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40 脱出

 子供の頃に別れた、実の両親の姿。顔もはっきり覚えていない二人が、こっちに背を向け、別々に去って行く。特に寂しさは感じなかった。

 何人かの女性の顔。笑っているように思えた。けれど、すぐに表情を曇らせ、赤い闇に飲まれてしまった。悲しかった。怖かった。けれど、そういうものだよね。今はそんな風に思えた。

 老夫婦。やさしいその2人は、並んで長い距離を歩いていた。高齢なのに、大変だ。しかもその大変な移動の後、これまた大変なことに、彼らは人攫いにあった。私は、攫われた。軽く、簡単に。羽根のように、というと、良く言いすぎか。荷物のように、適当に、乱暴に。死んでしまうほど怖くて、嫌だった。でも、今はそうでもない。

 荷物の私を買った、お金持ちの王允おういん様。名前を貰った。代わりに、犠牲になってくれ、と泣いてお願いされたっけ。あれは、なんだったんだろう?勘違い?

 董太師と、奥様。とても仲の良いお2人。極悪人、という噂を豪快に笑い飛ばすようなその温かさで、私を迎えてくれた。家族だと言ってくれた。畏れ多くて信じられなかったけど、本当のことだ。

 そして。


 視界を埋める、大きな背中。硬くて、力強い、大きな手の感触。振り返ったその表情は、困ったような、笑顔のような。「人を食う」と聞かされ怯えていた自分に、いっぱい気を遣ってくれて、守ってくれて、手を引いてくれて。物でも、下女でもない、人として扱われる、大事にされる戸惑いと、申し訳なさ、むずがゆさ。それら全てが、幸せだった。「結婚しちゃいなさいよ」と笑顔で言う奥様がどこまで本気だったかわからないけれど、そんな夢のような話が無くても、十分に、あの家での、あの人との暮らしは、楽しく幸せな毎日だったんだ。


 不思議と温かい暗闇の世界で、ゆっくりと、像になっていくその姿。やがて形を結んだその人は、

(……)

服を着ていなかった。

 貂蝉ちょうせんは笑った。初めて会ったときの、風呂場での姿だ。こんな時にまで、この人は私を笑わせてくれる。

 …こんな時?

 遠くで、あの人の声がする。名前を呼ばれた気がした。




 当代最強の誉れ高い、董卓軍は徐栄の騎馬隊。荒山さえ駆け上り戦場を選ばぬその黒き大蛇は、相対する者を恐怖に染める。

 あくまで戦での話だ。戦場を選ばぬとはいえ、戦から離れた日常で、各個に狙われ、多数に不意を突かれれば、勝てる道理も無い。李儒りじゅの指示により、この日、隊全員が休暇になっていた徐栄じょえい隊5000は、その全てが刺客に襲われていた。白昼堂々いたるところで暗殺が行われ、その混乱を抑え込むように兵が街へと流れ込む。掲げられた名目は『反逆者の制圧』。呂布の帰宅と同時に行われたこの大規模な策謀は、先日まで味方だった者の血を街中に流し、万を越す李儒の軍は包囲の輪を縮めるように呂布邸へと侵攻していった。



 その侵攻を追う形で長安に突入した高順たち10数騎は、脚を止めることなく通りを突き進む。圧倒的多数のはずの敵兵からの反撃は、密度の上がる呂布邸付近に来てもさほど激しくならなかった。対して、周囲から聞こえる剣戟怒号は明らかに大きくなっている。少数でも、生き残った部下達が集まり、隊を成して抵抗しているのだ。助けに向かう余裕が無い不甲斐なさを奥歯を割らんばかりに噛んで殺し、高順は迫る穂先を打ち払った。返す刃で首筋を切り裂き、駆ける。

 敵の動きから考えて、若は屋敷にいる。自身の直感もそう告げている。だが、ならばなぜ出て来ない?あの若が、この状況で家に篭っていられるはずがない。何があった?罠か、策か?

 隣を走る張遼が驚くほどの速度で、呂布軍副官は敵軍を斬り開き、駆ける。呂布邸はすぐそこだ。が、その前にはこれまで以上の敵兵がひしめく。高順は張遼を見た。視線に気付いた張遼は敵を突き刺しながらも声を上げる。

「なんだ!?」

「…しばし頼む」

「何!?おい!」

 張遼を残してさらに加速した高順は、愛馬と共に宙へ跳ねた。

 敵の頭上、しかし距離は遠く、塀は高い。高順は愛馬の背を蹴り、跳んだ。音を残して空を翔る感覚。届く。塀の上に手を突き身体を引き寄せ、転がるように屋敷へと進入した。


「なんて奴だ…」

 馬の扱いで負けることなど無いと思っていたが、あんな無茶な真似はできん。さすが呂布の右腕、ということか。ならば、俺は!

