41 郿城防衛戦
「董太師は殺され、李儒殿も討たれてしまった!じゃが、反逆の徒・呂布は追い払った!みなの力で、長安を守ったのじゃ!」
力強い司徒の言葉に、兵達から雄叫びのような声が上がる。
李儒が死んだ長安で、指揮官不在の大軍をいち早くまとめ上げたのは、王允だった。
ここまで上手く話が進むとは、思ってもみなかった。李儒が董卓を殺し、その李儒は呂布に殺され、呂布は逃げ出し、大軍勢と、邪魔者の消えた長安だけが残ったのだ。これを笑わずにいられようか。王允がやったことと言えば、小心者で神経質な李儒を遠回しに焚きつけた、それだけなのだ。
街の中央、宮殿前の広場を埋める数万の兵の前で、涙を流し声を張り上げながら、王允は心中で笑った。
この王允が、都の、漢の主じゃ!
(呂布の奴、よくあそこから逃げ出せたものだ)
この混乱の中、僅か数騎の護衛と共に長安の東門を出た賈詡は、その巨大な城門を振り返り、笑みを浮かべた。
筆頭軍師の自分から見れば直接の部下に当たる李儒が“危うい”というのは、解っていた。後から現れた邪魔者である呂布を狙う、というのも予想の範疇である。だが、これほど早く、しかも君主であり義父でもある董太師夫妻まで手にかけるとは。王允の入れ知恵がそれほど強力だったのだろうか。双方、見誤った。
珍しく失策を認めた賈詡は、笑ったまま正面、東方に目を向けた。視線の先には、こちらに向かう軍勢が映る。牛輔率いる洛陽方面軍。先程得た情報では、あの完璧中年・徐栄殿を暗殺したというから驚きである。李儒は君主となってこれを操るつもりだったのだろうが、その李儒はもういない。愚か者の牛輔は長安に乗り込み、同時に郿城も襲うだろう。あそこに莫大な財がある、という噂を疑う頭は、奴らには無い。
(さ、少し時間を作ってやるか)
その智を頼りに生きるこの男は、最強と謳われる武をもって生きる呂布を気に入っていた。その行く先に興味があった。牛輔ごときに討たせるのは惜しい。
笑う軍師は、その舌鋒を大軍に向ける。
「若あっ!北から!異民族が!」
曹性の叫び声は聞こえていたが、呂布は振り返らなかった。何を置いても今はまず貂蝉だ。間に合うかも知れないものを、遅れさせるわけにはいかない。蔡琰と名乗った女の測るような視線、それに晒されていたのは一瞬だったのかもしれないが、呂布には十二分に長く感じられた。
「医者はいるのか?」
声に苛立ちが現れている。対照的に優雅に笑う蔡琰は、目を逸らさずに頷いた。
「その娘、貂蝉はお預かりいたしましょう。…担架を。それと御典医殿もここへ。急ぎなさい」
「はいっ!」
声をかけられた侍女は呂布に一礼し、小走りで廊下の奥へ向かう。それを見送った蔡琰は優美な身振りで呂布に近寄ると、滑らかに腕を伸ばし、自然に、当然のように貂蝉を優しく抱き止めていた。美しい顔を微かに曇らせ、青白い顔の少女を間近で見つめる。いつの間にか貂蝉を渡していた呂布は、そのことに気付く余裕も無く視線を落とし、頭を下げた。
「…頼む、そいつは………頼む!」
「この子のことは、お任せを」
その返事に、頭を下げたままで一つ大きな息を吐く。よかった。
少しの沈黙の後、呂布は目を見開き、頭を上げた。重い。頭だけでなく、全身が重かった。矢傷の深かった左肩と右脚からは、激痛が響き渡る。だが、ここは守らなければならない。南の李儒軍に、北の異民族。対してこちらは100騎程度、守る拠点は城砦ではなくただの巨大な屋敷。防戦になったら終わりだ。即、打って出る。呂布は入口へ向き直った。走って現れた曹性に声をかける。
「長安は?」
「今のところ動いてません!」
「よし!全員騎乗し…」
「お待ちなさい」
凛とした声が背中から吹き抜け、呂布の指示を遮った。高順と曹性は声の主に目を向けたが、呂布は振り向かない。
「呂布将軍、あなたにもお手当てが必要かと」
「時間が無い。戻ったら頼む」
「死んだ者に手当てはできませぬ」
知的な美女の強気な発言に曹性は目を丸くし、高順は小さく笑った。呂布は首を回し、無礼な才女と視線を交わす。怒りをこめたその眼光に、真正面から、笑みさえ浮かべて対峙する蔡琰は、艶のある声で言葉を続けた。
「大事なお話も、ございますゆえ」
何だ?呂布の目に疑問符が浮かぶ。高順は曹性の肩を叩き、共に館の外へ出て行った。
