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36 破滅の口火

 薄暗い室内。

 徐々に明確になる視界には、天蓋の豪華な装飾が映る。濃紺の布地に細かな金刺繍の施された、見事な逸品だ。だが、それを見る董卓本人はそんなことを頼んではいなかった。洛陽から送られてくる財は溢れるほどあったため、職人達が気を利かせたのだろう。壁も、柱も、館全体が華美に彩られていた。

(…これでは宮殿にいるのと変わらんではないか)

 天上を見上げたまま、董卓は苦笑いを浮かべた。たまに自宅で落ち着こうかと思ったが、これでは意味がない。

 

 少年皇帝からも「董太師とうたいし」と呼ばれ、父、というか祖父のように慕われている董卓には、帝の宮殿内に部屋も寝所も用意されており、長安北部郊外にある自宅との往復も面倒なので大抵はそちらを使っていた。もちろん寝る場所を気にするような細い神経は持ち合わせていないが、それでも時には自宅で落ち着いて考えたい事もあった。


 孫堅そんけんが死に、袁紹えんしょうが従った。長安を窺う猛者はもはやおらず、洛陽以東はこの逆賊董卓に頭を下げねばならんほどの混戦ということだ。都が安全になった記念に、有り余る金をばら撒いて祭を開いたのが一週間前、それも終わって街はその雰囲気を微かに残しつつ、日常に戻っていた。

 戦も、宴も終わった。不遇の西方に、巨万の富をもたらすこともできた。自分がやることは、もう何もない。(あまり落ち着かないが)自宅で考えても、結論は同じだった。

 東に攻め入る事もできるが、せっかく互いに争っている馬鹿共に対し、共通の敵として名乗りを上げてやることはないだろう。ただ、牛輔ぎゅうほの連れて行った荒い連中はどう出るかわからん。長安に一軍を置く必要もなくなったことだ、一度徐栄(じょえい)を送って引き締めさせるか。


「では、ワシらは…」

そろそろおいとまするかな?

 そう隣で寝ている嫁に声をかけようとして、愛妻の姿が無いことに気付いた。広い寝台のある広い寝室の壁の向こうから、軽い足音が聞こえる。

ちゅうちゃ~ん、ちょっと奉先…ううん、貂蝉ちゃんのところに行って来るね~!」

 耳障りの良い高い声が届く。

 どうやら、我が愛する妻にはまだやることがあるらしい。

 暴虐非道の梟雄・董卓は、柔らかな笑みをその厳つい顔に浮かべ、妻と2人、住み慣れた涼州へ向かう日を思い描いていた。



「……どうぞ」

「これは、ありがとうございます」

 目を細め、優しげな笑顔で礼を述べる李儒に対し、茶を置いた貂蝉ちょうせんはそそくさと立ち去った。

「おう、李儒りじゅ殿!」

「…また、お邪魔しています」

 庭で戟剣を振っていた呂布が来客に気付き、湯気の立つ身体で歩いてくるのを李儒は立ち上がって迎える。

「相変わらず、精が出ますね」

「オレにはこれしかないからなあ」

 言って呂布は右手で得物を持ち上げて見せると、李儒の近くの縁側に腰掛けた。

「しかし李儒殿、ずいぶん慣れたもんだなー。アイツがお茶を出してくれるなんて」

「そう、なんですか?まだまだ怖がられているのかと思ってましたが…」

「いやいや!アイツが『客』と思ってるのは、あとは義母上ははうえ殿くらいだからな。茶を出されるってのはそりゃもう、来賓待遇だぞ?」

 李儒は後ろを振り向き、部屋の奥で陰から顔を覗かせている貂蝉を見た。どう考えても警戒されているが、言われて見ればその視線からは敵意が感じられなくなっている、ような気がしないでもない。李儒は再び優しげな笑顔尾を向けた。貂蝉の顔は陰に引っ込んだ。

「…もしそうであれば、嬉しいかぎりです。…ところで呂布殿、今日はその義母上もここに来られますよ」

「え?…何しに来るんだあのヒト?」

「さあ、何でしょう?何せ自由な人ですからね」

 誤魔化したが、李儒は理由を知っていた。あの義母は、呂布と貂蝉を夫婦にするために来るのだ。「あの2人、いつまでもくっつく様子がない」と焚きつけたのは、他ならぬ李儒である。

「そうかー、じゃあちょっとまともな格好に着替えとくかなあ。貂蝉は喜ぶだろうがオレは苦手なんだよなぁ…」

 ぼやきながら部屋に上がった呂布は、そのまま風呂の方へと消えていった。


 義母も、喜んでいた。これで良い。




 半月後。

 徐栄は騎馬隊の半数を率いて洛陽へと向かった。ずっと調練に参加していた張遼・曹性の両名も、この久々の出陣に同行していた。




 そして。


 その日も、いつかと同じように董卓夫人が呂布宅に来ていた。貂蝉に“男を虜にする術”を伝えるべく何度も訪れていた夫人は、この日は衣裳と化粧道具を持参し、幼い容姿の貂蝉を絶世の美女に化かしてやろうと張り切っていた。

「おお、これで呂布殿もイチコロですね」

 まだ化粧を始める前、軽く衣裳を合わせて楽しそうに歩き回っているのを見かけた李儒がそう言うと、

「!?」

真っ赤になった貂蝉は飛ぶように夫人の元へと逃げて行ってしまった。可愛いものである。

 李儒は、この日もふらりと現れていた。徐栄が不在のため、呂布は護衛として董卓の元に出仕するようになっていたが、家主不在でも家へ上がれるほどに、李儒は貂蝉の信用を得ていた。

