第3話
夜会の翌朝、ペンデルトン伯爵邸の執務室の机は、父の怒号とともに真っ二つに割れるかと思った。
「あの恩知らずの青二才が……! 我が愛娘を三年も待たせた挙句、あんな小娘に現を抜かして泥を塗っただと!?」
父――ペンデルトン伯爵は、普段は温厚な文官だ。だが、昨夜の舞踏会での一部始終と、ルパートが誕生日に放った暴言の数々を私が淡々と報告すると、顔を真っ赤にして拳を振り上げた。
「エディス、お前が『ルパート様を支えたい』と言うから儂は黙って見守ってきたのだぞ! それを……放っておいても大丈夫だ、だと!? ふざけるな、お前の支えも、儂の推薦も、当然だとでも思っているのか! 今すぐ子爵家に怒鳴り込んであの小僧を叩きのめしてやる!」
「お父様、落ち着いてください。殴り込みなどなさったら、お父様の名に傷がつきます」
「傷などどうでもいいわ! お前の三年間の青春を何だと思っているんだ!」
父のその言葉に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
私のために本気で怒ってくれる家族がいる。それだけで、冷え切っていた孤独が綺麗に洗い流されていくようだった。
家令が来客を告げ、父が入室を許した。
「ペンデルトン卿。まずは、あの男と縁を切る手続きを済ませましょう」
執務室の扉が開いた。
現れたのは、仕立ての良い濃紺のフロックコートを纏ったマティアス閣下だった。
その後ろには、書類鞄を抱えた王室法務院の公証人と、その助手が控えている。朝の九時だった。約束の時刻に、きっかりと来てくれた。
「朝早くの無礼をお許しいただきたい、ペンデルトン卿。昨夜、エディス嬢に求婚いたしました。本日は、正式な婚姻の許しをいただきに参りました」
父の顎が外れそうなくらいに落ちた。
「け、求婚……!? 閣下が、エディスに……? い、いや、しかし閣下、エディスにはカークランド家の息子との仮誓約が……」
「順序を違えるつもりはありません。まずは筋を通しましょう」
マティアス閣下は公証人を父に紹介した。
「仮誓約書の解除条項を確認していただきたい」
閣下に促され、公証人が父の保管していた原本を広げた。
「小隊長昇進後、一ヶ月以内に本婚約を申し入れること。履行されない場合、待つ側の当事者は解除を申し立てられる、とあります。期限は一昨日で過ぎております」
「それなら、今すぐ手続きを頼む!」
父が立ち上がりかけた。公証人は頷き、私に書面を向けた。
「エディス様。解除をご希望で間違いありませんか」
「はい。お願いいたします」
私が署名し、父が保証人の欄に名を記した。公証人は書類を持って法務院へ向かう。この場で次の婚約書に署名するわけにはいかなかった。
待っている間、父は閣下にいくつも質問をした。住まいのこと、結婚の時期、私が続けたい仕事のこと。
「娘は、頼まれると断れんところがあります。便利だからと働かせすぎないでいただきたい」
「肝に銘じます」
「私にも仰ってくださいませ、お父様」
そう口を挟むと、二人が揃ってこちらを見た。可笑しくなって笑ったら、父もようやく肩の力を抜いた。
昼前、公証人が受理済みの書面を持って戻った。仮誓約は解除され、王都のカークランド子爵邸にも通知が届いたという。父が受け取りの印を確かめ、私へ書面を渡してくれた。
「これで終わったぞ、エディス」
震えずに頷けた。それから私は、自分で閣下の方を向いた。
「昨夜のお申し出を、お受けしたいと思います」
「急いでいないか?」
「急いで決めたつもりはありません。今朝、お父様のお話に一つずつ答えてくださるのを聞いて、決めました。私も閣下のことを、大切にしたいです」
閣下は一度目を伏せ、私の前に片膝をついた。
「エディス。私と結婚してください」
「はい」
父が大きく鼻をすすった。二度目の署名は、新しい婚約の書面へ。今度は私と閣下が並んで名を書いた。結婚式は来月中旬と決まり、それまでの住まいは両家で相談することになった。
帰り際、閣下は小さな紙箱を私に差し出した。
「昨夜の返事が嬉しくて、買ってきた。菓子屋が開くのを待っていたので、危うく遅れるところだった」
中には栗の砂糖菓子が二つ並んでいた。去年の宴で、人に譲った菓子だ。
「二つとも、私がいただいても?」
「そのつもりで買った」
一つを口に入れ、もう一つは彼に差し出した。私が好きな味を、この人にも知ってほしかった。
その日の午後。
私は王都の騎士宿舎の一角にある、ルパートの私用アパートを訪れていた。
いつもなら、私が合い鍵で中に入り、散らかった部屋を片付け、洗濯物をまとめ、氷箱に常備菜を並べていた場所だ。
だが今日、私は部屋の鍵を開けなかった。
郵便受けの前に立つ。
私はバッグから、小箱を取り出した。
かつて渡された、安っぽいガラス玉の指輪。
『小隊長になったら、もっとすごいのを買ってやるからさ』
そう言って、私の指のサイズすら測らずに適当に買ってきた、ブカブカの指輪だ。
「お返ししますね、ルパート様」
小箱と、布に包んだ合い鍵を郵便受けの中に落とす。
コトン、と乾いた音がした。
そして、もう一つ。
法務院からカークランド子爵家へ送達された仮誓約解除通知の控え。
さらに、ハルデンベルク家が常備している案内用のカードを収めた、金箔で縁取られた豪奢な封筒を取り出した。
『ハルデンベルク伯爵マティアス ならびに ペンデルトン伯爵令嬢エディス 結婚式ならびに披露宴のご案内』
宛名には、美しい文字で『近衛騎士団小隊長 ルパート・カークランド殿』と記されている。式典の日取りは、来月の中旬だ。
罵詈雑言の手紙など書かない。
泣き叫ぶような恨み言も残さない。
ただ、事実だけを記したこの案内を一通。
「三年待ってプロポーズしてくださらなかったのですから。……どうぞ、お祝いに来てくださいませ」
私は微笑みながら、その封筒を郵便受けの隙間へと滑り込ませた。
ポストの蓋がパタンと閉まる。
それと同時に、明日の朝、ここへ来るために早起きする必要はもうないのだと思った。
アパートの外へ出ると、通りにはハルデンベルク家の黒塗りの豪奢な馬車が待機していた。
御者が恭しく扉を開け、中からマティアス閣下が手を差し伸べてくる。
「終わったか?」
「ええ。綺麗さっぱり、片付けてまいりましたわ」
彼の手を取って馬車に乗り込むと、マティアス閣下は私をそのまま自分の隣へと引き寄せ、愛おしそうに私の髪に唇を寄せた。
「では、我が家へ行こう。式まで暮らす客間を見てほしい。付き添いの侍女の部屋も、隣に用意した」
父の了承を得て、式の準備のためにしばらく滞在することになったのだ。
「仕立屋と宝飾師も来る。疲れたら遠慮せず、途中で切り上げてくれ」
「宝飾師もですか?」
「指輪の寸法を測りたい。今度こそ、君に合うものを贈りたいから」
私は空いた薬指を見た。それから閣下の手を、少し強く握り返した。
馬車が動き出しても、窓の外を振り返ることはなかった。




