第14話
王都から北へ馬車で半月。ベルクシュタイン国境砦に着いて、三週間が過ぎた。
六月でも、朝の水桶には指を入れたくないほど冷たい水が溜まる。
ルパートは厩舎の戸を開け、柄の長い鋤を引き寄せた。夜の間に汚れた藁を取り除き、床を洗い、乾いた藁を敷き直す。終われば飼料袋を運び、水桶を満たす。
昨日も、その前の日も、同じ作業だった。
「おい、そっちはまだ使える藁だ。分けろと言っただろう」
馬丁頭に呼び止められ、ルパートは手を止めた。
「こんなもの、全部取り替えれば……」
「使える物まで捨てるな。足りなくなったら、誰が運んでくると思っている」
部下に向かってなら怒鳴り返せた。今はその部下が一人もいない。若い馬丁たちは、ルパートが半日かける区画を朝食前に終え、次の仕事へ移っていく。
馬の扱いなら自信があった。だが、乗る前の準備も降りた後の世話も、これまで誰かが済ませていた。
「小隊長だったんだろう。段取りくらい考えて動け」
笑われるより、その一言が堪えた。
ルパートは黙って、捨てかけた藁を拾い直した。
手首の腫れは引いていた。それでも力を入れると痛む。軍医に教わった通り布を巻いているが、すぐに濡れ、泥が染みた。
掌には水膨れができて潰れた。食事の匙を持つ時まで痛かった。
破れた作業着を持っていけば、替えの支給日までは繕えと言われる。針を通そうとして指に刺し、血をつけた布を、ルパートは長いこと睨んでいた。
エディスなら、こんなものはすぐ直せた。
口に出しかけて、唇を噛んだ。ここにはいない。
最初の作業手当が出た日には、返済額を差し引いた明細を渡された。手元に残った銅貨では、酒瓶一本も買えなかった。
王都を発つ前に出した手紙の返事も、ようやく届いた。父への金の無心には、家令から短い断り。兄からは返事さえない。
エディス宛ての手紙は、封を切られずに転送されてきた。封筒に添えられた受取辞退の紙片を、何度裏返しても、彼女の字はなかった。
『もう一度だけ会ってほしい』
その一行を書くために、夜の灯りを分けてもらい、何度も紙を汚した。それさえ読んでもらえなかった。
以前なら、呼べば来たのに。
そう思ってしまった自分に気づき、ルパートは封筒を膝の上で握り潰した。
昼食の豆のスープは、受け取った時には熱かった。
ルパートは匙を差し入れたまま、薄い湯気を見つめた。
浮かんでくるのは、あの夜の食堂だった。冷めた牛テールのスープと、手つかずの皿。よそ行きのドレスを着て、背筋を伸ばして座っていたエディス。
『スープ、温め直しましょうか』
彼女はそう言った。自分はアネットのマフィンを自慢した。
今なら、あの料理を一口食べるために何でもすると思った。けれど、彼女が欲しかったのはそんな後悔ではない。約束した時間に来て、誕生日を祝い、待たせた三年に答えることだった。
「たった三年だろ、なんて……」
呟いた声が掠れた。
自分に言い渡された十五年は、一日目から長かった。
彼女にとっても、待つ一日はこれほど長かったのだろうか。
「王都から新聞が来たぞ」
向かいの卓で声が上がった。補給便が運んできたのは、二週間前に出た婚礼特集の新聞だった。
「軍監閣下が笑ってる。こんな顔もするんだな」
ルパートは椀を置いた。
紙を広げた兵の肩越しに、見覚えのある家名が見えた。
「見せてくれ」
誰も気づかない。もう一度頼むと、兵が振り返り、気まずそうに顔を曇らせた。
「やめとけよ」
「いいから、見せてくれ!」
紙面には、大聖堂前で並ぶ二人の大きな挿絵が載っていた。
純白のドレスのエディス。その手を取り、彼女の方へ顔を向けるマティアス。描き添えられた小さな絵には、馬車の中で指を絡める二人の手まであった。
記事は、花嫁が自ら選んだレースや、式の後に見せた笑顔を伝えている。邸内では婚礼の準備中も二人で庭を歩いていたという、仕立屋の談話も載っていた。
自分といた三年間は、一行もなかった。
ルパートは記事を最初から読み直した。エディスがためらったとか、式の直前に泣いたとか。ほんの少しでも、自分を思い出した証がないかと探した。
花嫁の涙について書かれた段落はあった。指輪を交わし、新郎へ微笑んだ時の涙だった。
「本当なら、俺が」
そこまで言って、続かなかった。
あの場所に立てる日は、確かにあったのだ。誰かに邪魔されたわけではない。彼女が待っていた時に、自分で行かなかった。
涙が紙に落ちた。
慌てて拭うと、挿絵の輪郭が擦れた。エディスの顔を汚したくなくて、ルパートは濡れた指を引っ込めた。
「悪かった……エディス、俺が悪かった」
小さな声では足りない気がした。聞こえなければ、許してもらえない。
「頼む、もう一度だけ! やり直させてくれよ! エディス!!」
食堂が静まり返った。
彼女の名を叫んでも、こちらを見るのは見知らぬ兵ばかりだった。
手にした新聞の日付を見た。二人が結婚した日から、もう半月以上が過ぎている。自分がここで声を張り上げている間にも、エディスはあの男と暮らしている。
誰もその日々を止めてはくれない。
午後の作業を知らせる鐘が鳴った。馬丁頭が入口から顔を出す。
「カークランド。時間だ」
ルパートは返事をしようとして、嗚咽を漏らした。
新聞を畳み、袖で顔を拭う。すっかり冷めたスープを飲み干し、立ち上がると、掌の傷が椀に擦れた。
明日も、その次の日も、夜明けには厩舎へ行かなくてはならない。
十五年のうち、まだひと月余りしか過ぎていなかった。