館を出た2人を待っていたのは
「遅い!」
張遼の罵声だった。
「おい、呂布はどうした!?」
怒鳴る張遼の剣幕に曹性が後ずさる。
「…我らで時間を稼ぐ」
落ち着いた声で応え、高順は槍を持って馬に跨った。
北の山から現れた異民族の騎馬隊は、広く散開し、一見緩慢とも思える動きで郿城に向かっていた。貂蝉を抱えた呂布とそれに付き従う高順は館に入り、曹性も敵襲を知らせにその後を追ったため、残った張遼はこれを観察していた。
張遼は、迎撃に出るつもりだった。10騎だけでも良い、間抜けに広がっている敵を端から討っていけば、相当の打撃を与えられる。その自信はあった。極少数のため郿城からあまり離れられないが、ほどほどに引き寄せたところを叩く。馬を替え、体力に余裕のある者を選抜し、準備を整え再び北を確認したときに、張遼は少なからず驚いた。見た目の緩さに比べて、進行が速いのだ。それも、相当な速さである。自らの隊の、全速力に近い。ここでようやく張遼は思い出した。相手が雑兵ではなく、勇猛で知られる騎馬民族『匈奴』であることを。
距離はまだあるが、余裕は無い。さっさと戻って来い!館に消えた3人を睨みながら、張遼は機を待っていた。
「俺は先に出るぞ!残り20は高順に付け!」
叫びと共に駆け出している張遼に、続く精鋭20騎。その態度が、行動が、高順と曹性の気を改めて引き締める。相手は北方騎馬民族、強敵なのだ。
「行くぞ」
高順は張遼の向かった逆側、横に大きく広がった敵軍の右端へ向かい、駆け出す。もとより油断などしていない。危険なのは、体力と集中力の低下だ。意識を向かう先の敵に飛ばし、頭の中で大まかな進攻順を決める。視線のブレなどは無い。槍を握る腕に力を込める。力の方は、半分ほどか。向かう先の敵騎馬は徐々に間隔を詰め、数騎ごとの集団になろうとしているようだ。命令ではなく、個々の柔軟な反応。よくできた兵である。だが甘い。
「脚を止めず、外から削ぐ!」
彼我の速度から見て、接敵時には10騎程度。一撃で仕留める。
貂蝉が治療を受けているその隣の部屋で、呂布は椅子に座ったまま包帯を巻かれていた。膝を突き、呂布の右脚の傷に薬を塗りこんで包帯を巻く蔡琰は、その端をきつ目に縛った。
「あなたが、自分の屋敷で太師様を殺した、という話が入っております」
立ち上がると、左腕の前に移動する。
「……そうかもな」
オレを生かすために、養両親は自ら果てた。殺した、と言えなくもない。
「では、あの子を傷つけたのもあなたですか?」
血で張り付いた服を手際良く切り取り、蔡琰は続ける。
「違う」
「素直に、お答え下さいませ」
傷を拭く蔡琰の声は、なぜか楽しげだった。
「この身体で、あの子を守れますか?」
「できる」
「匈奴の兵に、長安からの追手。あれだけの手勢で、勝てますか?」
「勝つ。数は少ないが、皆優秀な連中だ。それに」
正直、一度に攻められれば勝算は無い。だが。
「最悪の場合はこの首を差し出してでも、ここに手出しはさせん」
脚と同様に薬を塗りこみ包帯を巻き終えると、蔡琰はその手を優しく肩の上に置いた。
「それはなりません」
「?」
「貂蝉は、あの生死の境であなたの名を呼んでおりました。あの子のためにも、死ぬことは許しません」
突然幼稚な我がままのようなことを言い出したこの才媛に、呂布は苦笑をまじえて応えた。
「オレだって死なずに済むならそうしたい。しかし今は」
「私に」
真正面に移動した蔡琰は、立てた人差し指を呂布の口に当てて言葉を止める。
「私に、妙案がございます」
「妙案?…どんな?」
微笑みながら、蔡琰は一歩下がった。
「死を覚悟して戦うよりは、余程良い策です。ですが、お教えする前にひとつ、聞いて頂きたいお願いがございます」
「本当にこの状況を突破できるなら、何だってやってやるぞ」
苦笑の残る呂布の返事に、知的な美女はほんの一瞬だけ、悪戯に成功した子供のような笑顔を見せた。
「では」
両膝を地に着き手を前で揃え、優美な微笑を湛えた蔡琰は、しっかりと呂布を見据えて
「今、この場で、あの子と、貂蝉と夫婦になると誓って下さいませ」
そう言うと、額が着くほどに頭を下げた。
「ん?……えええっ!?」
張遼が繰り出した突きを、刀を当てて逸らし、かわす。
(またか!)
