27 対 張飛
今まで聴いたことの無い音。木が爆ぜ、炎が盛り、それらが何重にも重なり合って熱された大気を押し広げ、かき乱す、音。その音は熱された空気と共に耳の奥まで圧迫し、巻き上がる圧倒的な熱量は見えない激流となって押し寄せる。都を守る分厚い壁の外でさえ、これである。中は、地獄の有様だろう。
呂布と張飛が一騎討ちを始める、少し前。
曹操は騎馬隊を従え、洛陽南側の壁外を西門・長安方面へと駆けていた。狙いは、あの黒い騎馬隊である。
洛陽に上がる火の手を見た曹操は、追撃のために騎兵を借りたい、と袁紹に申し出た。自身の兵は先の汜水関の戦いでボロボロになっており、その大半を既に本拠である陳留へと送り返している。手元の兵は、わずか20騎足らずだった。
「董卓軍の主力に打撃を与えるまたとない機会である」という曹操の意見に理解を示した袁紹は快く兵を出した。本心では自らも追撃に加わりたいところだったが、連合軍総大将としては士気もまとまりも無い連合諸侯を置いて行くわけにもいかず、ならば曹操に託す、と自軍の騎兵5000を全て貸し与えたのだ。
騎兵を率いて洛陽東門に着いた曹操は、燃え盛る街には入らず壁外を南門へと進み、孫堅軍と合流。華雄との戦いで消耗しながらも華雄を討ち取った孫堅は既に洛陽の消火に取り掛かっており、西門の兵も退いていた。孫堅に追撃の意志は無かったため、曹操はそのまま西へと駆ける。
ここで孫堅軍にいた義勇兵を名乗る連中が何名か付いて来たようだが、最後尾のことであり、曹操はさして気に留めなかった。そこには華雄を討った男・関羽も混ざっていたのだが、そもそも曹操は「誰が華雄を討ったか」ということ自体、確かめてもいなかった。汜水関を攻め、徐栄に追われ、そこから再び攻め上げて、休み無く行動し続けている曹操の疲労は相当なものであり、本来の注意力・判断力は失われつつあった。
延々と続いていた右手の壁が途切れ、西側に抜ける。
(ようやくか)
ここまで全力で駆けて来たが、曹操には少々遅く感じられていた。
良く訓練されており、質も良いのだろう。しかし必死さや、気迫、そういったものがあまり感じられない。実戦経験や、その種類の差か。この先にある函谷関までに、追いつけるか?
そう考えながら正面を見据えて駆けていると、視界の隅に騎馬が映った。先頭を駆ける曹操を追い越し、2騎が前に出ている。背後に燃える洛陽の炎に薄く照らされて見えたその騎兵の内、近い方に乗った男が叫んだ。
「我ら、良い馬に乗っておりますのでー!その、先に行って、様子を見て参りますー!」
束ねた髪を長い尻尾のように垂らした男は妙に明るい声でそれだけ言うと、2騎は見る間に離れて行き、やがて光の届かない闇へと溶けていった。
遠い方の男は随分と大柄だったようだが、袁紹の部下だろうか。全力で駆ける軍勢を引き離していくとは、聞いた通り相当良い馬に乗っているのだろう。闇に入ったところで斥候を申し出るとは気が利いている。こういうところは、さすが天下の袁紹軍、と言ったところか。
あれに追いつくことはできそうに無いが、曹操は改めて乗馬に気合を入れた。背後からの光は徐々に弱まり、闇へと踏み込む。追いつくとすれば、そろそろだ。
「づぅぉぉおらあああっ!」
ほの白む夜明けを震わす怒号と共に振るわれた槍は空を裂き唸りを上げ、一閃、呂布へと向かう。その巻き起こす風に周囲の木々が揺れる程の迫力。呂布がその一撃を打ち返すと、間髪入れず次の一撃が先程とは別の角度から襲い来る。弾けば、また次の一撃。
(馬鹿力、だけでもないか)
呂布は張飛に対する認識を少々改めていた。
力任せの攻撃に昔の自分の姿を重ねて、あれからさらに10合ほどつきあってしまったが、張飛の攻撃は初撃の力を維持している。こちらに多少の余裕があるとは言え、受け損じれば必殺の威力、これを20を越えて振り続けられるというのはなかなかのものだ。技術は一向に感じられないが、腕力だけでなく体力も相当である。迫る豪撃を打ち返すと、呂布の腕には衝撃が残っていた。
(このままいけば強くなるんだろうがな)
