第2話
誕生日の夜から三日後。王宮夜会のきらびやかな大広間に、私は一人で立っていた。
隣に立つはずだったルパートの姿はない。
夕方、彼から届けられた短い手紙には、殴り書きのような文字でこうあった。
『アネットが初めての夜会で緊張して倒れそうだから、俺が家まで迎えに行ってエスコートする。お前は馬車の手配も慣れてるし、一人で先に行っててくれ』
正式な婚約手続き前の仮誓約の身とはいえ、公認の相手を放置して新人の事務員をエスコートして現れる。
貴族社会においてそれがどれほど恥知らずで、相手の家に泥を塗る行為か、あの男は毛頭理解していないらしい。
「まあ、ルパート様! シャンデリアが星みたい……! 私、こんな素敵な場所、怖くて足が震えちゃいますぅ」
「はは、可愛いなアネットは。大丈夫だ、俺の手をしっかり握ってろ。小隊長の俺がついているんだから、誰も文句は言わせないさ」
広間の入り口がざわつき、見慣れた男と見知らぬ女が入ってきた。
ルパートは仕立て直したばかりの近衛の正装。その腕にしなだれかかっているのは、砂糖菓子のような淡いピンクのドレスを着たアネット・フォスター男爵令嬢だ。
首元には、よく粒の揃った真珠の首飾りが揺れていた。先月、ルパートが宝飾店の前で足を止めていたことを思い出す。私には「見ていただけだ」と言っていたけれど。
ルパートの視線が、壁際に立つ私を捉えた。
気まずそうにするどころか、彼は「ほらな、言っただろ?」と言わんばかりに、あごをしゃくって軽く手を挙げてみせた。
『お前は一人でも平気そうだな』とでも言いたげな、あの神経を逆撫でする軽薄な笑み。
周囲の貴族たちが、ひそひそと扇の陰で囁き合っている。
「あら、カークランド小隊長、婚約者様を放り出してあんな小娘を……」
「ペンデルトン伯爵令嬢も哀れね。三年も待たされて、あれじゃあねえ」
「頑丈で地味だからって、随分と舐められたものだわ」
哀れみの視線。小馬鹿にしたような嘲笑。
以前の私なら、恥ずかしさと惨めさで泣きそうになりながら、それでもルパートの立場を守るために「後輩の方の引率だそうです」と愛想笑いを浮かべていただろう。
けれど今夜の私は、冷たく澄んだシャンパンを喉に流し込みながら、ただ無感動にその茶番を眺めていた。
惨めなのは私じゃない。
公の場で「私は節操のない愚か者です」と看板を掲げて歩いている、あの男のほうだ。
「随分と、美味そうに毒を呑むな」
不意に、すぐ真横から低く冷たい声が降ってきた。
ハッとして振り返る。
いつの間に近づいてきたのか、私の隣に一人の男が立っていた。
会場の喧騒が、潮が引くようにその一角だけ静まり返る。
漆黒の夜会服に、銀の飾緒。鍛え上げられた長身と、人を寄せ付けない氷刃のような怜悧な貌。
胸元に輝くのは、王室直属の監察官たる証――黒鷲の勲章。
マティアス・ハルデンベルク伯爵。
二十六歳。王室軍監として近衛を含む騎士団の監察を統括し、人事にも強い発言権を持ち、不正を働く貴族を容赦なく失脚させてきたことから『氷の軍監』と恐れられる男だ。
「ハ、ハルデンベルク閣下……」
周囲の貴族たちが慌てて道を開け、遠巻きに息を呑む。
なぜ社交嫌いで有名なこの男が、壁の花である私の前にいるのか。
「ペンデルトン嬢。少し夜風に当たらないか」
差し出された手を、私は思わず見つめた。
「私とご一緒で、よろしいのですか?」
「君を誘っている」
周囲の囁き声に、もう耳を貸す気はなかった。グラスを給仕の盆に置き、その手を取る。閣下は歩幅を緩め、広間から続くテラスへ私を伴った。
夜風が、火照った頬を撫でる。
テラスの石造りの手すりに手をつくと、マティアス閣下は私の隣に立ち、紫水晶の瞳をガラス越しの大広間へ向けた。
ルパートはまだアネットの腰に手を回し、楽しそうに話していた。
「いつまで、あの道化のために人生をドブに捨てるつもりだ?」
あまりにも率直で、容赦のない言葉だった。
私は思わず自嘲の笑みをこぼす。
「ドブ、ですか。手厳しいですね」
「君を迎えにも行かず、他の女の腰に手を回している。あれで君に待っていろと言うつもりなら、随分と都合のいい話だ」
吐き捨てるようなマティアス閣下の横顔は、本気で苛立っているように見えた。