 貂蝉の姿が消え、奥からは女達の話し声が聞こえ出す。


 のどかな晴れの日、中庭を照らす陽光を、雲が遮り、影が落ちた。


 李儒は玄関から外へ出る。整列した兵士達が、待っていた。李儒が小さく頷くことで、兵士達は静かに動き出す。自らの指示で邸内へと進入する兵達の流れに目すら向けず、立ち尽くす李儒。いつにも増して青白く、無機質なその顔に光る不動の眼には、明らかな、確たる狂気の決意が輝いていた。




「……まあ、そういうわけだ。すまんなあ、みかど

「い、嫌だ!太師がいなくなるなんて、そんな、困る!」 

「こらこら、聞きわけがないぞ。今すぐとは言ってないだろう?…それに、ワシの自由を奪う気か?」

 にやりと笑いながら諭す董卓を、少年皇帝は涙まで浮かべて見上げている。一歩引いた位置でそれを見守る呂布にはそれが微笑ましく思えて、笑ってしまいそうなのを堪えていた。


 董宅邸・郿城びじょうの、董卓の私室。呂布が呼ばれたこの部屋にはこの日、宮殿を抜け出した帝がお忍びで訪れていた。

「でも……だって……いなくなったら、どうすれば……」

「何でも、やりたいようにやれば良い。我らが暴れたせいで、もう帝を狙う者はおらんのだからな。自由に、好きなように生きるのだ。皆に、その手本を見せてやれ!ハッハッハ!」

 大きな手が、小さな背中を優しく叩く。聡明な少年は、相手の意思を変えられないと悟ったのかそれ以上抗議を行わなかった。

 董卓は笑顔のまま呂布を見た。

「まあ、そういうわけで近いうちワシらはここを出て、西へ向かう。兄弟達に挨拶して、その後は晴れて自由の身よ。フッフッフ」

 最高官職の人間がなんというわがままな、と思わないでもないが、

「親父殿にそんなに楽しそうにされちゃあ、誰にも止めようが無いな」

つられるように笑みが浮かぶ。

「…それに、やることがない、ってのも解るし」

 呂布も、身を、その武を持て余していた。いくさはいらんが、たたかいは欲しい。

「ハッハッハそうだろう?退屈はいかん!精神が腐ってしまう!なんなら奉先、お前も来るか?いや、お前も馬騰ばとうには会っておいた方が良いな。褒めるのは癪だが、奴ほどの気持ちの良い男はそうはおらん。何かあったら、奴のところに行けば良い。それほどの男だ」

 西涼の雄、馬騰。この親父殿が兄弟と呼び、褒める人物。武芸に優れ勇猛果敢、率いる騎兵は精強を極め、北方の騎馬民族からも一目置かれていると言う。正直会ってみたい。

 だがしかし。

「いやいや、ここに来てお2人の邪魔はしたくないぞ!?」

 腐った都を滅ぼし、役人を一掃し、敵を討ち、やることのなくなった董卓は「後は任せて、これから先は愛する妻と2人で自由に生きる」そう言ったのだ。割って入るほど野暮でも無神経でもないつもりである。董卓は厳つい顔で優しく笑う。

「まあ、いつでもいい、一度は会っておけ。ワシも自慢の息子を紹介したい」

「なんだそりゃ……」

「親父!」

 外からの呼び声が、暖かな室内に割って入った。董卓が閉められたままの扉に向かって応じる。

「…帝がおられる、一応言葉遣いには気をつけろよ。で、なんだ?」

「李儒さんから、使いが来てます。親父に来て欲しい用件があるそうで」

 董卓はわざとらしいため息をついた。

「これから自由になろうというワシを呼びつけるとは李儒のやつめ、厳しいのう」

「いや、自由になるまでは働いてくれよ?」

「ハッハッハ!わかっておるわ!ワシはすぐに出よう、奉先、お前は帝をお送りしてくれい」

「おう、引き受けた。帝、行きましょうか」

「奉先殿に送ってもらえるのか!なら、私も赤兎に乗りたい!」

 先程までの消沈はどこへやら、目を輝かせてそう声を上げる帝。無双の武人とその愛馬に憧れるその姿はまさしく“少年”のそれである。呂布はまた微笑ましい気分になった。

「赤兎も武人、乗り心地は悪いですぞ?」

「望むところだ!」

「なら、共に行きますか!」

「おう!」

 身分を気にしない、温かいやり取り。この感じが、『家族』というものなのだろうか?なら、コレはなかなか良い。少年を笑顔で見つめ、董卓に厳つい笑顔で見守られながら、呂布はそんなことを考えていた。




 まだ見ぬ家族を迎えるはずの、呂布邸。その名物ともいえる、暖かな温泉風呂で。


 派手な飛沫を上げて投げ込まれる、白い物体。

 熱気を伴う湯気の向こう、ゆっくりと浮かび上がった黒髪の少女は、ぴくりとも動かない。

 一糸纏わぬその身体の周囲には赤い濁りが染み出し、輪郭を縁取るその様は、水音一つ立てないその存在を、代わりに主張していた。


 「アンタたちっ!なんて!ことを!やるなら!んんっ!私っ!んうっ!んーーっ!」

 後ろ手に縛られた董卓夫人の口は、太い荒縄で縛られ、乱暴に塞がれる。

 その正面に立つ、痩身の、黒い軍師服の男の姿は、その肌の青白さが湯気に溶け込み、あたかも青い炎に包まれているかのようであった。

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