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26 邂逅

 視界を覆い尽くす大火災、というのは、恐ろしく悲しいものではあるが、同時にその膨大な熱量と壮大な勇壮さは、心の奥を野蛮に奮わせる。洛陽の街にたいした思い入れのない呂布軍は炎に当てられ高揚し、汜水関防衛の疲れを忘れて殿しんがりを受け持っていた。

 一路長安へ撤退する董卓軍の先頭は、疲労の度合いが高い李粛りしゅく徐栄じょえい。騎馬隊の半数を借りたままの張遼ちょうりょうが中軍で続いている。

「いやーこの豪快さ、何かこう湧き上がるモノがあるな!」

 最後尾を駆ける呂布が笑って言うのを、高順は横目に見ながら黙っていた。言葉に嘘はないだろうが、華雄が討たれたのだ。普段どおりに振舞っているのは、部下の手前、というやつだろう。自分の事に関しては直情径行だが、こういうところは案外しっかりしているのだ。高順は視線を前に戻す。

 西門を攻撃していた孫堅軍は、炎の勢いに乗って容易く突破できた。西門を封鎖すればこちらを洛陽と共に燃やすこともできたはずだが、孫堅軍にはそこまでの余裕がなかったのだろう。山中での野戦からそのまま攻め込んでいるのだ、騎馬も数が揃っていないと見た。東側から来ていたあの袁紹率いる連合軍本隊が、燃える洛陽を無視し、迂回してまで追ってくるとは思えない。こちらの撤退速度は李粛の隊に合わせているためそう速くは無いが、厳しい追撃はかかるまい。

「無いですよ!湧き上がるモノなんて!」

 返事をしない高順の代わりに、すぐ前を走る曹性そうせいが後ろを向いて叫んだ。炎に照らされた顔はいかにも悲しそうだ。

「食堂のみんな、大丈夫ですかね!?」

 曹性が通っていた食堂のことは高順も知っていた。「安くて旨い!」というその評判は、呂布隊に留まらず董卓軍中に広まっている。

「あそこは大丈夫だ!親父殿が、いい建物を用意してるってよ!」

 董卓軍どころか、董卓本人にまで届いているようだ。質素な店構えと聞いていたが、董卓自らが建てさせたとなるとどんな派手な店になっていることやら。

 いつもの、緊張感の無い思考。いつの間にか自分も巻き込まれていることに気付き、高順は苦笑を噛み殺した。今は、これでいい。悲しむのは後だ。

「ちょっと高順さん!今笑ったでしょ!死活問題なんですよ!?」

 馬蹄に負けぬよう声を張り上げてまで、言う内容では無い。再び苦笑を押さえ込む。と、曹性の表情が引き締まった。こちらに振り向いたまま手綱を放すと弓を取り、素早く矢をつがえて引き絞る。矢を向けられている高順も、気付いた。全力で駆ける騎馬の蹄音が、後方から近付いてきている。曹性の射線を通すために左にずれながら、上体と槍を後ろに向けた。夜が明け始めたのか、闇の中にうっすら影が見える。ただ、一騎のみ。蹄音も、単騎のものだ。追撃部隊というわけではないのか?旗もさしていないため、どこの軍の者かもわからないその影は、見る間に近付いてきている。そして、いつの間にか速度を落としていた呂布がそのすぐ前まで迫っていた。



 たった一騎で追いかけてくるとは、いい度胸じゃねえか。

 迫り来る追っ手の姿を確認する呂布の全身には、過剰なまでの気合と力が充満していた。

 

 李粛と合流した際、華雄の最期を聞かされた。討たれた場面を見た者はいなかったが、李粛自身が直接『首』を確認していた。見間違い、ということは無いだろう。それを聞くまで、李粛の無念の涙を見るまで、心のどこかに期待があったのだ。そしてその反動が、自覚できるほどに身体に現れていた。今は撤退中であり、当座の目的地である函谷関かんこくかん(洛陽~長安の間にある巨大な関所のひとつ。洛陽寄りに位置する)までは半日もかからない。それまでは、と抑えていたモノが、無謀な追跡者に向けて溢れ出している。自分は殿しんがりで、筋も通っている。我慢は、限界だった。

(ヒゲ長野郎なら、ここで殺す!)

