最終話
結婚式から、まもなく一年になる。
初夏の日差しが、ハルデンベルク伯爵邸のサンルームへ差し込んでいる。
私は揺り椅子に腰を下ろし、生後三ヶ月になる息子のレオンを抱いていた。父親譲りの黒い髪が、寝汗で額に張りついている。そっと撫でて直したら、小さな手に指を捕まえられた。
「起こしてしまったかしら」
レオンは眉を寄せたものの、また眠りに戻った。
起きている時も寝ている時も、見ていて飽きない。そのせいで、傍らの紅茶はずいぶん前に冷めてしまっていた。
机の上には、領地の倉庫係から届いた報告がある。雨漏りしていた屋根の修繕が終わり、今季は小麦を濡らさずに済みそうだと書かれていた。
婚約中に領内の帳簿を見せてもらい、保管中の損失が多いと気づいたのが始まりだった。倉庫係と相談し、修繕費を計算して、冬までに工事を済ませた。
今は出産後で仕事を減らしている。それでも報告の宛名には私の名があり、返事を待ってくれる人がいる。
読み終えたら、あとでマティアス様にも見せようと思った。
「ただいま、エディス」
扉の方から声がした。
顔を上げると、マティアス様が立っていた。上着は家令に預けてきたらしく、白いシャツの袖を折っている。目の下には少し疲れがあったが、私とレオンを見るとすぐ笑った。
「おかえりなさいませ。今日は早いのですね」
「会議が予定より早く終わった。明日の決裁まで片づけてきたぞ」
「それは、お疲れ様でした」
声を潜めて言うと、彼も足音を忍ばせて近づいてきた。
椅子の横に膝をつき、レオンの顔を覗き込む。息子は眠ったまま、口を小さく動かした。
「私に似ていると皆は言うが、口元は君だな」
「そうですか? 私は、この眉が貴方にそっくりだと思います」
「そんなに気難しそうな顔をしているか」
「お腹がすいた時だけ」
笑いをこらえた私を、彼は少し恨めしそうに見た。それから、私の頬へそっと口づける。
「君は、昼食を取れたか?」
「はい。レオンが眠ってくれたので」
「よかった。少し代わろう」
差し出された腕へレオンを預けた。最初の頃は首の支え方を何度も乳母に確かめていた人が、今では上手に抱き上げる。
私はようやく自由になった肩を回した。ずっと同じ姿勢でいたので、背中まで固まっていた。
「寝台へ運んでくる。君も少し休むといい」
「でしたら、戻ってきたらお隣に座ってください」
マティアス様は足を止めた。
「それは、休めるのか?」
「ええ。今日は、そうしたいです」
彼は満足そうに頷いた。レオンを起こさないよう、笑うのまで我慢している顔がおかしかった。
子ども部屋で眠った息子を乳母に頼み、マティアス様が戻ってきた。
私は揺り椅子から長椅子へ移り、隣を空けていた。腰を下ろした彼の肩に頭を預けると、腕がそっと背中へ回る。
「会いたかった」
「今朝も、一緒に朝食をいただきましたわ」
「朝食から、ずいぶん経った」
もっともらしく言うので、私は笑って彼の胸元に額を押しつけた。
「私もです。帰っていらしたら、話したいことがたくさんあって」
倉庫の屋根のこと。レオンが乳母の指を離さず、困らせたこと。父からまた、孫に会いに行っていいかという手紙が届いたこと。
どれから話そうか迷っているうちに、マティアス様が私の左手を取った。結婚指輪に指を滑らせ、そのまま手の甲へ口づける。
「ゆっくり聞こう。今日は夕食まで、ここにいる」
この一年、仕事で帰りが遅くなった日はあった。急な呼び出しで、一緒に食べるはずだった夕食を取りやめた日もある。
そのたびに使いが来た。先に食べていてほしい、休んでいてほしいと、短い手紙が届いた。
私は温かいうちに食事を取り、眠ければ先に眠った。翌朝、彼は昨夜の話を聞いてくれた。
待てるかどうかを試されることは、もうなかった。
「来週の結婚記念日だが」
マティアス様が少し姿勢を正した。
「何か欲しいものはないか。去年は支度を急がせたから、今年は君の好きにしてほしい」
「もう十分、好きにさせていただいています」
「それでも、何か贈りたい」
真剣な顔だった。私は少し考え、繋いだ手を揺らした。
「では、あの栗のお菓子を。二つ買ってきてください」
「二つでいいのか?」
「はい。一つずつ、一緒にいただきたいです」
彼が黙ったので、見上げた。目を細めたその顔を見たら、まだ付け足したいことがあった。
「でも、お菓子がなくても帰ってきてくださいね。私は、貴方に会いたいので」
腰を抱く腕に力がこもった。
「エディス。それは、少々困る」
「何がですか?」
「菓子を買う時間まで惜しくなる」
思わず笑うと、彼も笑った。顔が近づき、唇が触れる。一度離れたところで、今度は私から彼の頬へ手を添えた。
「愛しています、マティアス様」
彼の表情が、ふっと緩んだ。
私がこう言うたび、何度でも嬉しそうな顔をしてくれる。その顔を見るのが好きだった。
「私もだ。エディス」
もう一度口づけを交わすと、廊下で食器の触れ合う音がした。侍女がお茶を運んできたらしい。
そろそろ離れなくてはと思ったのに、彼の腕は緩まなかった。
「マティアス様、お茶が冷めてしまいます」
「あと少しだけ」
困った方だと思いながら、私は彼の肩へ頬を寄せた。
お茶なら、あとで淹れ直せばいい。
今は私も、この人を離したくなかった。




