35 渦の趨勢
「我こそは常山の趙子竜なり!袁紹殿、覚悟ォっ!」
突撃の先頭を駆ける趙雲の槍が一人、また一人と敵兵を刺し貫く度、袁紹の本陣が近付く。もう一息、届くか。
鄴の北東150km、界橋(地名。橋の名前ではない)。兵力は同等ながら、長く伸びた袁紹軍に対し一点を狙い突撃をしかけた公孫瓉軍は、優位に戦を進めていた。袁紹軍が守勢に集う前に、先鋒である客将・趙雲の切っ先が袁紹に迫る。
「殿!袁紹殿っ!こちらから、ここから出てくだされ!敵の突撃がこの陣まで届きまする!」
韓馥からの降将の一人、初老の知将・田豊が叫んだ。『使える者は即採用』の袁紹は、彼を副軍師として従軍させている。
「袁紹殿!逃げぬならせめて机の下にでも隠れなされい!」
幕舎の後ろから布をまくり上げて叫ぶ田豊の方を振り返りもせずに、袁紹は吠えた。
「ぬかせ!」
剣戟、怒号、馬蹄、戦場の騒音の真っ只中で、袁紹軍総大将の幕舎には無数の矢が突き刺さり、倒れた兵が幕を引きずり落とす。日にさらされ、開けた視界の正面に敵の騎兵を捉えた袁紹は椅子を蹴って立ち上がった。
「総大将が逃げ隠れして、勝てる戦があるものかっ!」
槍も届かんばかりの眼前にいる若武者と、目が合った。良い目をしている。袁紹は右手で自らの豪奢な兜を持ち上げると、睨み合ったままで地面に叩きつけた。その顔に、堂々たる笑みを浮かべて。
(袁紹殿、その意気や良し!)
一跳びで届くこの距離でその態度、武人として賞賛に値する。敵陣中に深入りしてまで狙った価値はあった。これを討てば、この戦は、そして華北は公孫瓉の物となる。
しかし趙雲はその一跳びを踏み出せなかった。横槍ならぬ横からの矢が、趙雲の動きを妨げたのだ。
直線的に、高速で飛来した矢が鼻先を掠める。射手が近い。総大将が至近距離というのに誤射を恐れないとは。思う間に迫る矢を叩き落す趙雲を、背後から衝撃が襲った。右肩に熱が広がり、力が抜ける。まずい。馬上で身を伏せ確認すると周囲に敵歩兵の姿は無く、1拍離れて横列を組む敵のその手には、大振りの弩(いわゆるボウガンのようなもの。弓と比べて、使用者の腕を問わず精度が高い)があった。左右両側見渡す限り、全ての矢じりがこちらを狙っている。
「退くぞ!」
趙雲はとっさに騎馬を右に向け、正面の弩兵に槍を投げつけると同時に駆け出した。被弾面積を最小に、最短距離で離脱する。
(自らを餌にするとは、見上げた度胸!)
最後に横目で見た袁紹は、変わらず堂々たる笑みを浮かべていた。
この弩兵の挟撃により公孫瓉軍は騎兵隊の半数を失い、戦の流れは反転した。
攻勢に転じた袁紹軍は崩れて敗走する公孫瓉を徹底的に追撃。最終的に公孫瓉軍は本陣を落とされ、さらに北の拠点へと撤退させられる結果となった。
敗戦の中で趙雲は孤軍奮闘、敵の弩兵部隊の将を討ち取る活躍を見せるも戦況を覆すには至らず、死を覚悟するほどの危地に追いやられたが、
「どーした趙雲?腹でも壊したかぁ?」
「!?な、何故ここに!」
「へっへっへ~、迎えに来たぜ!」
公孫瓉の援軍に駆けつけた劉備の手勢によって助けられていた。これより先、趙雲は劉備と共に行動することとなる。
ちなみに「迎えに来た」というのは真っ赤な嘘である。劉備と公孫瓉の間には『少年時代に同じ師の元で学問を学んだ』という縁があるため、その危機に顔を出したらたまたま趙雲がいた、というだけなのだ。が、趙雲は終生この恩を忘れなかったという。
「…界橋での戦いは、このように袁紹の勝利で終わったようです」
「そうか、公孫瓉殿が負けたか…」
自信に満ちた白い鎧の立派な首領を思い出し、呂布は呟くように答えた。視線の先、陽に照らされた呂布の家の中庭では、貂蝉がいつの間にか拾ってきた犬を撫でまわしている。
あの趙雲がいる公孫瓉軍を破るとは。袁紹、連合の長としては見所はなかったが、名門の力は伊達ではないということか。