 華雄を討った男は、異様に髭が長い大男で、華雄の大刀を担いでいると聞いた。追っ手が近付く。かなりの大男だ。体温が上がる。さらに近くなる。その男が持つ得物の影は、槍か戟か、長物である。別人か。

「おいそこのデカいの、てめえ何者だ?」

 さらに速度を落とした呂布との距離は一気に縮まり、顔がハッキリ見えた。絵に描いた山賊のような、剛直な髭面。だが長くは無い。その中心にあるデカい口が開く。

「おまえがっ!呂布かぁっ!」

 叫ぶやいなや、右手の槍を上段から叩きつけてきた。凄まじい気迫と共に轟音が空を裂く。対して呂布は、右後方に大きく身体を捻り、右手の戟を左から右へと払って打ち返す。

 火花と共に鈍い爆発音が響いた。横並びに駆ける2騎の馬上には、槍を弾き返され体勢を崩した山賊男と、戟を振り切った呂布。その右手に残る感触は、華雄と打ち合ったときのものに似ていた。右腕と、睨む視線に力が入る。視線の先の山賊男は顔全体を怒りで真っ赤に染めていた。

(腕力はかなりのもんだ。だが)

 遅い。そう思った瞬間、山賊男が転がるように落馬した。

「…はあ?」

 赤兎を止め、向き直って見る。起き上がる山賊男の向こうで、馬が倒れていた。額に矢が突き立っている。振り返れば、離れたところに騎影が2つ、脚を止めていた。やはり曹性の仕業か。呂布はため息をつき、再び山賊男を見た。よほどひどい落ち方をしたのか、槍を支えしてに立ち、頭を振っている。

 自分を名指しでかかってきた猛者を無視したくはないが、しかし水を差されて頭は冷えた。今は撤退が優先だ。華雄の仇のヒゲ長ならともかく、どこの誰かもわからない男に構っている場合ではない。

 馬首を返し、駆け出そうとしたその背中に、大きなダミ声がぶつかってきた。

「逃げるな呂布!」

「…」

 呂布の動きが止まる。

 いやいや、こんな安い挑発、どうでもいい。呂布は目一杯余裕を見せて振り返ると、笑いながら言った。

「お前の相手はまた今度だ、山賊野郎」

「今でないと意味が無いわ!」

 山賊男はさらに怒りをあらわにして、とんでもないことを言い放った。

「兄者は華雄の首をあげたのだ!呂布、お前の首は俺がもらう!」


 冷えた頭に火が点いた。

 いや、コイツはヒゲ長ではない。だが、兄者と呼んだ以上弟なのだろう。兄弟だからといって、兄への恨みを弟で晴らすようなしょうもない趣味はオレには無い。無いが、捨て置こうにも向こうが噛み付いてきているのだ。ヒゲ長の弟が、わざわざ、あっちから。

 これは、相手せざるを得ないじゃないか。

「……山賊、てめえ名前は?」

「誰が山賊だ!俺は張飛ちょうひ!民衆代表、張飛翼徳(よくとく)様よ!」

 大気を震わす大声で名乗ると同時に薙いだ槍が、轟音と共に風を起こす。赤兎と共に身じろぎもせずそれを受け止めると、呂布は赤兎の背から飛び降りた。

「頼む」

 すぐ後まで近付いていた高順に、振り向きもせずに声をかける。ため息が聞こえた気がしたが、赤兎は高順に連れられて一歩下がった。

「これで対等だ。来い山賊」

 張飛に向かってそう言うと、腰を落とし、戟剣を槍として構える。対する張飛は、怒りのあまり頭から湯気でも出そうなほどに真っ赤になっていた。槍を両手で持ち、ゆっくりとした動作で右横に振りかぶると

「なめてんじゃねえええええええ!」

鼓膜が震える大音声と共に猛然と突進して来る。

 どう見ても全力で振るわれたその槍は、轟音を後に残して呂布を襲う。戟剣を縦にして両手で正面から受け止めると、耳障りな爆発音と共に発した衝撃は足にまで響いた。さっきより数段強い。この手応え、華雄より上か。もう一撃、同じ横振り。同様に止めると、次は上段、次は左、と強撃が続く。それら全てを一歩も退かずに受け止める。10ほど受けて、見切った。コイツは、馬鹿力だけだ。次の一撃の振りかぶりを見て、呂布は右手一本で握った得物を引いた。来たのは、左上からの袈裟斬り。呂布は左足を一歩踏み込むと同時に得物を振り上げ迎撃する。踏み込みの勢い、体の捻り、腕のしなりを合わせ、そこに腕力と体重を乗せ、振り抜く。基礎にして、極めるのが最も難しいとされる動作だ。手に合う得物のおかげか、今までで一番良い。



