51 囂囂たる袁家
胸の前で、軽く拳を打ち合わせる。金属同士のぶつかる音。力が腕に響く。改めて一度指を広げ、閉じる。鉄の部分が増えたワリに、動作は変わらず軽い。満足げに微笑むと、呂布は腕を伸ばし掌を空へと向けた。開いた指の隙間から射す光に、思わず目を細める。
ありがたい話だ。高都を出る際、前に鉄手甲を頼んだ鍛冶屋から渡された“新作”である。丁原が死に、呂布が董卓軍に入ってからも改良品を作ってくれていたらしい。笑顔でこれを手渡してくれた鍛冶屋は、しかし背中と腕に大怪我をしていた。店も破壊され、営業再開の目処は立っていないという。呂布は再び拳を握った。
このくだらない『戦乱』とかいう騒ぎは、やはりさっさと終わらせなければ。
「突きィ!」
「「「ハッ!」」」
「払い!」
「「「ハッ!」」」
「振り上げエィ!」
「「「ハァッ!」」」
1人前に出て手本を示す男の号令一下、整然と並んだ千を越す兵が皆同時に動き、止まる。見事に揃ったその様子は正に壮観であり、夏の日差しの中で発せられる掛声は中原の空へと響いていた。
「受けェィ!」
「「「ハッ!」」」
「下ろせェい!」
「「「ハァッ!」」」
小気味良く型を繰り出す大集団の周囲を、ゆっくりと歩いて回る男が1人。朱で装飾された豪華な鉄鎧を身に纏った、一目で将と判るその熊のような大男こそが、猛将・顔良である。
名門・袁家配下の武門の家に生まれた彼は、若い頃からからその家柄に恥じない勇敢な武人であった。壮年となった顔良は、その角張った容姿・体型そのままの剛毅剛直な将軍へと成長、天下の袁紹軍の筆頭武将としてその名を全土へと響かせている。しかし頑固な武人はその名声に奢ることなく、今も自ら調練を見て回っていた。
袁紹軍の練兵場は、街の外にあった。元々商業都市の鄴には、それまでの統治者の趣向もあってか大きな兵舎などがなく、先頃袁紹がここに本拠を移すにあたって大規模な兵舎を街の東に増築したのである。街から離れているため食事等の不便はあるが、代わりに土地は延々広がっている。大軍での調練・陣立て・模擬戦なども存分に行え、利点も多い。
そんな大地の先に気配を感じ、顔良は南に目を向けた。
「全たぁーい!止まれぇい!」
軽く上げた顔良の右手が、全兵士の動きを止める。朱き将軍の目には、南より来る異質の集団が映っていた。黒装束の騎馬隊を先頭に進む小集団の中央で、一際巨大な騎兵が馬車を率いている。
(あれが、呂布か)
来る、という連絡は受けている。思っていた以上に少数ではあるが、油断はできん。当代きっての剛の者であり、非道の親殺し。帰還を待っている文醜は未だ戻らんというのに、厄介な男がやって来るものだ。警戒して見つめる顔良。しかし、顔を上げ、強い日差しの中を堂々と進む呂布の姿からは、悪人の非道さ、卑屈さといった負の気配は一切感じられない。
「それがしは袁紹軍の末将、顔良と申す。ここよりの案内を…」
「やっぱりアンタが顔良殿か!」
「!?」
目を輝かせて口上に割り込んだ赤い巨馬の大男は、迷いなく馬から降りると右拳を包んで礼を取った。
「オレが呂布だ。この度の冀州入り快諾、本当に感謝している。その上顔良殿に出迎えてもらえるとはなぁ」
「い、いやそれは」
顔良も慌てて馬を降り、礼を返す。
「たまさかここで調練を見ておったゆえ、殿より仰せつかったまでのこと。礼なら後ほど殿に直接申されよ」
そう応じながら、改めて呂布を見た。一武将の自分に対して躊躇うことなく下馬した一軍の長たる大男は、いかにも楽しげな笑顔を見せている。仁義礼節を知らぬ極悪人、にはとても見えぬが…
戸惑いを感じながらも、顔良は呂布一行を連れて袁紹の屋敷へと向かった。
――数日前。
袁紹の元に先行する使者は誰が適任か?
