44 涼州の馬家
緑豊かな中原の平野とは比べるべくもないが、荒れた山野にも春は訪れ、若い緑と野の花々がその土地なりの景色を飾る。山肌を流れる川の流れは陽の光を様々に跳ね返し、川沿いに並ぶ無数の岩を複雑に照らしていた。
その岩々の内、大人の背丈を越す程の巨岩の陰で、負けず巨大な赤い肌の馬が水を飲んでいる。水音と陽光に包まれて飲む澄んだ川の水はおいしそうだ。巨馬のすぐ傍に座って様子を見つめる少年は、そう思った。首の辺りで切り揃えられた綺麗な黒髪を耳にかけると身体をかがめ、川面に顔を近付け片手で水をすくって一口啜る。清廉な自然の味が一気に口中に広がり、少年は大きく目を見開いた。微かに涼やかな香りがゆっくり鼻へと抜ける。横一文字に広がった口の両端は勝手に上がり、少年は満面の笑顔で隣の巨馬の方を向いた。目が合う。
(うまいな!)
巨馬は雄々しい尻尾を軽く振った。
「おーい赤兎ー、そろそろ帰るぞー」
川上側、岩場が作った斜面の上から呂布がそう声をかけた時、眼下の川辺の赤兎の傍に淡い緑色の服を着た人影が見えた。立ち上がったそのおかっぱ頭は、子供、と言うには少し背が高い。15やそこらだろうか。
(お?赤兎が嫌がってないな)
呂布の相棒は人を見る。高順や張遼は何ともないが、興味本位の若い兵などが近付くと、それだけで暴れることもあるのだ。子供と並んでいるところなど、初めて見た。
おもしろい。
しかし、下に降りるため一端川から離れて迂回した呂布が赤兎の元に辿り着いた時には、少年の姿は無かった。辺りを見回すが、気配もしない。呂布は軽く息を吐き、次いで苦笑をもらした。
残念は残念、だが、こんな小さな残念で溜息が出ることの方が、問題である。呂布は赤兎の首を軽く叩くと、共に歩き出した。街に戻ったら、そろそろ高順に相手でもしてもらおうか。
董卓の死から、一月程経っていた。長安から北西におよそ200㎞、安定郡・臨涇。この街で、呂布一行は馬騰の保護を受けていた。
董卓が「何かあったら頼れ」と言った、涼州の一大ヤクザ・『馬家』の棟梁、馬騰。字を寿成という。伝統ある涼州ヤクザの馬家には、その歴史の中で北方・西方の騎馬民族の血が混ざっており、褐色の肌に骨太大柄、濃い眉・髭、荒々しく波打った黒髪を乱暴に縛った馬騰も、一目見ただけではどこの異民族か、といった容貌であった。その猛々しい姿に相応しいだけの武勇を持ち、それでいて度量が大きく賢明で人格者の彼は、涼州の人民はもちろんのこと、同業者や周辺の異民族からも認められ、尊敬されていた。敗残の呂布軍も、一瞬の迷いもなく受け入れられた。
川から坂を下り、街が近付くと、兵士の掛声が聞こえ始める。
そんな馬騰へのせめてもの礼として、今この時も高順と張遼は馬騰軍の練兵を手伝っているはずだ。呂布は口をへの字に曲げた。怪我人扱いで、参加させてもらえないのだ。だが、もうどこにも痛みは無い。門の前で一度立ち止まった呂布は、確認するように大きな動作で、一歩、活気ある街へと踏み入った。
本来、長安からそう遠くない安定郡は董卓軍の領地だが、先の董卓軍の洛陽への東進に際し、手薄になる長安以西の董卓領は馬騰が一時的に預かることになっていた。そのおかげで、長安・郿城から逃げ出した呂布一行は、敵と化したと元董卓軍から逃れるのにさほど長距離を移動せずに済んだのである。先に用意されていた状況とはいえ、満身創痍の呂布軍にとっては僥倖であった。さらに幸運なことに、李儒が長安に兵を集めていたことに加え、その後長安の主権を握った王允が軍を操るのに不慣れなこともあってか、郿城から安定までの道中では、少数の元董卓軍を見かけることはあっても、襲われることは無かったのである。
