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46 出発

「…ほ、本当に、お世話になりました!」


 必死な声で頭を下げる貂蝉ちょうせんに、満足げな笑顔で頷く馬騰ばとう。2人の間にある机の他には何もない簡素な部屋で、ただ足元にだけ、熊の毛皮が広げられている。床に伏せた形のその熊の顔を見ると何か申し訳なくて、呂布は毛皮に乗るのを躊躇した。見れば、貂蝉は遠慮なく踏んで上に立っている。

(こういうのは平気なのか…)

 呂布は一歩踏み出し、貂蝉の隣に並んだ。そのまま頭を下げる。

「良かったなぁ!嫁さん、元気になって」

「!…ええ、おかげさまで」

「ここに来たときは文字通り虫の息だったからなあ。あれはさすがに驚いたぞ?」

 本当に、よく回復したもんだ。

 笑う馬騰につられて、改めて貂蝉を見た。痩せてしまって小さい身体がさらに縮んで痛々しいが、肌の色は健康を取り戻している。今は緊張で固まっているが、思い切り緊張を表しているその大げさな表情も、らしいと言うか、元気が出てきた証拠だろう。それもこれも

「本当に、感謝の言葉もありません」

馬騰の手厚い保護のおかげである。呂布は再び頭を下げた。

「いやいや、構わん構わん」

 笑顔で広げた手を振る馬騰。

「で、いつ発つんだ?」

「そうっすね……明日には、出るつもりです」

 なるべく早く、とは思っていたが、それでも貂蝉の全快は待つつもりだった。それを早めたのは、長安の動向のためである。



 李儒りじゅの残した大兵力をそのまま引継ぎ長安の主となった司徒しと王允おういんは、その兵力をもって董卓暗殺以後の混乱を迅速に収めることに成功していた。反面、暗殺の首謀者にして実行犯(ということになっている)・呂布に対しては、一切の追撃を行わなかった。急遽手にした都と兵権の管理に必死で、ごく少数で逃げ出した敗残の呂布一行ごときに構う余裕は無かったのである。そんな王允が、西涼の雄・馬騰の庇護下に入った呂布を狙うはずも無く、これまでは平穏に過ごせていたのだ。

 動きがあったのはつい先日の事である。高順の調べによると、董卓暗殺計画の一端として東の洛陽で徐栄じょえいを闇討ちした元董卓軍と王允の関係が決裂、戦の準備が進んでいるというのだ。 


 先ごろ、徐栄の闇討ちに主立って加担していた大将・牛輔ぎゅうほを自ら討ち、長安への帰参を求めていた元董卓軍。対して、王允はその申し出を頑なに拒絶していた。その理由は


『董卓が罪を着せて捕らえていた文官武官その他大勢に対し、帝の恩赦を賜り罪を晴らした。恩赦は年に一回という決まりであり、謀反人である元董卓軍を赦すことはできない』


という屁理屈じみたものである。王允は、どうしても涼州のヤクザ将兵を自らが治める都に入れたくなかったのだ。表向きは董卓に重用されながらも内心で涼州ヤクザを毛嫌いしていた王允は、権力を手にしたことによって徐々にその本心を露にしていた。

 それでも元董卓軍は、帰参が叶わぬなら和睦を、降伏を、と何度も使者を送った。長安にも「元々董卓軍は味方であり、この降伏は受け入れるべき」という識者はいたのだが、あろうことか王允は彼らに“逆賊董卓の残党”という汚名を着せて投獄、処刑してしまったのである。ちなみに処刑された識者の中には、郿城びじょうで呂布たちを助けた才女・蔡琰さいえんの父であり、学者・人格者として名高い蔡邕さいようもいた。彼の死に、広く全土の学者・文人たちが涙を流したと言う。

 このように、知的で温厚だった老人は、時が経つにつれ長安の主としての立場・権力に呑まれ、狂気に染まり始めていたのである。当然、元董卓軍の降伏など認めることは無く、それどころか涼州出身の兵を追放し、都に多くいる涼州出身者をも弾圧し始めていた。自然、人心は離れていく。