「閣下には関係のないことですわ。私の見る目がなかった……それだけのことです」
「関係なくはない」
ピシャリと遮られた。
マティアス閣下が私に向き直る。
月光を浴びたその端正な顔が、信じられないほど真剣な熱を帯びていた。
「三年前、王都の秋祭りを覚えているか」
「え……?」
「暴走した荷馬車が広場へ突っ込んだ時だ。逃げ遅れたパン屋の幼子を庇って転倒し、腕を擦りむきながらも、周囲の警邏兵を冷静に誘導して怪我人の搬送を手配していた令嬢がいた。私が駆けつけた時には、自らの手当ても後回しにして、泣きじゃくる子どもを抱きしめていた」
抱き上げた子どもの靴が片方、見つからなかったことを思い出した。
確かにそんな事故があった。だが、あの場にマティアス閣下がいたことなど、私はまったく気づいていなかった。
「あの日から、君の姿を探すようになった。夜会でも、人に譲ってばかりだったな。食べたそうに見ていた菓子まで、最後の一つだからと譲っていた」
そんなところまで覚えている人がいたのか。私は返事もできず、閣下を見つめた。
「だが君は、あの男と結婚するのだと話していた。覚えていないか。去年の新年の宴で、私は君に訊いたんだ」
覚えていた。無愛想な軍監閣下に婚約を確かめられ、私は胸を張って答えたのだ。
小隊長になったら迎えに来てくださいます、と。
「君が幸せなら、それでよかった」
言われた途端、何でもない顔をしているのが辛くなった。
「昇進なさっても、何も変わりませんでした。先日の誕生日も、約束していた夕食にいらっしゃらなくて」
話すつもりのなかったことまで、口をついて出た。アネットの足に湿布を貼っていたこと。冷めたスープを断られたこと。三年を、たったそれだけと言われたこと。
閣下は口を挟まなかった。手すりに置かれた指だけが、白くなるほど握り込まれていた。
「もう、待つのはやめます。父にもそう話すつもりです」
「そうか」
閣下がこちらを向いた。
「では、私にも機会をくれ。君と結婚したい」
すぐには意味が分からなかった。
「は?」
「君に求婚している。あいつとの仮誓約を解いた後で、私の妻になってほしい」
「な、何を仰っているのですか閣下。私のような地味で行き遅れの女など、ハルデンベルク家に釣り合うはずが……!」
「行き遅れなどと二度と口にするな」
閣下の手が、私の頬の手前で止まった。私は逃げずに、その手に自分の指を重ねた。素手の掌は思いのほか温かかった。
「君がいい。三年前から、ずっとだ。約束を守れない日には、必ず知らせる。待たせたことを、君が平気だからなどと言って済ませはしない」
マティアス閣下の指先が、私の耳朶をかすめ、首筋へと滑り落ちる。
ぞくりとした熱が背筋を駆け上がった。
「ただ、私は今、あの人に腹を立てています。閣下のお気持ちに甘えて、見返したいと思ってしまうかもしれません」
「見返せばいい。あの男が何を言っても、私が君を好きなことには変わりがない」
迷いなく言われ、私は顔を上げた。
「だが、返事は急がなくていい。腹いせだけで私を選ばれても困る」
「閣下でも、そのようにお思いになるのですね」
「当たり前だ。好きな女には、私を見てもらいたい」
言ってから、閣下は少し気まずそうに口を閉じた。私はそこで初めて、この人も返事を待つのが怖いのだと気づいた。
大広間の中では、何も知らないルパートが、アネットの肩を抱いて下品に笑っているのが見えた。
三年間の我慢。
冷え切ったスープ。
踏みにじられた私の時間。
――ああ、そうだ。
なぜ、私だけが惨めに身を引かなければならないのか。
私の唇が、自然と弧を描いていた。
「今すぐ、同じだけお慕いしていますとは申し上げられません。でも、もっとお話ししたいです。閣下と二人で」
「それは、期待してもいい返事か?」
「はい。明日、父にも会っていただけますか」
閣下が笑った。先ほどまでの恐ろしげな顔からは想像できない、ほっとした笑顔だった。
胸が小さく跳ねる。もう一度この顔が見たいと、そう思った。
「明日の朝、伺う。エディス」
「では、冷めないうちにお茶を召し上がってくださいね」
「必ず」
私が差し出した手を、今度は彼が取った。