協議の末決まったのは、
「全くどいつもこいつも、礼儀作法も知らんとは!」
張遼文遠その人であった。普段の言動はアレだがこう見えて仁義礼智を持ち合わせた張遼がそつなく使者をこなした結果、持ち帰った袁紹陣営の情報はというと。
『派手』
この一言である。
そしてそれは、今まさに呂布の目の前で、現実の光景となっていた。
遠目にもそれと判る、金色の門構えとそれに連なる輝く壁面。龍鳳の舞う門扉を開いて入った邸内は、真白な石造りの床に対して黒い柱と壁面には金の装飾が施され、左に朱、右に青の長布を巻いて鮮やかに彩られたその姿は都の宮殿のようでいて、祭りの最中のようでもあった。
「…いや、すげえもんだな…」
数々の彫刻や巨大な池に浮かぶ楼閣を通り過ぎ、屋敷に入っても延々続く華美な装飾の洪水に、呂布は素直に感心していた。よくもまあここまでやったもんだ。
「こちらで待たれよ」
そう顔良に勧められた椅子も、見事な金色細工である。ここは謁見の間の前の控え室、なのだろうが、飾られた壺や壁にかけてある武具などどこを見ても金の装飾でなんだか目が痛い。なかでも一際目立つ正面の大扉、左右二匹の虎が睨みあうその向こうからは、何やら声が聞こえてきていた。少し、耳を澄ます。
「……あのような狂犬を!…」
「…」
(狂犬、てのはオレのことだよなぁ)
虎の隣で横向きに直立し控える顔良は、微かに顔をしかめていた。
「愚かな!何ゆえあのような狂犬を!災禍を呼込んで何とされる!」
怒りを露に叫ぶ軍師・田豊。君主に対するにはいささか語気が荒い。
「狂犬は正面から尋ねては来んだろう?」
一方袁紹には余裕があった。頑固に同じ主張を繰り返す老軍師には辟易するが、それでも一対一なら、対立する意見を纏めなくていいなら、幾分楽だ。
「2度までも親を殺した男ですぞ!?必ずや害となりまする!かような狼藉者、即刻追い払うが…」
「くどいぞ田豊よ。行く先に困って頼って来た者を追い払うのを、俺は正義とは言わん」
「しかし!無条件で領内に入れるなど狂気の沙汰!ならば何か条件を」
「失礼致す!」
派手な音を立てて大扉を押し開けた顔良の声は、その場に問答無用の静寂を作り出した。突如動いた顔良の後で、遅れて呂布も立ち上がる。真正面、部屋の奥にいるド派手な男が見えた。あれが、袁紹…
「客人を、待たせ過ぎにござる」
(ご、ござる!?)
袁家の頭首の顔を確認する前に、呂布の視線は顔良の背中に引き戻された。
一歩踏み入れば煌びやかな鄴の街、その城壁の外では。
(奉先様、大丈夫かなあ?)
この一ヶ月の間、半ば家代わりとなっている頑丈な馬車の荷台から外に足を投げ出し、貂蝉は良く晴れた青空を眺めていた。
1人であの大貴族・袁紹様に会いに行ったあの人は、強くて優しいけれどお行儀があんまり良くない。お金持ち相手にちゃんとお話できるんだろうか?だからといって自分が一緒に行って何かできるわけでもなく、下を向いた貂蝉の小さい口から小さな溜息がこぼれた。私は、足手まといだ。
お屋敷にいた頃は掃除や洗濯があったけれど、旅に出てからは掃除はなくなり、洗濯や料理も大勢で一緒にやるため、手伝っていても『自分が役に立ってる』感じはあんまりしなくなった。なのに、ただただ守られているのだ。馬騰さんのところで目が覚めてから、あの人は近くにいることが多くなっている。目の前でなくても、同じ家の中、目に見える範囲、声の聞こえる範囲にいるのだ。今みたいに出かけるときには、代わりに高順さんか張遼さんが近くにいる。最初は気のせいかな?と思ったけど、普段だけじゃなくて、戦いがあっても誰かが残ってくれているから、きっと間違いない。みんな強いのに、私のせいで。
貂蝉は再び空を見上げた。その目には強い意志が光る。
このままじゃダメだ。私も、強くなりたい。
「…あっれ~、どこにもいねえぞ?もう行っちゃったかな?」
近くで聞こえた声に視線を下ろして目に入ったのは、頭の後ろから長い尻尾のように黒髪を垂らした男。農家の人のような服装のその男は、荷台に座る貂蝉に気付くときれいな顔をニコニコさせて言った。
「なあお嬢ちゃん、呂布さんってどこにいるか、知らないかい?」
『呂布』の名を聞いた瞬間、貂蝉の身体に緊張が走った。頭の中の貂蝉が慌てて走り出す。この場所には、この守られている馬車の周りには一緒に旅してきた人しかいないハズだ。残念ながらみんなの顔を覚えているワケじゃないけれど、奉先様が今どこにいるかを知らない人はいない。「呂布さん」なんて中途半端な呼び方をする人もいない。この人は、外から来た人だ。奉先様を尋ねて来る人はみんな奉先様を狙っていた。この人もそうかもしれない。いい人そうだけど、けどいい人そうな李儒さんはヒドい人だった!奉先様の場所を教えるわけにはいかない!でもどうしよう、つかまって人質にされたらまた迷惑をかけてしまう。足手まといになってしまう!嫌!そんなの絶対ダメだ!
