番外編26 ロジェの不調(ロジェ編⑫)
年明け早々、フィオル公爵領の上空では雪が舞っていた。
この辺りは比較的温暖な地域の為、豪雪地帯のように深く積もることはないが、窓の外を見ると家々の屋根がうっすらと白くなっている。
「ロジェ、新しいお茶を淹れて頂戴」
「あ……、はい、ただいま」
この日も談話室で弟のシャルレイを構い倒していたエカテリーナが、ロジェにお茶の準備を指示する。
彼女のカップは空になっていた。
また気付けなかった。その事実がロジェを打ちのめす。
年は明けたが、ロジェの心はいっこうに晴れる兆しが見えない。
モヤモヤの原因は、ロジェ自身にはわかっていた。
侍従オーディションに参加していたマッシヴ・ディケンズだ。
全種目であと一歩のところまでロジェを追い詰めた彼は、侍従職こそ得られなかったものの、フィオル公爵家で雇用されることとなった。
一昨年以前のオーディションではいつも周囲に圧倒的な差を見せつけて勝利していたロジェにとって、自分と近しい実力を持つマッシヴは初めて脅威と感じる存在だった。
ロジェとタイプは異なるものの、マッシヴの容貌はロジェの目にも整って見える。鍛え上げられた肉体、特に逞しい胸筋や上腕、服の上からでも六つに割れているとわかる腹筋はロジェにはない魅力だ。
その他にも、日に焼けた褐色の肌や意志の強そうな目、スっと通った鼻筋などを好ましく思う人物がいるのもまた事実で、顔を認識出来ているということが何より、マッシヴが容姿端麗であることの証のようにロジェには思えた。
美形であり、そして能力の面でも自分に肉薄する人物がエカテリーナの侍従を志している。このままではいつか追い越され、自分が蹴落とされてしまうかもしれない。
そう考え、動揺したロジェは、マッシヴと一対一の対決となったオーディション最終種目であるミスを犯していた。
いつもよりほんの少し、本当に僅かだが、茶葉に注ぐお湯の温度を最適な温度よりも低いまま注いでしまっていた。
茶葉の種類やお湯の水質によっても最適な温度は異なり、茶葉を蒸らす時間もお湯の温度に左右される。
僅かに低い温度で淹れられたロジェの紅茶は、じっくり見なければわからないが、本来のクリアな褐色ではなく、微かに濁っていたのだ。
濁りは味覚には渋みとして作用する。実際、審査の際にロジェの紅茶を口にしたエカテリーナは、ティーカップを手にしたまま、暫く俯いていた。
会場の皆は、場を盛り上げるための演出で敢えてエカテリーナが考え込む素振りをしたと考えたのかもしれないが、ロジェにはエカテリーナのその反応は戸惑いにしか思えなかった。
結果として、エカテリーナはそれでもロジェを選んだ。
だが、それはこれまで侍従として仕えてきたからこそ湧いた愛着の感情による贔屓で、実力のみの評価で言うならばマッシヴが選ばれるべきだったのではないか?
そんな考えがロジェの脳内を駆け巡ったが、その場でエカテリーナの下した決定に異を唱えることはせず、彼は口を閉ざしてしまった。
そうしたのは、エカテリーナの侍従の座を譲りたくなかったからだ。
やはり、今からでも自分よりマッシヴの方が相応しいと申し出るべきだろうか?
それとも、エカテリーナにマッシヴではなく自分を選んだ真意を訊ねるべきだろうか?
だが、やはり愛着ゆえの贔屓だと言われてしまった場合は自分はどうすればいい?
そんな考えが何日もロジェの心の内に残ったまま、ぐるぐると回って重くのしかかっている。
夜もベッドに入っても寝付きが悪く、浅い眠りについては数時間おきに目覚める日々で、次第にロジェの顔には疲労の色が現れ始め、仕事中も精彩を欠く始末だ。
「……ジェ、ロジェ、溢れてる!」
「……っ!?」
シャルレイの鋭い声にロジェがハッと気付くと、テーブルの上に置かれたカップにはなみなみと紅茶が注がれてソーサーに零れ落ち、そのソーサーでも受け止めきれずにテーブルクロスを濡らしている。
そして彼の手にあるのはティーポットで、目の前の惨状がぼんやりしていた自分の失態によるものだと悟った彼は肝を冷やした。
近頃は考え込むあまり、小さなミスを繰り返していたが、こんなに酷い失態を犯したのは初めてだ。
「申し訳ございません」
「ロジェ、やっぱり君、どこかおかしいんじゃないか? 君がこんな失敗をするだなんて……。それに、顔色が悪いな」
深々と下げられたロジェの頭上から、シャルレイの気遣わしげな声が降ってくる。
シャルレイが気にかけてくれていることはわかっていたが、ロジェが彼の問いに答えることはなかった。
否、答えることが出来なかった。
「そうね……。この後、街に買い物に出掛ける予定だけれどロジェ、貴方はもういいわ。代わりにこの間のオーディションで雇った……何と言ったかしら? 偉丈夫な彼を連れて行くから、部屋で休んでなさい」
マッシヴを連れて行くから、部屋で休め。
エカテリーナにそう言われたロジェは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、目の前が真っ暗になった。




