第1話
冷めきった牛テールのスープの表面に、白い牛脂が分厚く膜を張っていた。
銀の匙を沈めてみる。冷え固まった脂が匙にこびりついた。すくう気になれず、手を止める。何度温め直せば、あの人は来るのだろう。
壁の振り子時計が、低く陰気な音で午前零時を告げた。
日付が変わる。
昨日は、私の二十一歳の誕生日だった。夕方からずっと待ち続けて、とうとう日付が変わってしまった。この王国の貴族社会において、二十一歳はいよいよ「行き遅れ」の境界線だ。
玄関の重いオーク材の扉が乱暴に開いたのは、零時を四十分も過ぎた頃だった。
「ただいま、エディス。……なんだ、まだ起きてたのか?」
入ってきたのは、私の婚約者と目されているルパート・カークランドだ。
両家が交わしたのは、小隊長に昇進したら正式に婚約するという仮誓約だけ。求婚も結婚の日取りも、三年前から先延ばしになっていた。
今夜は両親の暮らす母屋から離れた、我が家の別館の食堂を借りていた。給仕には先に休んでもらった。二人で話したいことがあったから。
ルパートは二十三歳。近衛騎士団の濃紺の揃いの上着ではなく、仕立ての良い私服を肩に引っかけ、少し赤らんだ顔をしている。酒の匂いはしない。代わりに、甘ったるい菫の香水と、粉砂糖を焦がしたような焼き菓子の匂いが微かに鼻をついた。
「おかえりなさいませ、ルパート様」
立ち上がって迎えると、彼は革靴を脱ぎ散らかし、居間のソファにどっかりと体重を預けた。
テーブルの上に並んだ料理――昼から煮込んでいた牛テール、冷えて筋張ってしまったローストビーフ、すでに萎んでしまったチーズスフレを一瞥もしない。
「悪かったな、遅くなって。執務室を出ようとしたら、アネットが階段で足を挫いて歩けなくなっちまってさ」
アネット。
先月、近衛騎士団の事務見習いとして配属されてきた、フォスター男爵令嬢の名だ。
ここ一ヶ月、彼の口からその名前が出ない日は一日たりともない。
「足を挫いた……ですか。衛兵に辻馬車を手配させれば済むお話では?」
「おいおい、あんな華奢な娘を一人で馬車に乗せられるかよ。男爵家は下町に近いんだぞ? 何かあったら小隊長の俺の責任問題だ。家まで送り届けて、湿布を貼るのを手伝ってやってたらこんな時間になっちまった」
ルパートはさも『面倒見のいい頼れる上司』といった顔で、満足そうにソファへもたれた。
私は膝の上で手を握り、息を整えた。
「ルパート様。昨日は、何の日だったか覚えていらっしゃいますか」
「あ?」
ルパートは小首を傾げ、そこでようやくテーブルの上の皿の数々に目を留めた。
ほんの一瞬だけ、気まずそうに視線が宙を泳ぐ。
「あー……ああ! 誕生日か! 悪い悪い、すっかり飛んでたよ。二十一だっけ? いやあ、めでたいな。今度埋め合わせするからさ、美味い肉でも食いに行こうぜ」
軽い。
あまりにも、軽すぎる。
三年前、私が十八歳になった誕生日に、当時二十歳だった彼が何と言ったか。私は今でも、あの日降っていた細い雨の匂いまで覚えている。
『エディス、俺が近衛で小隊長に昇進したら、一番にプロポーズさせてくれ。お前を誰よりも幸せにするから、待っていてほしい』
その言葉を信じて、私は三年間を差し出した。
先月、彼は念願だった第三小隊長への昇進を果たした。
だから私は、昨日の誕生日にこそ約束を果たしてくれるのだと思っていた。昇進祝いを兼ねて、彼の大好物ばかりを半日かけて仕込み、よそ行きのドレスを着て、冷えていく部屋で一人きり座っていたのだ。
「ルパート様。先月、小隊長になられましたね」
「ん? ああ、そうだな。毎日忙しくて目が回りそうだよ」