 この事態を受け、それまで下手に出ていた元董卓軍は態度を一転、長安攻略へと動き出したのである。



「明日とはまた早いな!しかし旅には体力がいる。もう少し休んでいった方がいいんじゃないか?」

「そう言ってもらえるのは本当にありがたいんですが、早いほうがいいんです。ま、無理せずゆっくり行きますよ」

 呂布は笑顔で答えた。


 長安の王允とその東に陣を敷く元董卓軍が戦に入れば、呂布のいる西方の馬騰軍は王允の背後にいる形になる。これまでは放置されていたが、そうなっては王允も呂布を無視できないだろう。同様に、元董卓軍からは挟撃を要請できる存在として視野に入っているはずだ。

 ここ留まれば、どうあっても馬騰軍を戦に巻き込んでしまうのである。

 もちろん、文官の老人率いる都の弱兵相手に馬騰軍が負ける、痛手を負う、などとは思わないが、それでも死者は出る。無関係の恩人を無用の戦に巻き込むなど、あり得ない。

 それに、ひと月いてよく解ったが、馬騰には領土拡大の意志が無い。天下に号令、などということに、魅力を感じていないのだ。思えばそれは義父・董卓も同様だったのだろう。たまたま機を得て少年皇帝を拾ってしまったために、やむなくあの立場にいたのだ。だから洛陽以東には一切興味を示さなかったし、最後には全部投げ出して「自由に旅に出る」などと言っていたのだろう。彼らにとっては涼州を、自分の領土、自分の身内を守ることこそが重要なのだ。

 外の戦に巻き込むワケにはいかない。




 お前は、外の世界を駆けて来たのかい?その大きな足で、これから一杯いろんな場所を駆けるのかい?


 間近にしゃがんで赤い巨馬を見上げると、目が合った。こちらに向けたその顔は、つまらなそうでもあり、誇らしげでもある。

「いいなぁ」

 つい、声が漏れた。

「?誰だ、今のは?」

 表で声が上がる。バレたなら仕方ない。少年は立ち上がった。

「よりによって赤兎のとこに忍び込むたぁ、命知らずな……って、ガキかい?」

 あまり緊張感の無い声と共に顔を出したワシ鼻の兵士は、小柄な人影を確認すると腰の剣から手を放す。

「坊主、どっから来た?そいつは気性が荒いから気ぃつけな」

 意外にも優しく話しかけてきたその兵士に笑みを向けると、おかっぱの髪を揺らして少年は赤兎へ振り向いた。赤兎が首を上げる。ワシ鼻の目が、そちらに釣られて動く。

「ありがとう、おじさん」

「!」

 真後ろからかけられた声に、ワシ鼻の兵士は身体ごとビクついた。

「え、お前さん、さっきそこに、え?えぇ?」

 目を丸くして振り返るワシ鼻に、少年は再び笑いかける。

「赤兎、いい馬ですね!」

「お、おう…」

 薄緑の衣も軽やかに、少年は涼風のように厩舎を抜け、街へと消えていった。


「……」

 ワシ鼻の兵士、こと候成こうせいの思考はしばらく止まっていた。気付けば、遠くで呼ぶ声がする。

「候成さーん。アレ、いないや。候成さん?お~い」

「あ、ああ、曹性の兄さんか。すいやせん、こっちっすよぉ!」

「あ、いた。もう、当番サボってると若に怒られますよ?」

「いやぁ…、兄さん、さっき緑の服着たガキ、見やせんでした?」

「…見ませんでしたけど。何ですそれ?」

「いやぁ…、何、でしょうかね?」

「?ええと、寝ぼけてます?あ、平和ボケですか?」

「……すいやせん」

 若い上官と並んで歩く候成。持ち場である厩舎の入口で立ち止まる候成に対し、曹性はそのまま出て行こうとする。

「で、兄さん、何の用事で?」

「いや、お昼ご飯、行きません?」

「………平和、っすねえ」




「ただ、こんな平和に長居させてもらって何も返せてないのが…」

「そんなことは気にするな、と言ってるだろう?」

 馬騰は眉をへの字に曲げてため息をついた。野生的な逞しい顔の中でその瞳は驚くほど澄んでいて、優しさと知性を湛えている。呂布は小さく笑った。コレは、反則だよな。そりゃ異民族にも慕われる。

