39 絶望の長安
元々は董卓の、董家のためだった。
くだらない役人の下でのくだらない仕事は退屈で、弱者の自分が、弱者を見下し搾取する、その滑稽で憂鬱な毎日は、生活の糧と身の安全と引き換えに、心を暗く蝕んでいった。
そんな日々は、突然の暴力に打ち壊される。武闘派ヤクザ、董卓。役人を襲い、奪い、殺して進むその暴虐の徒は、しかし弱者からは必要以上に奪わなかった。自分には無い、己の筋を押し通す力。その暴力は、眩しく輝いて見えた。
粗暴な集団の中、貴重な知恵者として才覚を発揮すると、実力主義の董卓に気に入られて見る間に出世した。異彩を放つ痩身と整った容貌もあってか、いつしかその娘に見初められ夫婦となり、時流にのって帝を得た董卓と共に洛陽に入った時には、天が味方していると確信したほどだ。このまま董卓は全土を手中に収め、天下に号令するのだ。自分は、その義息子なのだ。これほど誇らしいことはなかった。
董卓は、仲間を、家族を大事にする。それは義息子にとって、良い見本となった。何よりも妻を優先し、阻むものがあれば破壊してでもそれを貫くこの性質に困らされることも多々あったが、それでも、その迷い無き愛情は本当に素晴らしく、正しく思えた。
自分も家族を、董家を守らねばならない。
無能な少年皇帝を廃位した董卓には、それまでに無い危機が生まれた。廃帝の復讐。そこには人を引き付け、まとめ上げる力がある。本人が願わずとも、周囲の、董卓の敵対勢力はこれを旗印に利用する。実際、そうした働きかけは少なからず見受けられた。
万が一の可能性も、見逃さない。それが、義息子として、参謀としての自分の役目であり、負うべき責任である。だから、殺した。か弱い少年を。その母を。泣いて命乞いをする弱者を、この手で、この自らの手で。
そこまでして守った、董家の天下。家族の未来。それが。
猛将・呂布を養息子とし、洛陽を破壊して長安に戻ると、董卓は傍観者へと成り下がった。対して、突如弟となった呂布の評価は、その活躍もあって日ごと高まっていった。「やはり跡目には剛の者がふさわしい」という声が聞かれるほどに。
未来が、崩れていく。
それだけではなかった。己の事は見えにくかったが、慧眼の老相談役に指摘されたのだ。「息子が2人では、争いしか産まぬ」と。事実、呂布の人気が高まる一方で、それを嫌う者達はこちらに近づいて来た。この状況は、将来董家に害をなす。一方が、邪魔なのだ。
勝てる気はしなかった。自分は所詮戦場に立たぬ文官であり、天下無双と評されるあの呂布に対抗など、できるわけが無い。跡目は譲る。それは、仕方が無い。だが、それで済まないことも知っていた。存在が危険なのだ。だからこそ、廃帝を殺したのではないか。
死ぬ、べきなのか。
認められなかった。妻も娘もいる。天下を治め、幸せに暮らす、その未来のためにここまで来たのだ。
ならば、もう一方を消すしかない。王允老は教えてくれた。
呂布には、家族がいない。
董卓には野心が無い。
天下を治めるには、知恵が必要だ。
わかっていた。自分への言い訳のために、その言葉に乗っただけかもしれない。ただ、時間が無かった。董卓は引退すると言い出していた。呂布は嫁を、家族を作ろうとしていた。
今ならまだ、無双の豪傑より、己の方が相応しい。そう、信じ込むことができる。家族を、守ることができる。
万難を排すため、あらゆる手を打った。呂布の油断を誘い、反呂布派と連携し、呂布派で最も危険な徐栄をも狙った。義両親を人質にして、待ち構えた。
董卓には、悔いて欲しかった。野心を失ったことを。誤った判断を。
止めて欲しかった。この暴挙を。狂気を。
守って欲しかった。家族を、未来を。
認めて欲しかった。跡継ぎは私だと。呂布ではないと。
しかし、義父が認めたのは。笑って、さすが、と褒めてくれたのは、この暴挙そのものだった。
だから、そして、今、ここで。
死んでください。私達のために。
しかしその言葉は、音にならずに心で消えた。呼吸が詰まり、その心から熱が広がる。
激情に体温が上がるどころか、切れるほどに澄み切った世界は温度を失っていた。李儒を凝視する呂布の視界の隅で、僅かに動く養両親の姿。悟らせるわけにはいかない。動かせない瞳。動かない身体。未だかつて無いほどに重くなった時間の中、まとまり様の無い思考が飛び交う。