「え!?な、なんで?」
身体をぎゅっと縮こめ涙を浮かべ始めた貂蝉に、戸惑いの声を上げる尻尾の男。その空気の変化に、近くの人達の視線も向き始める。そして向いていたのは視線だけではなかった。
「失礼」
静かな声と共に上から落ちてきた何かを、尻尾の男は横に転がってかわす。2刀を閃かせ着地した高順はそのまま踏み込んで転がった先の男の首筋に左手の刀を突きつけていた。
「ぅおっと待った待った!」
困りながら笑って大声を出す尻尾の男に、高順の目が見開く。
「…劉備、玄徳…!」
「へっへ~!久しぶり、高順さん!………で、この剣、どけてくんない?」
屈託無い笑みを浮かべる劉備の姿を、荷台の上の貂蝉は目をまん丸にして見ていた。
「呂布さん達が鄴に来るって聞いたからさ、せっかく近所だし顔だけでも出しとくか、と思ってね」
そのまま地面に座って話す劉備を、貂蝉のいる荷台の前に立って見下ろす高順。その視線は冷たい。貂蝉の護衛のために馬車の御者の席にいた彼は、貂蝉の気配の変化を感じて文字通りとんで馬車の幌を越え上から助けに入ったのである。接近禁止のこの場所に当たり前のように現れた劉備を警戒するのは当然の役目であった。
「…」
「いや、嘘じゃねえよ?あと、行くとこがないってのも聞いたんでね。もし本当なら、一緒に来ないかって誘うつもりだったんだけど…」
わざとらしく周囲を見回し、
「…ちょっと遅かったかな?」
肩をすくめて見せる劉備。この状況で呂布が現れていないことから、不在と判断しているのだろう。それは正しい。しかし高順は否定も肯定もしなかった。若に伍する強さを持ち、若以上に自由な気風のこの男が小賢しい策を弄するとも思えないが、場面が悪い。この時この場では、自分は若の代理なのだ。万に一つも許さず、奥方を守らなければならない。そんな高順の前で劉備はゆっくりと立ち上がると、足腰の砂埃を払いながら
「ま、いないもんはしょうがないもんなあ。これも天命、ってのかね。あんたらと一緒なら天下だって救えそうなもんなんだけど…」
そうぼやいて顔を上げた。
「ま、気が向いたら平原に寄ってくれよ。歓迎するからさ」
軽い調子で笑って言うが、少々おかしな話だ。高順は初めて口を挟んだ。
「そちらは公孫瓉殿の客分、では無いのか?」
呂布達が袁家の世話になれば敵同士である。気が向いても平原に行くのは難しかろう。
「いや、そうでもないんだな~これが」
ニッと笑う劉備。高順は、なんとなく後悔した。
「公孫瓉の旦那には縁も所縁もあるし、平原には賊がのさばってたから言われたとおり取った。けど袁紹さんとの戦は上の都合で、民衆のためにはならないからなあ。そこまで手伝う気はねえよ。袁紹さんも、そんな悪い奴じゃないし」
確かに、袁紹と事を構えるならこんなところには来ない、か。
「では、静観するのか」
それもまた不義理なのではないか?