「と言ってもお前は納得せんか。じゃあれだな、この前の勝負。あれを勝ち逃げさせてもらおう!」

「……はぁ?」

「ああいう戦い方ってのは何度も通用するもんじゃないからな。次やったら負ける自信があるぞ!」

 胸を張って得意げに笑う馬騰を前に、言葉が出ない。

「…だが覚えておけ呂布殿。一回でいいのだ。お前は元が強いから気付きづらいのだろうが、一回目は大事だぞ。できる内に、何でもやっておけ」

「はは、耳が痛いです」 

 高順にも似たようなことを言われた気がする。そんなつもりは無いのだが、どうも相手の出方を待ってしまっているらしい。そして、何でもやれ、か。馬騰の戦いがまさにそんな動きだった。まんま盗める技ではないが、姿勢というか心構えというか、アレは参考にすべき、いい経験になった。

 …違う、こっちが得をしてどうする。恩返しはどこ行った?

「いやしかしやはり何か」

「案外しつこい男だなお前も」

 食い下がる呂布に心底驚いた顔になる馬家の棟梁。

「だがは俺は何も困ってないんでな……よし、ならばこうしよう。出世払いだ。この先、涼州に何か困ったとことが起きたら、その時に返してくれ」

 強大な馬騰軍にどのような危機が迫るというのか。

「それじゃ結局『何もしなくていい』ってのと同じじゃないですか?」

「いやいや、未来のことはわからんぞ?俺はともかく息子は変わり者だからなあ」

 そう聞いて、馬騰の2人の息子、馬休ばきゅうと馬鉄《馬鉄》を思い浮かべた。まだまだ幼いが、どちらも武芸を好む、素直な子供である。父と比べれば、普通だ。

「休も鉄も、いい子じゃないですか」

「ん?ああ、その上にいるのよ。超、っていう、変わり者の長男が。なんだ、一回も会ってないのか?」

「?ええ、多分…」




 薄緑の袖をはためかせ、少年は高台から街を見下ろしていた。今日は少し風が強い。

(会えて、良かったな)

 大きな赤兎の姿を思うと、笑みが浮かんだ。彼のような名馬に跨り、見知らぬ土地へと駆け回るのはどれくらい楽しいだろう?呂布が赤兎に跨り駆ける姿を思うと、それはいかにも勇壮で、素晴らしい。

(とりあえず、馬に乗る練習はしないとな)


 武闘派ヤクザ・馬家にあって、棟梁の長男である馬超は武芸に興味が無かった。理由はひとつ、必要ないからである。偉大な父が四方どころか八方全てをその武威で抑え、危険は無い。それでいて内剛を忘れず、十二分な武力はあっても無用の征服欲は無い。

 涼州にこれ以上の武勇はいらない。馬超は、自分は知恵の方を担当すべきだと考えていた。

 しかし。

 頭で考えていた事とは無関係に、心が動いた。血が騒ぐ、というのはこんな感じなんだろう。輝くような赤い巨馬は、少年の心を捉えて離さなかった。


 頭を巡らせ、遠く無限に広がる大地を見渡す。風に乗った心は空を渡り、まだ見ぬ愛馬と共に自由奔放に駆け回っていた。




「挨拶だけはしに行くよう言っておいたんだが、あの気まま小僧め」

 そう言いながらも、馬騰は嬉しそうだ。良い棟梁であり、良い父親なのだろう。

「何を考えてるのか、あいつは武芸をやらんのだ。馬にもろくに乗れんはずだ。そうだ、機会があったらあの風来坊子を鍛えてやってくれ。これも頼んでおこう」

 ついでの思いつきで恩返しの項目が一つ増えた。自由気ままは親譲りだな。思ったが口には出さず、

「わかりました。何かあったら、必ず駆けつけます」

「うむ、そうしてくれ。もっとも、何も無くても帰って来ていいからな?いい感じに住処が定まらなかったら、戻って来て涼州ここに住むがいい。お前たちならいつでも歓迎してやる」

 片目をつぶって笑う馬騰。隣からの視線に目を向けると、嬉しそうな貂蝉と目が合った。涼州ここは、いいところだもんな。

「そう、ですね。ありがとうございます。その時はお願いします」

 もう一度、2人で目を合わせ

「「ありがとうございました」」

深く、頭を下げた。




 かくして。一月あまりの静養を経て、呂布達は涼州を旅立った。運命の流れが再び交わることを、淡く願って。


 地位も、領土も無い。家族のいる地元涼州に残る部下も多く、兵数は100に満たない。それでもこれが、集団の長としての、『呂布軍』としての、最初の一歩であった。



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