「お、呂布殿!今日も猟ですか?精が出ますな」
棟梁・馬騰の人柄が反映されてか、ここの兵達はみな人が良い。呂布を見ると、多くの者が気さくに声をかけてくる。門の守衛のこの中年兵士も、その一人だ。
「いやいや、暇つぶしのようなもんさ」
言って呂布は左手に下げていた荷袋を渡した。今日の獲物は山鳥が2羽。
「え!?もらっていいんですか?」
「かたっぽだけな。おすそわけだ」
1羽は、これから向かう先の分である。
「早く元気になられるといいですねえ、奥方様!」
「!……そ、そうだな」
にこやかに礼を言う守衛に手で応え、そそくさとその場を立ち去る。正式に祝言を挙げたわけでも、わざわざそう名乗ったわけでもないのだが、練兵にも参加できずに毎日貂蝉の見舞いに行っていたら、いつの間にかこう呼ばれるようになっていたのだ。
正直、むずがゆい。
呂布はごまかすように目的地である館を見上げた。山間の小さな盆地にあるこの臨涇の領主の館は、街の北端、山を背にした丘の上にある。小さな街なのでそれほど大きい屋敷ではないが、呂布がここに来て以降、馬騰はずっとその館に滞在しており、貂蝉もその中の一室を与えられていた。つまり、もし何者かが呂布や貂蝉を狙った場合、それはそのまま馬騰と敵対することを意味するのだ。
(まったく、西涼ヤクザってのは…)
この恩、どう返せばいいものやら。
「そこまで」
高順の声が決着を報せた一拍後、宙を舞った槍が大地に落ちて重い音を立てた。振り抜いた槍を肩に担ぎ直し、にやりと笑う張遼。この一月で恒例となりつつある、休憩時間の手合わせである。
「ぬうっ!もう一番、お願いします!」
拳で地を打ち叫ぶ男の名は、龐徳という。馬騰直属の部隊を率いる青年武将である。
龐徳、字は令明。涼州出身の彼は少年時代から馬騰に仕え、異民族討伐などで武功を上げていた。常に最前線で戦う武勇と豪胆に加え、真面目で、礼節をわきまえ、頭の回転も速い龐徳は、馬騰軍中のみならず、涼州ヤクザ界隈でもその名を知られ始めていた。しかし。
「これだけ毎日やられてよく飽きんな…」
呆れたような口ぶりで言う張遼。このひと月で日の数の3倍は戦っているが、張遼は一度も負けていない。
主に異民族や涼州ヤクザと騎馬で戦闘してきた龐徳は、馬上であれば張遼と五分に渡り合えるほどの力を持っていたが、馬を降りての戦いはまるで経験不足であった。だからこそ、突如現れた猛者の胸を借りて己を鍛えようとしているのである。彼は、真面目で努力家であった。そして。
「…ならば飽きるまで相手してやろう!」
しっかり構えを取る張遼。この男が『いいヤツ』だということは、馬騰軍にもすでに浸透していた。
広大な練兵場は、領主の館に行く途中にある。呂布が横目で通り過ぎようとしていると、
「龐徳ー!がんばれー!」
「ほうとくどのー!」
観戦する兵士の輪の中から聞こえる、場に似つかわしくない幼い声。
(ガキ達、こっちにいるのか)
声の主は、馬騰の息子である馬休、馬鉄兄弟に違いない。ということは、馬騰殿も来ているのか?
棟梁の横を素通りするのは悪いな。などと言い訳じみたことを考えながら、呂布は練兵場へと向かった。
踏み込みと共に直線に伸びる切先。勢いの乗った、鋭い良い突きだ。槍を合わせ身体を捻りかわす。刃は止まらず2段目、顔へ向かう突きを横から叩き、弾く。弾かれた槍を旋回させ上段から叩き付ける龐徳の一撃を、同じ上段で真正面から迎撃する。守勢の張遼には余裕があった。
力は申し分ないが、龐徳の攻撃は正直過ぎるのだ。身体、目線、全てが次の一撃のためになるだけ正しく動く。一人で型をやるならそれでいいが、実戦では駄目だ。
(馬上でできることがなぜ地上でできんのだ?)