「というか、平原も落ち着いてきたし、そろそろまた旅に出よっかな~、って思ってたとこなんだよ。だから誘いに来たんだけど…」
そう言って高順を見る劉備の目は、何かを思いついてみる間に輝き出す。ここまでのやり取りで、裏表は感じない。しかしどこかの誰かに似て、困った男だ。悪戯小僧の笑みが言う言葉は、聞くまでもなく。
「…せっかくだし、ちょっとやっていくかい?」
(『ござる』とか、本当に言うヤツがいるとは…)
「貴殿が呂布殿か!顔良にも引けをとらぬその風格はさすがよな!さ、こちらへ参られよ!」
「え?あ、失礼します」
ござるショックを引きずったまま、呂布は豪華すぎる室内へと踏み込んだ。差し込む陽光に勝るほど輝く室内の金装飾の中で、それでも隠れようも無い敵意が左横の老人から向けられている。というか、凄い顔で睨まれている。お行儀が悪い爺さんだ。
「で、天下の豪傑・呂布奉先殿がこの袁紹に、どのような用件で参られたのかな?」
対照的に正面の袁紹は笑顔である。程よく髭を伸ばし中々威厳のある顔をしているが、大きな声と輝く瞳が少年のようで好感が持てる。呂布は一礼すると、少し気を軽くして口を開いた。
「まずは我等の冀州入りを認めていただき、ありがとうございます。そして袁紹殿、もし袁紹殿が天下の争乱を終わらせるつもりなら、我らにその手伝いをさせていただきたい」
「どの口でほざくかこの蛮人めが!」
かぶせるように罵声が飛んできた。
「2度も親を殺して挙句に都を追われ、さまよう果てに食料尽きて流れ着いただけのことであろう!」
「田豊!」
「それを貴様如き非道の輩が、我が袁家の覇業を『手伝う』などと!呆れ果ててものも言えんわ!」
(めっちゃ喋ってるじゃねえか…)
「少し黙れ田豊!俺は呂布殿と話しているのだ」
君主に睨まれ、さすがに静かになる老軍師。
「呂布殿、貴殿には数多の悪い噂が付き纏っているが、俺はどうにも信じられなくてな」
「殿!何を」
と思ったら早速声を上げる老軍師を、今度は一瞥で黙らせる袁紹。中々、いい君主っぷりである。
「で、真偽のほどはどうなのだ?本当のことが知りたい」
身を乗り出して尋ねる袁紹の顔は、興味津々余裕の笑み。大金持ちの大軍団の親玉のワリに、嫌味が感じられない。悪を嫌う、と聞いていたが、文醜のように頭が固いワケではないらしい。張楊が「気が合うかも」と言ってたのはこういうところか。呂布はできるだけ簡単に、正直に答えた。
「オレの無力が、師や義父を殺したのは事実です」
「フン、何を申すか。貴様がその手で殺したのであろうが!」
「田豊、いい加減にしろ。本人の言を信じんでどうする?」
「いいえ黙りませぬ!もし親殺しが偽りの噂と言うならば、武勇の噂もまた偽りではないのか?よもや『そちらだけ真実』などと都合のよいことを言うつもりではあるまいな!?」
そのつもりだった呂布は困った。一拍、答えに詰まる。
「それ見たことか!答えられんではないか!」
(って言われてもなぁ…)
「憚りながら!」
「「「!」」」
それまで呂布の右手前でじっと控えていた顔良が不意に出した大声に、他の3人の動きが止まる。不機嫌そうな表情の顔良は、丁度正面にいる老人の顔を見据えて言った。
「某が、お相手仕る」
「おお、それはいい!その目で見れば田豊も納得できよう。さすが顔良、よくぞ申した!」
無邪気に喜ぶ袁紹に、忌々しさが全面に出ている田豊。
助け舟、なんだろうか?君主は良いヤツのようだが、どうにも部下達はややこしいようだ。しかしまあ、それはともかく。
袁家の誇る猛将と戦える上に、うるさい爺さんを黙らせる一石二鳥の好機である。ここは一丁、ガツンといくか。