「いやーすまんな李儒殿、たまの休みにこんな、報告のようなことをさせてしまって」
「いえいえ、遊びに来たのは私の方ですから。ここは、心が安らぐんですよ」
笑う李儒。貂蝉は、寝転がった犬の腹をさすっている。
近頃、それこそ貂蝉が犬を拾ってきた頃から、李儒は呂布の家にたびたび来るようになっていた。
洛陽での朱儁討伐後、董卓を狙う動きは無く、周辺諸勢力の争いは激化、長安の治安・経済は一応の安定を見せており、董卓軍全体に、余裕ができていたのだ。それは呂布も、長安を任されている李儒も同様だった。このおかげで、高順が賈詡から情報を貰う必要もなくなっているし、曹性と張遼も、その他の将兵も、各々自由に活動していた(といっても、この二人は相変わらず部下を連れて徐栄の調練に参加していることがほとんどであった)。
何を思ったか、大人しく撫でられていた犬は突然起き上がると、呂布の方へ駆け寄って来た。
「お?なんだやるのか?」
迎える呂布が手を伸ばすと、犬はその手前で立ち止まり、伏せて尻尾を振る。貂蝉は、2、3歩近付いただけで様子を窺うようにこちらを眺めていた。どうやら、李儒にはまだ慣れていないらしい。
「…そういえば呂布殿、どうです?この機に祝言など挙げられては?」
呂布は飲んでいた茶を盛大に吹き出した。
「な!…はぁ?何を言い出すんだ李儒殿!オレはまだそんなつもりは無いぞ!」
「ははぁ、『まだ』ですか?ではいつ頃のご予定で?」
優しい顔を意地悪く歪めて李儒が笑う。
「いや待て、そういうことじゃない!」
「そうか、やはりキサマはそういう趣味だったんだな」
「てめー張遼どっから出て来た!てかああ見えて貂蝉はガキじゃないだろうが!」
「何だ?誰も貂蝉などと言っておらんぞ?」
「!やはりテメーだけはぶっ飛ばす!」
かくして今日も始まる手合わせを前に、貂蝉も犬も、縁側へと避難していた。自然、李儒との距離が詰まる。怯えた目で見上げる貂蝉に目を合わせると、李儒は優しげに微笑んだ。
陽は中天にあり、長安は今だ平和である。
しかし東方の空の暗雲は、風に乗り、次第に南へと、流れ、広がっていく。
袁紹と公孫瓉が争う華北・冀州より南に下り、江北(長江の北岸)・豫州。
洛陽奪還の功により、袁術の独断ではあるが豫州刺史となっていた孫堅は、それに対抗して袁紹が豫州刺史に任命した周昂の軍勢との戦いを優勢に進めていた。
「なかなかしつこいわコイツら。どうするお頭ァ?」
「…かまわん。適当にあしらっとけ」
面倒くさそうに聞く黄蓋に、孫堅はさもつまらなさそうに答えた。
先に豫州に兵を入れている孫堅にとって周昂との戦いは防衛戦、勝っても得るものは何もない。その上敵は弱く、戦い甲斐もなかった。ただ、倒し切ってしまってまた新たな軍勢が派遣されて来ると面倒なので、生かしておいているに過ぎない。
それよりも。
平地に敷いた陣の中から、孫堅は南方の山を眺めた。あの山々の麓に肥沃な土地を持つ、荊州。狙うならここだ。領主の劉表は兵を揃えて軍備を整えているものの、守りを固めるばかりで戦いを知らない。機を見て、ひと呑みにしてやる。
遠く小競り合いの音が聞こえる夜の本陣に、小雨がパラつきだした頃。
「御大将殿!」
小兵童顔の韓当が胸を張って現れた。
「来たか?」
韓当に命じていたのは、他ならぬ荊州の見張りである。韓当の、そして孫堅の顔が不敵な笑みを形作る。機が、来たのだ。
「劉表、動きました!荊州からこちらに向かう軍勢、その数およそ3万!」
「よっしゃあ!全員叩き起こせ!黄蓋と俺で二手に分かれて挟む!韓当は後詰や!この陣は程普に任す!」
一息に指示を出しながら、孫堅は愛用の2本の短刀手に取ると外に出て馬に飛び乗った。
「速攻や!動けるモンからついて来い!」
出鼻を挫き、そのままの勢いで荊州に乗り込む。守りに入る暇は与えん!