「約束の、お話です」
私がそう切り出した瞬間、ルパートの顔から笑みが消え失せた。
露骨に眉間へ皺が寄り、あからさまにうんざりした視線が私を突き刺す。
「おいおい、エディス。またその話か?」
まるで、聞き分けのない駄々っ子をあしらうような声音だった。
「小隊長になったばかりで、俺の隊が一番大事な時期だって分かってるだろ? アネットみたいな新人の指導もあるし、上の連中への根回しだってあるんだ。結婚なんてしたら、式やら何やらで時間を取られる。男のキャリアの邪魔をするなよ」
「邪魔……? 私は、三年待ちました」
「たった三年だろ!」
ルパートは苛立たしげにテーブルを拳で叩いた。銀のカトラリーが甲高い音を立てて跳ねる。
「お前は家で大人しく待ってるだけだから気楽でいいよな。俺は命懸けで王国に仕えてるんだ。少しは俺の立場を思いやれないのか? だいたい、お前は昔から頑丈で、一人でも何でも器用にこなすだろ。アネットみたいに危なっかしい女なら放っておけないが、お前なら放っておいても大丈夫だ。……そうだろ?」
お前なら、放っておいても大丈夫。
その言葉が、私の耳の奥で、ひび割れた鐘のように響いた。
誰が、お前の剣を持って、あの頑固な研ぎ師の店まで通っていたのか。
誰が、お前の軍服のほつれを夜なべして繕っていたのか。
誰が、お前の昇進を願って上官の夫人たちに挨拶を重ね、招かれるたびに頭を下げていたのか。
非機密の集計表を外部の補助者に頼む制度を使って、計算と書式の勉強までした。下書きの末尾には必ず自分の名を添えたのに、ルパート様から礼を言われた覚えはほとんどない。
全部、私だ。
一人で平気だったからではない。
お前が「迎えに来る」と言ったから、その背中を押したくて、泥をかぶっていただけだ。
「スープ、温め直しましょうか」
喉の奥がカラカラに乾いていたけれど、声だけは信じられないほど静かに出た。
「いい、要らない。アネットの家で、あいつが焼いたマフィンを食わせてもらったから腹いっぱいなんだ。あいつ、料理は下手くそだけど、一生懸命で可愛いんだよな」
ルパートは立ち上がり、大きく伸びをした。
「じゃあ俺、疲れてるからもう帰って寝るわ。明日はアネットを迎えに行かなきゃならんし。……エディス、誕生日おめでとう。じゃあな」
彼は私のドレスにも、結い上げた髪にも一言も触れず、手土産の一つも置かず、そのまま踵を返した。
バタン、と玄関の扉が閉まる。
静寂が戻ってきた。
一人きりの食堂で、私はテーブルの上のスープを見つめた。
白い脂の膜が、冷え切った部屋の空気の中で、固く、分厚くなっていた。
――あ、もう無理だ。
涙も出なかった。
怒りで震えることすら馬鹿馬鹿しかった。
追いかけて呼び止める言葉を探してみた。何も浮かばなかった。
三年。
私の十八歳から二十一歳までの時間は、この男にとって「たった三年」で、道端の石ころのように放っておいていいものだったらしい。
私は席を立ち、母屋へ戻り、自室の机へ向かった。
引き出しから取り出したのは、安っぽい青いベルベットの小箱だ。
中には、かつてルパートが「正式な婚約指輪を買うまでの繋ぎだ」と言って渡してきた、露店のガラス玉のような指輪が入っている。
それを引き出しの隅へ放り込み、代わりに愛用の手帳と万年筆を机の上に置いた。
――三年待ってプロポーズされなかった。
それなら、答えはもう出ている。
「どなたか、他の方を探しましょう」
私は静かに手帳を開き、今週末に開かれる王宮夜会の日付を確かめた。いつもなら書き添えていたルパートの名前を、二本の線で消した。