 高順が乗り捨てた馬の落下は敵中に混乱を呼び、隙を作る。張遼はすかさずそこへ突撃し敵兵を串刺すと、旗と一緒に振り上げ、掲げた。舞う鮮血が、血文字を彩る。


「「我は張遼!見えるか!聞こえるか!我らの旗はここにあるぞ!」」


 張遼の発した大音声に、あちこちで一斉に喚声が上がった。目の前の敵の群れは、気圧され、動きを止める。

「よぉくがんばったぁっ!今より、屋敷の周囲を回る!合流しろ!愚かな馬鹿共に、思い知らせてやるのだ!」

 槍を正面に振り下ろし、

「この旗の!意味を!」

叫び終えると同時に再び振り上げ、串刺しの死体を天高く吹き飛ばした。さらなる喚声が沸き起こり、それはそのまま怒号へと変わる。

「行くぞ!」

 張遼は駆け出す。この反応、100は越えている。100騎いれば、たかが万の雑兵に遅れなど取らん!



 地面を転がり衝撃を殺した高順の目には、凄惨な状況が映っていた。四方に屍が転がり、中央には大きな血溜まりがある。そこら中に矢が突き刺さり、懐かしい、平和な中庭は見る影も無い。周囲の死体に身体が2つに裂かれたものがあるということは、おそらく呂布がやったのだろう。だがその姿は無く、庭の隅には赤兎だけが立っていた。血溜りからは引きずったような跡が館へと伸びている。立ち上がって見ると、無数の矢が突き立った死体が2つ、寝かされていた。奥の方は、大男だ。岩のような巨躯。その影に収まるような、手前の小柄な死体。女性のようだ。これは、この2人は。

「高順!」

 館の奥から聞き慣れた声がして、高順は顔を向けた。久し振りに見る、呂布の姿。声はしっかりしていたが、肩にも脚も矢が刺さり、左腕は力なく垂れていた。右腕で、布を巻いた何かを抱えている。

「若!」

 高順は駆け寄った。何と言えばいいか判らないまま。無事を喜ぶべきなのか、傍を離れたことを謝るべきなのか。あちらからも近づいてきた呂布は血の気の無い顔で、しかし力強く目を開いて勢い良く言った。

「医者だ!すぐに診せたい!貂蝉は笑った!まだ、間に合うかも知れん!」

「!?医者、ですか」

 抱えているのは貂蝉か。一瞬驚き、即座に思考を巡らせる。

 すぐに、と言っても長安の街中は当然無理だ。ここを抜けたところで、最寄の街が安全とは限らない。現状が把握できていないのだ。しかし、それは呂布も同じなのだろう。だからこその質問である。予測し得る範囲で、可能性があるのは。

「…郿城びじょう。あそこには、董卓殿の典医がいます」

 敵の手に落ちていなければ、だ。だが、あそこには兵はいない。莫大な財を貯めている、と言われているが、実際には長安の金銭管理は李儒が行っており、あそこにあるのは差し出された娘達の暮らす館だけだ。兵力を割いて制圧する価値は無い。それを、敵は知っているはずだ。

「元凶は、李儒殿、ですか」

 その名に、呂布の目に怒りが灯る。

「ああ、そのようだ」

 目線と顎で指した先には、文官らしき服装の死体があった。自らの血溜まりに浮かぶその男の顔は見えないが、細く、髪が長い。ここまで策を巡らせておきながら、若の前に立ったのか。詰めを誤ったな。

「よし、に向かうぞ!…外はどんな感じだ?」

 高順は一拍待った。外の喚声が、大きくなっている。

「張遼と曹性が、準備を整えています」

「戻ってるのか?いや、話は後だな。急ごう!」

 高順は頷いた。こちらも聞きたいことは多い。全ては、ここを乗り越えてからだ。



「若!ご無事でしたか!」

 用心しながら門を出た呂布と高順を出迎えたのは、曹性だった。その背後を、騎兵が駆けている。その列は途切れることなく続いていた。

「どうにか、生きてはいるな」

 答えて、自嘲の笑みを浮かべる。

「いやいや!生きていることが大事なんです!」

 力強い曹性の言葉は呂布の胸に突き刺さった。傷が痛みを増す。そこへ、駆ける騎馬の列から一頭が外れてこちらに向かって来た。

「遅い!いつまでもごまかせんぞ!」

「すまん張遼、すぐ北門に向かう。郿城だ」

「おう!途中寄り道するぞ!馬を調達する!」

 誰も、事情の説明を求めてこない。なんてありがたい連中だ。赤兎に乗って周りを見ると、駆け回る騎馬隊の内側に徒歩の者が少なからずいた。呂布隊の者、徐栄隊の黒い鎧の者、平服の者まで、皆傷を負いながら、その目は呂布を見上げている。呂布は戟剣を掲げようとして、左手が動かないことを思い出した。代わりに張遼が旗を高く掲げる。それに合わせて、呂布は口を開いた。