一度騎馬同士で打ち合ったときは、馬術を得意とする張遼が目を見張るような、人馬一体となった縦横無尽の動きで追い詰められたのだ。負けはしなかったが。
それが、である。
さらに数合打ち合ってみるが、やはり馬鹿正直だ。目線はマシになってきたが、それでもまだ一瞬、狙う箇所を見てしまっている。受けの練習にはなるかもしれんが、これ以上付き合っていると勘が鈍りそうだ。間合いが開いた隙に張遼は交代要員を求めて高順の方を見た。いや、しかし高順のあの攻防一体の技は、龐徳にはまだ早いか。視界の奥に、巨大な赤い影が見えた。
「余所見などっ!」
叫びを上げて踏み込むと、渾身の突きを放つ龐徳。張遼の顔から余裕が消える。素早く槍を引き、苛烈な突進を静かな動作で迎え撃つ。穂先が交差し、弾ける。
「そこまで」
槍を逸らされ体勢の崩れた龐徳の首元には、張遼の槍が突きつけられていた。場が、どよめく。
ざわめきの中心で、穂先の根元を掴んだ右手を柄の中央に戻しつつ、張遼は口を開いた。
「今日はここまでだ」
「なんの!私はまだまだいけます!」
張遼はあからさまに嫌な顔をした。
「同じ相手とばかり戦っていても強くはなれんぞ。妙な癖が付く。交代だ交代」
「そうですか…」
龐徳は心底残念な顔をした。が、すぐに真顔になると
「張遼殿、ありがとうございました!」
深く礼をする。
「しかし、交代、と言いますと、どなたが?」
その質問に、張遼は意地悪い笑みで応えた。
「さすがは張遼、てとこか」
捻りだけで龐徳の突きを弾き、その上で穂先が当たらないように槍を引き戻すとは。兵達の輪の外側で観ていた呂布は、笑いながら感心していた。しかし、気になることもある。と、遠くの張遼が手を挙げた。誰かに手招きしているようだ。こっちを、向いている、のか?周囲の兵達の視線が集まる。
「……え、オレ?」
「おお!今日は呂布殿がやっとるのか!これは見に来た価値があったな!」
「!」
「殿!来てたんですかい!」
「御疲れ様です!」
「「御疲れ様です!」」
軽く手を挙げ、次々と上がる声を制する大男は、馬騰その人である。簡素だが小ぎれいな漢の衣服を着たその姿は、いかにも『名将』といった風であった。ただ一点、首から下げた牙の装飾だけが、“らしさ”を主張している。
「おう、こっちはいいからちゃんと観てろ。で、令明のやつはどうなんだ?」
「いやー、まだまだっすねえ。負けてるだけっすよ」
「しょうがねえって、アレじゃ分が悪いや」
濃い髭面の棟梁は楽しげに笑った。
「んだと?条件は対等だろうが」
「いやそうっすけど…」
一際大きい剣戟の音が響いた。観戦の兵たちが大きくどよめく。
「殿!前へどうぞ!」
「悪いな、ありがとよ」
最前列に進むなり、馬騰は叫んだ。
「令明!思い切りやれい!俺が許す!」
照らす陽光に、首元の牙の飾りが光る。
「だってよ。なーんか硬いと思ってたら、やっぱ手加減してたのか?」
笑顔で尋ねる呂布。愛用の戟剣を、今は剣として右手だけで握っている。ついさっき突きを払った感じだと、身体は問題なさそうだ。
「まさか。ずっと本気ですよ」
対して、龐徳の表情は硬い。両手には軽い痺れが残っている。
なんだ今のは?力が強い、なんてもんじゃない。打ち払われた槍に、身体ごと持っていかれそうな感覚。あの巨大な長刃の戟を、片手で振ってあの威力なのか?張遼殿のどの攻撃より、重かった。嫌な汗が流れる。
今日まで、苦手な地上戦を基礎から覚えるため、丁寧に、基本に忠実に攻撃してきた。手加減ではなく、制限していたのだ。おかげで負けてばかりだったが、良い訓練になった。しかし、この相手にそれでは、話にならないだろう。
殿に言われるまでもない。
「…ですが、ここからは全力《、、》でいきます」
「真面目だねえ」
纏う空気の変わった龐徳に対し、呂布は変わらず笑ってみせた。わざわざ宣言してくれるとは、趙雲か。放浪の武術家を思い出すとさらに楽しくなった。と同時に、自然と気が引き締まる。久しぶりに得物を握って楽しいからといって、油断していいハズがない。知らない相手なのだ。何をしてくるかわからない。それに、この場を譲ってくれた張遼の手前もある。大きく一呼吸して知らず入り過ぎている力を抜くと、呂布は戟剣を正眼に構えた。
「じゃあ、こっちも真面目にいこうか」
一瞬の緊張。
「…では、よろしくお願いします!」
律儀な挨拶と共に龐徳が動いた。鋭く踏み込み、突きを放つ。空を穿つ迫力。確かに今までとは違う。戟剣を合わせ、押し出す。重い。火花を伴い右へ逸れた。そのままさらに踏み込み、下段を薙ぎに来る。荒いし速い。下段を掬うようにして打ち返すが、今度は軽い。誘いか!得物を下げて空いた顔面に、左から蹴りが迫る。
(こいつ!)
