディスが作ってくれていたのは、外部補助を許された消耗品の集計と書式の整理だった。警邏経路や人員配置は副隊長が作り、自分は二つをまとめて提出していただけ。

 それで評価されたのをいいことに、覚える機会をすべて人へ押しつけてきた。今は古い控えを読んでも、どの数字を拾えばいいのか分からない。

 机の奥には、アネットに受領印を押させた伝票があった。実際には届いていない物資の分まで、受領済みにしてある。先月から二人で使った金額を思い出し、ルパートは慌てて引き出しを閉めた。

 今さら副隊長に帳簿を見せて助けを求めるわけにもいかない。


 一時間、二時間と時間だけが過ぎていく。

 インクの染みだらけになった羊皮紙を前に、ルパートの額から冷や汗が滝のように流れ落ちていた。


「くそっ……! くそっ……! なんだよこれ、意味分かんねえよ!」


 散らかった部屋。

 外れたボタン。

 泥だらけの靴。

 錆びた剣。

 そして、一行も進まない書類。


 ――お前なら、放っておいても大丈夫だ。


 自分の放った言葉が、今頃になって脳裏に蘇る。


 違う。

 放っておいても大丈夫だったんじゃない。

 エディスが、自分の見えないところで、全部、全部一人で処理してくれていたから、俺は『優秀な小隊長』の皮を被っていられただけだったのか……?


「い、いや……認めねえぞ。俺の実力だ。あいつはただの雑用をしてただけだ!」


 ペンを机に叩きつけ、ルパートは立ち上がった。

 息が荒い。目の奥が血走っていた。


「調子に乗りやがって……! 俺が困るのを見越して、わざとやってるんだろ!? 今すぐペンデルトン家に行って、全部元通りにさせてやる……!」


 エディスが自分を捨てるはずがない。

 まだそう自分に言い聞かせながら、ルパートは逃げるように執務室を飛び出した。


 机には書きかけの申請書が残った。副隊長が戻った時には、提出期限まで半刻もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
??同棲している描写ってありました? 実家住まいとしか読めませんでしたが。 エディスの誕生日ご飯は自宅の離れだし、もう朝早くにルパートのところへ行かなくて良くなった、てあったので通いかと。 まあ伯爵…
もちろんルパートがクズなのはわかっているんだが、エディスもエディスだと思う。 ・結婚どころか婚約ですら仮なのに男と同棲するような貴族令嬢にあるまじきアバズレ →自分からまともに扱わなくていい、愛人に…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。