「皆、聞けえっ!策を計った李儒は、この呂布が討った!」

 その声に、その内容に、全ての兵は武器を掲げ、大喚声が上がった。

「我らはこれより北へ抜ける!邪魔立てする者、全ての首を叩き落してやれ!」

「進めーっ!」

 再び喚声が怒号へと変わり、旗を振り下ろした張遼を先頭に隊が動き出した。赤い眼を光らせた斑の蛇が、真昼の長安を走る。




 馬房を襲撃し、全員騎馬で北門を貫く。

 李儒の兵達は、そもそも西涼の兵のように精強ではない。大金を積まれ、奇襲で片付く楽勝の戦だ、と聞かされたからこそ参加した者も多く、李儒が死に、少数とはいえあの最強の騎馬隊が列を整えてしまった今、それを目の前にして戦う意志のある者は少なかった。ゆうに100倍を越す兵力であっても、接敵している者に士気が無くては話にならない。それが、右腕に貂蝉を抱える呂布にとってはありがたかった。呂布達は、話に聞くより幾分容易く、万余の敵中から脱出した。


 北門の先には、敵兵は見えなかった。遠くに小さく見える郿城の周囲にも、兵の影は無い。統率する人間がいない李儒の軍勢は、すぐには追って来られないだろう。その隙に全力で駆け、瞬く間に辿り着いた巨大な屋敷の門は、開け放たれていた。呂布は赤兎と共に門を賭け抜け、館の入口まで進んで降り立った。中から様子を見ていた女官が、青ざめた顔で声を上げる。

「呂、呂布様!そのお姿は!?」

「…オレはいい。医者はいるか?」

「で、ですがそのようなお怪我、まずは手当てを致しませんと」

「いいと言ってる!医者はどこだ!」

「若」

 背後からの声に我に返った呂布は、目の前で腰を抜かして怯えている女官に謝ろうと一歩前に出た。そこへ、


「そのように声を荒げずとも聞こえております」


凛とした声が、廊下の奥から吹き付けた。美しい、そして意志のある声だ。呂布も高順も、動きを止めてそちらを見た。

 女官が一人、歩いて来る。淡い水色の衣の上に真白な外衣をはおり、粛々と、堂々と歩くその女は、茶色の髪を柔らかく流して後ろで結い上げ、手にした羽扇で口許を隠していた。前髪と羽根の間から覗く切れ長の目は美しく、それでいて力強く射るように呂布を捉えている。微かな衣擦れの音と共に呂布の前まで来た女官は、聞かれる前に自ら名乗った。

「私は、ここの女官たちを取りまとめさせて頂いております、蔡琰、と申します」

 羽扇を下ろしてにこりと笑う、すっと鼻筋の通った知的な美貌。濃い黒色の瞳の奥には、智者特有の光が見えた。



 一方、門の外では。

 皆を下馬させ休まる中、張遼は騎乗したまま長安を見張っていた。同じく馬上の曹性は、

(しまった降りたらよかった…)

肩で息をしながら、後悔していた。張遼が下馬する様子がなかったので、なんとなく降りられなかったのだ。しかし体力はとっくに限界である。むしろ、隊では最低の体力で、よくここまでもったものだ、と自分で感心していた。徐栄隊での過酷な訓練が活きているのだ。その徐栄の最期の姿が思い浮かび、大きく息を吐いた。勝手にかかる視界の霞を頭を振って払い、気を入れ直して周囲を見回す。まだだ。

 そんな曹性は、こんなときでも目端が利いた。北側を囲む山々の、かなり高い位置。ごく小さくだが、何かが動いている。ほんの少しずつ広がる、その茶色い、土煙。気付けば、その左右にも同じものが現れている。山を、駆け下りているのだ。

(嘘だろ、こんな時に!?)

 曹性は馬から飛び降りた。館へと走りながら、叫ぶ。

「若あっ!北から!異民族が!」



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