技を鍛え、手に合う得物を渡せば。楽しみに思わないでもないが、残念ながら今は時間が無かった。まして相手は華雄を殺したヒゲ長男の弟を名乗っている。さらに背後では高順も何者かと戦っている気配があり、そちらも気になる。
コイツは、ここで討つ。
次の一撃が迫る。呂布は気合を込めて弾き返した。響く轟音。これまでよりも強く返され、張飛の槍が大きく戻される。呂布はこの一撃を助走にして本気の攻勢に出る、つもりだった。が、耳が新たな音を捉える。馬蹄、騎馬隊の音。追っ手が来たか。体勢を崩すほどではなかった張飛は、即座に次の一撃を放っている。真上から振り下ろされたその一撃に戟剣を叩きつけて真右へ吹き飛ばすと、そのまま一気に踏み込んだ。さらに強く叩き返された張飛は、それでも体勢を崩さず次の一撃のために槍を振り上げる。しかし異様な速さの踏み込みから一呼吸で連なるように放たれた黒い刃は、既に張飛の眼前まで迫っていた。大きな目が、さらに大きく見開かれる。怒りに血走る瞳がぎょろりと呂布を睨みつけた。
張飛は咄嗟に膝を折ると同時に上体を反らし僅かな距離を稼ぎ、その隙間に槍を滑り込ませる。視界を覆い尽くした黒い魔物は、耳をつんざく金属音と、体の芯を通って大地に突き刺さる衝撃と圧力を残して身を翻した。張飛は限界まで仰け反った状態で踏み止まったが、その場で体勢を立て直せずに一歩跳びずさる。が、同時に呂布も踏み込んでいる。体当りの勢いで迫る呂布の向こうで奇怪な戟が信じ難い速度で黒い弧を描く。馬蹄の音が耳を掠める。だがそれどころではない。
(さっきのより)
ヤバい!という思考より先に両手で支えた槍に激震が走り、散った火花と共に己の槍の柄が額に叩きつけられた。
「ぬぐっ!」
勝手に漏れた声は鋭い爆発音に飲み込まれる。後に吹き飛ばされるように大きく跳びずさり堪えたが、まともに槍を構える暇も無い。呂布は?目が確認するより先に衝撃が応えた。速すぎる。
(っの野郎!)
真上から振り下ろされた一撃は反射的にどうにか受けられたようだが、逃がせなかった衝撃に両足が大地に打ち付けられた。下半身に痺れが走る。馬群の音は背後から近付く。大きく振りかぶった呂布と視線がかち合う。静かだが明確な殺意。一番のが、来る!
「来いやあぁっ!」
(……強い)
ようやく離れた間合いを維持すべく剣を構えたまま、高順は荒れた呼吸を整えた。視線の先の尻尾の男・劉備は楽しげな表情で構えを解いている。
「へっへ~、俺の勝ちでいいかい?」
実際、圧倒的といえる程に押されていた。輪郭を伝った汗が顎から落ちる。
常日頃呂布を相手に鍛錬している高順にとって、それ未満の速度、威力の攻撃は脅威ではない。ゆえに、ほとんどの相手が脅威たり得なかった。だが、この劉備という男とその技は、その範疇から外れていた。速いのだ。武器を用いた戦い方ではあり得ない、速度と手数。間合いを詰められてしまえば、とても剣術で対処できるものではない。拳を剣でいなせば次の瞬間には逆からの蹴りが迫り、どうにか引き戻した剣で受けたところでその時には既に拳が身体に撃ち込まれていた。一撃必殺とはいかないようだが、それでもこちらの動きを鈍らせるには十二分な破壊力である。肋骨が何本か折れているかもしれない。
ならば、と受け流して力を利用しようにも、突きも蹴りも高速で“撃って引く”という一瞬の動きであり、受けること事態が相当に難しく、しかもうまく流せたところで相手は既に拳を引いているため、こちらの反撃よりも相手の二撃目の方が早い。大振りの蹴りにも合わせてはみたが、武器と違って直接感覚があるためか、受けた瞬間、流した瞬間、どこかしらで相手の力加減も変化し、中途半端になってしまった。結果、受け流して背を向けた状態の劉備から逆の足で突くように蹴りを入れられ、間合いが離れて今に至っている。
高順は状況を確認した。
劉備の背の向こうでは呂布が大男と派手な音を上げて戦っている。あちらは余裕があるようだ。さらにその向こうからは、いつの間にか聞こえ出した馬蹄の、騎馬隊の駆ける音が聞こえて来ている。目の前に集中して気付くのが遅れたが、既にかなり近い。ここは退くべきだ。だが、自分の乗馬と一緒に赤兎も高順のすぐ傍にいる。呂布がここに戻るためには、今戦っている大男と、目の前の劉備が邪魔である。脇腹の激痛は引く気配も無いが、呼吸は整った。