江東の虎が、牙を剥いた。
孫堅の狙い通り、進軍間もないところを強襲された劉表軍は大打撃を被り撤退、それを追って孫堅軍は荊州に進入。防戦に出てきた軍勢も勢いそのままに打ち破り、孫堅は半月も経たないうちに劉表の本拠・襄陽を望む位置にまで兵を進めていた。
虎の歩みを止め得るものは、ここにはいない。
半ば真実と化していたその現状が、その増長が、その油断が。誰にも気付かれぬまま、誰も気付かぬまま、運命の流れに渦を描く。
そのあまりにあっけない最期には、さまざまな理由が付けられる。
勝ちを急ぐあまり、兜を被らないどころか、鎧も付けていなかったこと。
その勢いに付いていけた部下が、ごく僅かであったこと。
周昂、劉表と弱い敵が続き、それに慣れてしまっていたこと。
標的である劉表の居城が、荊州の奪取が、すぐ目の前まで来ていたこと。
しかし、虎に仕えた腹心達は一様に思った。
(祖茂が、アイツが生きていれば…)
そして、己の不明を悔いた。
先の戦で散った、孫堅の副官・祖茂。
時に野獣のごとき暴走を見せる大将の隙は、影のように付き従う副官がことごとく埋めていた。それゆえに、彼が討たれた直後は、腹心達も孫堅自身も、その影を失った危険を考え、控えて行動していた。それが、弱兵とばかり戦い連戦連勝、進軍すれば思うがままに兵を進められる、そんな状況にいつしか飲み込まれてしまったのだろう。知らぬ間に、孫堅の無謀な命令に対し、意見するでも、付き従うでもなく、忠実に命に従い、命令以上の結果を残す、そのことにのみ集中していたのだ。そう、祖茂のいた頃のように。
虎を射殺した伏兵部隊を率いていた黄祖という将は、ただ一手だけ、通常兵を伏せる位置の他にもう一箇所、奥にも伏兵を配していただけである。だが、その一手を排する者が、暴れる虎の傍にはいなかった。
江東の虎・孫堅文台は、襄陽を見下ろす峴山にて、雑兵の一矢に倒れた。
その亡骸は劉表の手に渡ったが、当時17歳の虎の息子・孫策が父の仇である黄祖を捕らえ、その身柄と引き換えに取り戻したという。
「江東の虎、死す」
この衝撃的な一報は、すぐに長安にも伝わった。
孫堅は、先の戦で華雄を討ち取り、唯一董卓軍に勝った男である。戦乱渦巻く中、次に打倒董卓を唱えて長安に攻め上がって来るのは袁紹でも袁術でもなく孫堅だろう、董卓軍の中枢では、そう考えられていた。その孫堅軍が、消えたのである。息子の孫策が後を継いだ、といっても名声実績経験全てが不足の少年武将に従う者は少なく、勢力を弱めた元孫堅軍は、結局袁術軍に吸収されたらしい。
董卓軍が最も警戒すべき相手は、いなくなったのである。
孫堅は華雄の仇ということもあり、これを祝して宴席が設けられた。会場は、郿。長安の北にある董卓の私邸である。洛陽で奪った大量の財と差し出された女たちをひとまず置いているうちにその館はどんどん膨れ上がり、拡張に拡張を重ねた結果、今では“郿城”と呼ばれるまでになっていた。
「なんだ、つまらんところで死にやがって」
不機嫌に酒をあおり杯を机に叩き置くと、同時に、視界が回り始める。
「どうした呂布。やはり、虎は自分で討ちたかったか?」
定まりづらくなった目で見上げると、渋すぎる男が映った。
「徐栄の兄さん。…いや、まあ自分で、ってワケじゃねえけど」
机に突っ伏し、視界を強引に落ち着かせる。
「…もうちょっとマシな死に方ってのがあるだろうよ…」
霞む視界の向こうには、別の机で部下と共に泣いている李粛の姿があった。
武闘派の董卓軍のこと、呂布のように強敵を惜しむ者も少なくはなかったが、やはり叔父貴の仇の死を喜ぶ者の方が多く、宴は概ね盛況であった。
そして、間もなく更なる報せが届く。
華北で袁紹と争いを続けていた公孫瓉から、長期化の様相を見せる戦の仲裁を申し込む使者が送られて来たのである。
孫堅の死により南方では袁紹派が勢力を拡大し始めており、界橋での敗戦以降劣勢が続く公孫瓉は、その影響が北の袁紹本軍に現れる前に停戦に持ち込みたかった。だが、帝を擁するとは言え全勢力の敵である董卓に仲裁を頼むというのは、相当になりふり構わぬ行為である。董卓はこれを受け、帝の名にて双方に休戦を命令。帝を重んじる袁紹もこれに応じ、華北の争いは一時の収束を見た。
そして、元反董卓連合軍盟主が董卓に従ったこの件が、事実上、董卓を帝の保護者として認めたこととなり、同時にそれは、董卓軍と他勢力の敵対関係の終了を意味していた。
これを喜んだ董卓は郿城の有り余る財を開放、長安の都では街全体を巻き込む大規模な宴が、3日3晩繰り広げられた。
ここに、西涼の武闘派ヤクザ・董卓軍は、晴れて官軍となったのである。
時は来た。
眩しく輝き照らされるその足元に、常よりも濃い、影が落ちる。




