6 わたしたちは、笑う
一人満足そうに部室の椅子に座ったままぼうっとしているしょーちゃん――川岸翔己を、わたしたちは向かいの校舎の窓からこっそり眺めていた。
それから二人で顔を見合わせて、ふふ、と吐息を零す。
純粋だねぇ。
わたしは、わたしたちは、笑う。
実のところ、彼に渡した作品は、わたしと蜃気楼の合作みたいなものだった。彼に書いてくれと頼まれた後で、二人して考えたものだ。
「きっとあいつ、あの作品ネットとか知り合いとかに、流出させると思うよ」
と蜃気楼が予想する。
「だろうね。もともと口が軽い少年だから。でも、それが狙いでしょ」
言ってやると、蜃気楼はすごく悪ぅい顔になった。悪魔的笑顔というやつだ。
わたしは、ちょっと悪いことしたかなーと思いつつも、ああいう秘密ごとをばらさずにはいられない彼の性格を考えて、まあいいか、と思い直す。
私たちは放っておいてはもらえない。
この小さな街の小さな学校社会の中では――あるいは、日本中どこに行ったって、『女の子同士』なんてのはまだまだ奇異な目で見られる。ひっそり人目を忍んで、なんてことは学校じゃ難しいし、そもそも隠れる気なんて私にも彼女にもあり得ない。それも、事故にあって厄介で分かりづらい後遺症を負った二人組だ。どうしたって変なちょっかい、興味本位のちょっかいが入る。
私たちは、いつしか景色になることを願うようになった。
自分たちはどうしたって人々に「消費」されるのだから、その消費の形をわずかなりともコントロールしてみたかった。挟まるでも、見守るでもない。ただ、日々の景色、自然の景色として消費されることを望んだのだ。そのためには、私たちの「無意識」について知ってもらう必要があった。でもそれを自分からアピールするのは難しい。自分たちから「無意識に生きる私たち」を宣伝しても、安っぽくなるし、「無意識による無意識の主張」では、理解しづらくもなる。こういうのは第三者が適任だった。景色ではない、無意識の住人ではない誰かが同胞に囁くべき話だった。
とそれが、あの作品を渡した理由の一つ目だった。
もう一つの理由は、こちらのほうが蜃気楼にとっては本命だったのだけど、見せつけるため、だ。
川岸翔己に渡した作品は、わたしたちの関係を描き、読者を入り込ませてから、最後に突き放すものだ。その、突き放しの直前までのパートはひたすらわたしと蜃気楼がいちゃついている。わたしと蜃気楼の仲をただただ見せつけている。
皆よ、わたしたちの仲の良さを見るがいい。いちゃつきを見るがいい。見た上で、手を出すなかれ。
そんなバカバカしい身勝手な願いが、二つ目の狙いだったのだ。
しょーちゃんは、最適だった。それなりに思慮深く理解力があり、なのに口は軽い。それに百合好きらしいし。
彼が本当に作品を拡散するのかは分からない。それにどこにどう拡散するかも。
でも、自分たちの願いを世界に流しておくのは、悪くない気分だった。
蜃気楼のきれいな悪顔と川岸翔己少年の満足顔を交互に見ながら、わたしは考える。
無意識と無意識の恋。自然のそれと同じ、景色として存在する百合。確かにとっても素敵で、ロマンチックで、玄妙な感動を与えてくれそう。
けれど、彼は考えたことがあるだろうか。
そもそも、他者の意識なんてものは原理的に、確認しようがないということを。
正常な脳のどこをどう探したって、そこにあるのは細胞であり電気信号であり化学物質でしかないことを。
意識というのは、主観的経験でしかない。他者にそれがあるかないかを証明なんてできない。
壊れた脳に意識があるかないかなんて、だれにも分からないのだ。中国語の部屋が、マニュアルを含む部屋全体として意識を持っていたっておかしくはないのだ。
路傍に転がる石ころに、雨風に揺れて濡れる木立に、焼けてふやけたアスファルト舗装に、ちぎれた雲の端切れに――そうしたすべてに、『意識があったとしても何の問題もない』のだ。
わたしと蜃気楼の脳は、大きく損壊された。
だからといって、そこに意識があるのかないのかなんて、誰にも分からない。
あの作品に書いたわたしの「内心」は、どこまで本当に存在するのか。
今こうして考えているこの考えは、質感として、意識として存在するのか。
「これで、もっと二人きりでいられたらいいね、唯」
蜃気楼が嬉しそうに言う。
「そうだね、蜃気楼」
同意して、わたしたちは互いのおでこをくっつけて笑う。
さて、わたしたちの意識は、存在するのかしないのか――?