 一際高い金属音が響いた。

 斬撃を真正面から打ち返された張飛はその勢いで後ろにたたらを踏み、呂布は振り上げた戟剣を槍の構えに戻している。

 強い。

 久しぶりに客観的に見た呂布の強さは、高順の想像を上回っていた。

 張飛と名乗った男、その迫力は昔の呂布を思い出させた。あの体格なら、おそらく腕力も同程度だろう。その両手の一撃を、見てから動いて、片手で弾き返したのだ。いくら呂布が人間離れしていると言っても剛力同士、腕力だけでそこまでの差が付くはずがない。力と動きの流れが、高い次元で噛み合っている。いつもその呂布の相手をしている高順は、その強さが誇らしくもあり、恐ろしくもあった。次からあれの相手をしなければならない。あれと競わなければならない。そう思うと、身震いが出た。ただ怖いのではない。楽しみなのだ。

「楽しそうだねえ、お兄さん」

 すぐ近くから声をかけられ、高順は意識を戻した。右隣に、見知らぬ男が立っている。馬上の高順を見上げて笑っているその男は、綺麗な顔立ちだが汚れた農民のような服装で、髪を頭の後ろで一つに縛って長い尻尾のように垂らしていた。体格は中肉中背、高順と大差無い。

「おお、張飛のやつ、完全に押されてるなあ」

 視線を正面に戻して一歩前に出たその男は、どこかのんびりとした調子で言う。視線の先では、手数をもって暴れる張飛と、それを受け、弾きながら前進する呂布。だが高順の注意は尻尾の男に向いていた。「張飛のやつ」と知った風に呼んだから、ではない。力の抜けた後姿から、得体の知れない気配を感じる。そもそも、いつの間に近付かれた?と、男が尻尾を揺らして振り向いた。

「いやー悪いけど、助太刀に行かせてもらうわ」

 やはり敵で間違いない。そう判断した次の瞬間、男はふわりと飛び上がると頭を地に向け、高順の騎馬の頭に右手一本で着地していた。逆さまの笑顔と目が合う。

「だからお兄さんが先ね」

 その言葉と共に袈裟斬りに襲ってきた何か(、、)に対し、どうにか抜いた剣を合わせたものの流すことはできずに吹き飛ばされた高順は、それでも着地と同時に地面を転がり勢いを殺すとそのまま立ち上がった。防ぎ切れずに頭を掠った。痛みはあるが、支障は無い。しかし何だ今のは?鉄の感触?

 再び地に立った尻尾の男は、笑って言った。

「今のが当たらないとは、やっぱお兄さんも強いねえ」

 高順は深く息を吸い込み、吐いた。剣を両手で持ち、構える。相手は剣も槍も持っていない。考えられるのは。

(趙雲、あの類か)

 素手で戦う技は、あの時見て以来だ。さっきの攻撃が逆立ちからの蹴りだとしたら、趙雲同様鉄の防具を着けているのだろう。そして、この離れた間合いは。

「じゃあ、こんなのは…」

 男は笑ったまま、身体を縮める。あの動きは、やはり。

「どうだ!?」

 掛け声をかき消す爆音と共に尻尾の男が飛来する。凄まじい勢いと迫力。だが知っている技だ。勢いに乗って突き出される右拳に剣を沿わせて軌道を逸らしつつ、体勢を低くしながら身体を捻ってかわすと同時に相手の力を剣に乗せる。予想外に速い。避けるのがギリギリになったが、その分大きく力が乗った。多少散ってもいい、即、斬る。腕を小さく回して剣を高速で反転させると勢いそのまま下段から斬り上げる。手応えは、金属。


「うぉっ、とっとお」

 剣を振り上げた高順から少し離れた右後方で、尻尾の男はたたらを踏んでいた。

どうやら、間に合わなかったようだ。斬り上げが当たったのは、突進時に後ろに伸びていた左足の脛当てだろう。予想外の速さに合わせたつもりが、それ以上に速かったのだ。というか、飛距離があった。あの趙雲よりも、動きが鋭い。この男、一体?

「いやあ、まさか斬り返されるとはね。お兄さん、あんた何者だい?」

 緊張感の無い声がこちらの疑問と同じ言葉を口にする。間を外された高順は少しムッとした。

「呂布軍副官、高順と申す」

「高順さん、ね。聞いたこと無いけど、すげえな高順さん!」

「……で、そちらは?」

 聞かれた男は、子供のような満面の笑顔を見せ、さも嬉しそうに名乗った。

「俺かい?へっへー、俺はね、俺は劉備りゅうび。民衆代表、劉備玄徳(げんとく)ってんだ!」

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