救わなければ。武器を捨て、オレが殺されれば、助かる。握った手は、少しずつしか開かない。親父殿の、母上殿の、意志が、声が聞こえる。違う、と怒られる。この重い世界で、二人の手は、確実に自らの首の刃へ向かっている。なんでそんなに速く動ける?待ってくれ。一足で、李儒を仕留める。ゆっくりと、ほんの僅かずつ膝が曲がる。血まみれでうなだれた養両親は刃に手を添える。待ってくれ!動け!どちらでもない、何か、別の方法を!猶予は無い。後悔が駆ける。温かい日々。与えられた平和に、ただひたって、何もしていない。何もしていなかった。守る準備も、警戒も、心構えも、感謝すらも。待ってくれ。オレに、今、できる事は何だ。何か、何か!?時間は無い。手だけを動かす2人は、自らの首を切り裂く。またか?まただ。また、オレは。
どこか遠くで、甲高い鏑矢の音が聞こえた気がした。
刃の陰からゆっくりと血が流れ、そして、時間が動き出す。
握り直した戟剣と共に李儒の元へ跳んだ呂布は、刺し貫いた李儒を一振りで天高く吹き飛ばしていた。
宙を舞う李儒の視界は夢の中を行くようにふわりと晴れ渡る空を捉え、回転して地上を見下ろす。義両親が、倒れていた。ああ、そうか、自ら。さすが、我が父母。視界は緩やかに流れ、自分が立っていた場所にいる呂布が映る。
傾き、薄れていく視界の中で、はっきり焼きついた男の姿は。その暴力は。
いつか見た、光のように。
左腕の傷が深い。あとはまだ動く。
既に狙われている状態から強引に動いた呂布は、全身に傷を負っていた。脇腹と左の背には矢が突き立っている。敵兵は一人も減っていない。だが、死ぬわけにはいかない。手足を捨てても、生きねばならない。
大将を吹き飛ばしたことで生まれた一瞬の隙。最良を選ぶ余裕は無い。呂布は考えずに跳んだ。右後方に振り抜いていた得物を正面の敵兵に叩きつけ、両断した身体に構わず顔から突っ込んで弾き飛ばしさらに奥の弓兵へ。視界に3人、どれも手に矢を持っているが番えてはいない。二歩目を踏み込むと同時に身体ごと捻りを加え左から巻くように薙ぎ払う。瞬時の手応えに敵が消し飛んだ。目の前には崩れかけた壁。と同時に右脚に激痛が走る。こんな時に、当たりどころが悪い。歯をくいしばる。右肩にも矢が刺さる。着地と共に炎のような熱が身体を駆け巡り、次の行動に移れなかった。
振り返りざま気配を頼りに戟を振るい、飛来する矢を弾く。壁を背にできたが囲む槍兵は7人、弓兵は20を越えている。捌き切れる数ではない。このままでは。次々放たれる矢弾をかわし、打ち落とす。一本、首を掠めた。左の肩口にまた一本突き刺さる。反動で浮いた左手が、眼前に迫った矢を無意識で掴んだ。知らず、笑みが浮かぶ。
「まだまだあっ!」
一瞬の空白に、中庭を影が覆った。空から踊り込んだのは、赤い巨体。
天に放った鏑矢の甲高い音が空に吸い込まれて消える。
何人が気付き、その内何人が集まるだろうか?剣戟響く長安の街を駆けながら、曹性は唇を噛んだ。
遷都以降拡大を続ける長安の街は、元々あった城壁の周囲にも広がっているため、その外周には堅固な壁などは無い。柵と、要所に少数の兵が配備されているのみである。しかしようやく着いた長安の東入口に見えた兵は、少数ではなかった。高順の危惧どおり反乱が起こっているとすれば、その董卓軍は敵である。身構える曹性に対し、先頭を行く二人は違った。躊躇う気配も感じさせず、突っ込む。その鬼気迫る勢いに加え、黒装束の張遼が掲げる『徐』の旗。その威に押され、道は開いた。怯えた住人達の視線を浴びながら、城壁の中まで駆け抜ける。
壁を越えると、様子が変わった。民衆の姿は無く、そこかしこから剣戟の音と怒声が聞こえる。戦っているのだ。誰が、誰と?状況の見えない中、まず向かうのは帝の宮殿か、呂布の館か。即座には決めかねて脚を止めたところに、通りの角から歩兵の一団が顔を見せた。目が合った瞬間、先頭の男が叫ぶ。
「こっちにもいたぞ!生き残りだーッ!」
あとに続く歩兵達が通りに飛び出し、次々とこちらに槍を向ける。長安の守りに残っていた董卓軍、西涼の兵ではなく、元・都の私兵達である。曹性は、彼らの目に狂気の色を見た。
