番外編8 リベラの初恋1(リベラ編⑥)
本編開始の約11年前。
リベラ七歳、キャサリン五歳の頃の話です。
話し掛けるべきか、黙っているべきか。この時、リベラの脳内ではその二つの選択肢がせめぎ合っていた。
室内では、キャサリンがパラパラと本のページを捲る音だけが絶え間なく鳴り響いている。
今朝もキャサリンに強引に手を引かれ、連れて来られた。少なくともリベラはそう認識している。
しかし、連れてきたわりにはこちらに話し掛けることもなく、キャサリンは一人で読書を楽しんでいるのはどういう訳なのか?
リベラには皆目見当もつかなかった。
その財力は一国家を凌ぐとさえ言われているユリーナ公爵家ご令嬢のキャサリンにオークションで落札され、公爵家に引き取られてから約三ヶ月。
しばらく劣悪な環境に置かれていたために痩せ細っていたリベラの身体も徐々に回復傾向にある。
買われたからにはそのうち何か用事を言いつけられるのだろうと身構えるリベラの予想に反して、公爵家の人々は誰もリベラに何かを要求したりしなかった。
逆に上等な服や持ち物、リベラにとっては広すぎる部屋を与えられ、食事も村で暮らしていた時ですら見たこともなかったような豪華なものを毎日口にしている。
唯一、毎朝キャサリンに読書ルームに連れていかれることが要求らしいといえばそうなのだが、連れて来られた後は終始放置される。
半円を描くように配置されたソファーに腰掛けるキャサリンの隣に安置されたまま、最初のうちはびしりと畏まって置物のように過ごした。彼女の邪魔をしないように気遣ったがための振る舞いだ。
しかし、多少物音を立てたところでキャサリンが気にもしないということに気付くと、リベラはじっと座ったまま考え事をするようになった。
その考え事の内容とは勿論、彼自身の今後についてだ。ユリーナ公爵家に引き取られたことは、今のところは不幸中の幸いだと感じていた。
公女様の気まぐれとはいえ、特段不自由することなく過ごせている。だが、この生活はいつまで続くのかという不安がリベラの心の奥底にはいつもあった。
何も命じられないと不安なのだ。直接的に命じられなくても会話があれば、そこから何を求められているのか推測することも出来るのだが、キャサリンは何も話さない。
そうすると、不安の代わりにリベラの中に芽生えたのは何も話し掛けてくれないキャサリンへの苛立ちだった。
いったい、何をそんなに夢中になって読んでいるのか?
目の前にいるというのに、自分はキャサリンにとって本以下の存在なのか?
怒りの感情からほんの少しだけ大胆になったリベラは、話し掛けるという選択肢を脇に置いて、キャサリンが膝に抱えて読んでいる本を盗み見る。
【好奇心とは心の渇望である。しかし、その渇望は人間にとって劇薬で、慎重に扱わねばならない。己が為政者であるならば尚更、きめ細やかな配慮を持って扱う必要がある。だが、為政者は常に渇望を捨ててはならない。縁に遇えば則ち大道を庶幾し――】
リベラは眩暈を覚えた。文字の読み書きに関しては問題のないリベラだが、内容が如何せん難し過ぎる。読める事と、理解出来る事はまた違うのだ。
こんな難しい内容の本を涼しい顔どころか、夢中で読み耽っているキャサリン。彼女は子供の皮を被った大人なのだろうかと酷く困惑する。
普通の速度で読み進めるだけでもかなり骨が折れるというのに、キャサリンは恐ろしい速さでページを捲っていく。彼女がページを捲るまでに、数行を目で追うのがリベラにはやっとだった。
リベラはその後も何度かトライしたが、キャサリンの速度には全く追いつけず、内容にも全く興味が持てない。
だんだんと波のように視界がうねり、狭まりながら歪んでいく感覚が強くなって、意識が遠くに押しやられていった。
*****
「んんっ……」
小さく呻き声を零しながら重い瞼を押上げ、リベラが身体を起こすとその拍子にはらりと毛布が足元に滑り落ちる。
「ここは……?」
ぼうっとした思考のまま毛布を拾い、窓から差し込む光を辿るように顔を上げると、ドーム状に設計された特徴的な天井が目に映る。
現在地はキャサリンの読書ルーム。そして、相変わらず一人で読書を嗜んでいた彼女に密かに張り合うように文章を目で追っていたものの、いつの間にか横になって眠ってしまった事を思い出したリベラは落ち着きを失った。
「やばい!」
勢いよく立ち上がりながら、リベラがキョロキョロと辺りを見回すもキャサリンの姿はなく、リベラの狼狽える声にも返事はない。
「公女様を差し置いて眠りこけるとか、絶対にマズイよな……」
周章狼狽しつつ部屋を飛び出したリベラだったが、見知った人物の姿を認めて、扉の前でぴたりと立ち止まった。
「フォッフォッフォ。この部屋に客人とは珍しいのう」
「あ、あの……。ここへはキャサリン様に連れて来られて。ああ! でもキャサリン様はこの部屋にはいないんです!」
「な〜に、そんなに慌てなくとも、取って食うたりはせんよ」
目の前の人物――ユリーナ前公爵に何となく咎められているような気がして慌てるリベラを、先代公爵は宥めるように言う。
どうやら怒っているわけではないらしいと分かってリベラが胸を撫で下ろすのを先代公爵は目を細めて眺めていた。
「それよりも、おぬし。キャサリンに連れて来られたと言ったか?」
「は、はい」
「ほほう。それはまた、稀有なことじゃな。何しろ、キャサリンはこの部屋に他人を入れたがらぬからのう。儂以外となれば、たまに使用人が掃除に入るくらいじゃな」
「え、えっと、それはどういう……?」
前公爵の言っている意味がリベラにはよく分からなかった。思い違いでなければ、キャサリンは実に積極的に部屋に自分を招き入れていたように思い、リベラは首を傾げる。
「フォッフォッフォ。そう答えを急ぐでない。自分でゆっくり考えてみるが良かろうな」
面白いものを見つけた。そう言いたげな表情を浮かべて声を立てて笑う老人の背中を、この時のリベラはただ見送る事しか出来なかった。
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