その槍を強引に横に振り、張遼は小癪な敵を馬上から引き落とした。手加減した覚えは無い。だが、もう3度目である。やはり、強い。
突撃の勢いを殺さずに討てたのは3、40騎程度で、後はこちらが自由に走れないように包む動きを見せられ、張遼を支点にその動きを破りながら退くだけになっていた。真っ直ぐ郿城に退くわけにもいかず西へ西へと進んでいたが、今度は逆に郿城から離れ過ぎてしまう。こちらに向かっている敵はざっと2、300、討った数とあわせても半数には足りない。逆側の高順も同様であるとして、引きつけられたのは1000の内の700程度、残りは、そのまま郿城へ向かってしまう。
(これ以上は稼げんぞ!)
残りの50騎を従えて門の外に隊を並べた曹性は、疲れた顔で戦況を眺めていた。左右の端に向かって20騎ずつで迎撃に出た高順・張遼は、そのおそるべき武勇で十倍の敵兵を引き寄せている。横一列に広がっていた敵騎馬隊が、中央から綺麗に左右に分かれる様は、見ていて圧巻だった。だが、その割れた軍の後には、真っ直ぐこちらに向かってくる部隊が残っていた。2、300はいるその騎馬隊の中央には、大きな朱の旗が見えている。おそらく大将がいるのだろう。
(異民族でも大将には旗を立てるのか…)
そんなことを考えながら、曹性はゆっくり弓を引いた。常人には、まだまだ遠い距離。だが、ここにいる兵は皆、曹性の腕を知っていた。誰も、物音を立てない。集中し、静かになっていく世界。その中で、曹性の耳には自分の鎧が震える音だけが聞こえていた。
50騎で、300騎を迎え撃つ。若なら、喜ぶ場面だ。視界に映る土煙は、疲労困憊の自分と比べていかにも力強い。一本矢を放ち、一人を射たところで、どうなるものでもない。狙いは一向に定まらない。震えの音が耳に障る。
「力、抜きやしょうや、兄さん」
近くからの声に弓を引いたまま目を向けると、大きなワシ鼻の疲れた顔が見えた。この顔、洛陽から共に駆けて来た内の一人だ。そういえば、顔は判るが名前を聞いていない。どう見ても年上のそのワシ鼻中年は、疲れた声で続けて言った。
「なぁに、この明るい中で正面から来てくれるんだ、ありがたいモンでさあ。でしょう?」
確かにそうだ。あの闇討ちのことを思えば、弓が使えるだけでもありがたい。
「ほれほれ、気軽に一発、ポーンと。いっちゃって下さいよ」
気の抜けた声と言葉に、曹性もつい、笑った。
「弓を射るのに、『ポーン』ってことはないでしょう」
言い返しながら、狙いを定める。朱の旗の根元、大将の位置。
弦が空を打ち、風を裂く音と共に、高く放たれた矢は未だ点のような朱い目印に直進する。そして。
「あ」
ハッキリ見える距離ではない。だが、手応えがあった。
「え!?まさか、当たりやしたか?」
「いや、その」
目を凝らすが、見えはしない。
「…多分、旗の柱に当たったんじゃないかな…」
心なしか、敵の勢いが増した気がする。気まずい沈黙が流れた。
「あー、そんじゃま、腹ぁくくりますかね」
「何か、スイマセン…」
「いやいや、そんなウマい話はそうありやせんって」
そう笑って手を振るワシ鼻男に、曹性はようやく尋ねた。
「そういえば、あの、お名前は?」
「あっしですか?あっしは、侯成っていいやす」
「侯成さん、ありがとうございます。おかげで随分、気が楽になりました」
ワシ鼻の侯成は歯を見せて笑った。
「ま、重くなってるよりゃ気軽な方が、良いことも寄って来る、ってもんでさぁ」
正面の敵軍は徐々に迫って来ている。策は無い。そんな中でも、侯成の調子を見ているとなんだか希望を感じられるような気がして、曹性も笑った。
「余裕だな曹性。通してくれ」
背後からかけられた聞き慣れた声に、曹性は振り向く前に道を開けた。大きな気配と影がすぐ横に現れ、そのまま前に進んでいく。雄々しく逞しい赤兎に跨り、金刺繍の黒衣を纏った呂布の存在は、ただ現れただけで絶大な安心感を与えてくれた。
呂布の通った向こう側では、ワシ鼻男が「ホラね」と言わんばかりの顔をしていた。