「裏切り者は皆殺しだ!」
「殺せ!」
「首を獲れ!」
口々に物騒な叫びを上げて殺到する槍の束。その声に呼ばれて、別の角からも兵が姿を見せる。赤黒い、血の匂う悪意が漂う。近くの路地から現れた体格の良い兵士が、にやけた顔で言った。
「お、いいねえ、徐栄の方じゃねえか。呂布の部下は安いからなあ」
一瞬、時間が止まった。
次の瞬間には、にやけ顔の額には矢が突き刺さっていた。いつの間に射たのか、曹性は自分でもわからなかった。が、そんなことはどうでも良かった。
「…概ね、解った」
聞いた耳から凍てつくような冷たい声で高順が呟く。その恐ろしさが心強かった。
「舐めてくれるなあ!アア!?」
左手に高々と旗を掲げたまま、張遼は右手一本で槍を操り迫る敵兵を凄まじい勢いで突き倒している。その激昂に触れ、後悔すればいい。
敵は、戦場でもない、長安の街で、非番の皆の不意を突き、先手を取り、裏切りの汚名を着せ、多勢で襲って、その上で、金を懸けている。首に値をつけ、狩りのように。
曹性は鏑矢を天に構えた。陣も無い街中で、それでも伝わると信じて。
「若の屋敷に向かう!」
高順の声と共に、「集合」を伝える甲高い音が、尾を引き、天へ走る。
赤兎が作ってくれた好機を、最大限に生かす。右脚の感覚が痛みしかなく、次踏み込めば着地に耐えられるかわからない。だからこそ、最も敵の多いところへ。強引に跳ねた呂布は崩れた体勢からできる限り腕を伸ばし、力の限りをもって戟を振り抜いた。姿勢が悪く目で確認できないが、肉を絶ち、鎧を打つ無数の手応え。信用できない右脚は諦め、右膝と左手で地を舐めるように着地した呂布は、身体2つ分ほど地を滑って止まった。やはり機敏に動くのは厳しい。戟剣を持つ右腕に改めて力を込めつつ顔を上げ、確認する。
目が合った兵は、怯え切った表情を残して背を向けた。他の者は先に逃げ出していたらしく、正面の部屋の奥がざわついている。最後の一人もそちらへと走り去り、残された呂布は赤兎の体を頼りにゆっくり立ち上がった。
猛る赤兎が踏み潰したのが5、6人、最後の一振りで斬ったのがおそらく10人ほど。半数以上を一瞬で殺され、戦意を失ってくれたか。正直やばかった。短く息を吐くと、左足と腕の力でどうにか赤兎の背に跨る。この場は凌いだが、ここからだ。外に出たいとは全く思えないが、生き延びるためには出ないわけにはいかない。どうする?赤兎に乗って高くなった呂布の視点からは、崩れた壁から向こう側の湯船が見えていた。温泉にでも入ってゆっくり休みたい。いや、今入ったら傷に染みて激痛で泣けるか。くだらないことを考える頭が、それでも気付いた。湯船に、何か浮いている。壁の影に隠れているが、白い、細い、何かが。赤兎を壁に寄せ、覗き込む。
湯気の立ち上る中、白い裸体を無防備に晒し、黒髪を広げて浮かぶ、その姿。
相棒の背から落ちるようにして壁の向こうへ無様に降りた呂布は、その名を呼べなかった。目を逸らせないまま、ゆっくりと近づく。微かに赤い湯に入り、隣へ進むと、躊躇いがちにその額に触れた。守るべき相手。そのはずだった。なのに、戦いの中で忘れ、今まで、思い出しもしなかった。近くで見ると、全身のあちこちに打撲の痣や切り傷があるのがわかる。最も近い位置で、一緒に暮らした、『家族』のような。人見知りだがよく気がつき、時々強気で、いつでも懸命に働いて。そんな彼女の頭を、下から支えるように少しだけ持ち上げる。苦しげな顔。上がらない左腕は、その表情を変えることもできない。自分は散々守られ、救われておいて、無関係の女一人守れない。無関係なのだ。たまたまウチに来ただけで。ウチに来たから襲われて。殺される必要など無かった。何もできないどころか、不幸に巻き込んだ。こんなこともあると、覚悟していたつもりだった。守れるつもりだった。つもりだったのだ。実際は、違う。無いと思っていたのだ。狙ったことが許せなかった。そう考える自分が許せなかった。
終わらない後悔の先で、呂布は願った。必ず、何があっても必ず守る。だから。
だから、目を開いてくれ。
呂布は彼女の名を呼んでいた。