マジで趙雲か!?直撃寸前で左手が間に合うが、蹴りに押されて後に体勢が崩れた。ところに
「ぬぅん!」
空を斬り裂く一撃を叩きつける龐徳。金属の爆ぜる音が響く。
「……やってくれるじゃねえか」
その声に、龐徳は槍を引いた。が、動かない。掴まれている?確認する間もなく、大地を揺らす鈍い轟音。眼前には呂布。
「!?」
真正面から凄まじい衝撃を受け、龐徳は吹き飛んだ。
「…こんな感じだったよな?」
「違いますね」
遠くで倒れている龐徳に背を向けた格好で得意げに尋ねた呂布に、高順はあっさり答えた。
おそらく趙雲の『靠』の真似をしたのだろうが、今のはただの『背中体当たり』だ。もっとも、たいした距離もないのに箭疾歩で跳んで勢いそのままあの図体がぶつかったのである。その威力、推して知るべし。趙雲もかくや、という動きを見せたと龐徳に対し、(できもしない)趙雲の技で返す若のその対抗意識は意味不明だが、ともあれ。
「そこまで」
勝負はついた。
周囲にざわめきが広がり、まばらな拍手がそれを追うように全体へ伝播する。
上体を起こし、頭を振って視界を戻す。何だ今のは?体当たり?その前、理解できない速さで近付かれたのは何だ?
「龐徳、大丈夫か?」
見上げると、呂布の手が差し出されていた。
さっきの技は何ですか?
あの移動法は?
手合わせありがとうございます。
力不足で申し訳ありません。
どれから言えばいいのかわからず言葉が出ない生真面目な龐徳の腕を掴むと強引に引き起こし、
「いやー、『全力』、いい動きだったぜ!真面目一辺倒かと思ったら、やるじゃねえか!」
呂布は笑った。そのあまりに素直に、純粋に楽しげな様子に、
「…いえ、ありがとうございました!」
龐徳も笑顔で答えた。楽しかった。今は、それでいいか。
…質問は、後でまとめてしよう。
「天晴れだ!さすがは呂布殿!」
よく通る大声。一際響く大きな拍手をしながら進み出る馬騰に、兵達は軽い緊張と共に鎮まる。呂布は軽く礼をして答えた。
「いやいや、龐徳もなかなか。さすがは馬騰軍の将、って感じですよ」
「だろう?あいつは若いが、真面目で筋がいいからな」
歯を見せて笑う馬騰。
「だが」
「?」
「天下無双の呂布殿に、未熟者の相手をさせただけでは馬家の顔が立たんのだ」
にやりと笑う棟梁の目は輝きを増していく。呂布は首をかしげた。そんな呂布の肩に手を置くと、
「俺も正直、熱くなっちまってなぁ」
馬騰は後ろを振り返って叫んだ。
「お前ら!せっかくの機会だ!この天下の勇将と、俺との手合わせ、見たくはないか!」
一瞬の間。
直後、周囲が爆発した。皆が拳を振り上げ、喚声を上げ、大気が震える。
「「うおおおおおおおお!」」
「熱いぜ殿おおお!」
「涼州魂、見せてやれえええええ!」
「父上ぇ!がんばれえええ!」
一気に盛り上がった空気の中心で、目を丸くした呂布と高順は顔を見合わせていた。
「……本気か、これ?」