間に合いそうにはないが、やるしかない。
高順は、右の腰に差した刀を抜いた。鋭い殺気と共に二刀を構えると、あちらも構えを取った劉備に向かって一気に突進する。
走る勢いを乗せ、左手の刀で横薙ぎに首を狙う。右腕を立てて防いだ劉備に対し、勢いを殺さず左側に回りこみながら右手の剣を上段から振り下ろし、同時に左の刀を引いて突きを構える。劉備が左腕を上げて剣を防いだところに突きを放つと、首元に突き進む刃を劉備の右拳が下から撃った。さらに体を傾け、突きを避ける。突きと同時に振り上げた右の剣を再び叩き付けるが、劉備は刃を撃った右腕をそのまま頭上に打ち上げてこれを防ぐと同時に左の拳を引いた。対して高順は、前に残した左腕に力を入れる。劉備は突きを撃たずに後ろに跳び、距離を取った。
目を丸くした劉備が笑う。
「ホントやるなあ、高順さん」
あのまま劉備が左の突きを撃てば、それに合わせて前に残した左の刀で首を狙うつもりだった。一撃で致命傷を与え得るのが、こちらの利点である。首ならば、浅くとも引き斬れば終わりだ。しかし、逃げられた。高順の表情が、ほんの少し曇る。
(やはり、強い)
すぐに終わらせる、というわけにはいかないようだ。
白み始めた曹操の視界の奥に、大男が映った。先程から聞こえていた金属音は、打ち合う音だったようだ。片方は、どうやら先行した騎兵の大きい方である。もう一方は、その大男に負けず劣らぬ体格。少しずつ、大きくなる。どうやら、袁紹軍の大男が押されているようだ。急がねば。さらに大きくなって、気付いた。
(呂布か!)
疲弊した曹操の脳が回転を始める。
この追撃の標的は徐栄の騎馬隊である。あれに打撃を与え得る機会は、今しか無いかもしれない。無傷で逃してしまえば、将来間違いなく大きな災禍となる。しかし、追っても届かないかもしれない。
一方呂布は、董卓軍最強の猛将として名が広まっている。ここで討ち取れば、その影響は大きい。討ち取った側の名声も天下に鳴り響くだろう。しかし、その強さが評判どおりなら簡単には討てまい。騎馬隊追撃は諦めなければならないだろう。
甲乙つけ難い。ならば選ぶ理由だ。呂布の姿が大きくなっている。
徐栄の騎馬隊を討って得をするのは、この先董卓と争う者だ。連合はおそらくこれ以上はもたない。ならば、有力な勢力の誰か、ということになる。その候補には当然自分も入っている。むしろ、董卓を裏切り徐栄に憎まれている自分が、最もその立場に近い。
呂布を討てば、どうか。董卓軍の戦力減少という意味では騎馬隊と同様、だが、名声の方は。現状騎馬隊を率いているのは曹操だが、兵は袁紹軍の騎馬隊である。今一騎打ちしているのもそうだ。「曹操が討った」というのは厳しい。大きく見れば連合軍の尖兵であり、その総大将も袁紹である。まず間違いなく袁紹の手柄となる。これはつまらん。
まして、呂布は董卓軍では新参、状況が揃えば引き抜くことも可能かもしれないのだ。そう、例えば今このまま進んで徐栄を討ち、帰り道で包んでしまえば説得も叶うだろう。
曹操は、徐栄追撃を優先する事を決めた。
汜水関で黒い騎馬隊に追い立てられた恐怖とその反動、洛陽で呂布を誘う機会が得られなかった後悔にも似た未練や執着、などといった、自分自身の感情の部分への考慮は抜け落ちていたが、今の曹操にはそれに気付くだけの余裕が無かった。
「前方の小競り合いは無視する!敵騎馬隊は目の前だぞ!」
叫んで、真正面を見る。膝を突いた大男の向こうに立つ呂布と、視線が交わる。
ようやく追い込んだと思ったら、敵の追撃がすぐそこまで来ていた。目の前で膝を突いている張飛の呼吸は荒く、肩や腕は痙攣している。あと一撃、しかし今警戒すべきは、追手の騎馬隊の方だ。呂布は目線を上げた。朝日に照らされ始めた敵軍の先頭の騎兵には、見覚えがある。
(曹操!)
あれだけ徐栄に狙われて、なおここまで徐栄を追って来るとは見上げた根性だ。呂布は全身に力を込め直す。さすがに敵が多いが、タダでやられてやる気は無い。
と、曹操が視線を左に外した。騎馬もそちらへ進路を曲げ、続く騎馬隊ともども呂布と張飛を迂回するように逸れると、そのまま脇を駆け抜けていく。しばらくは警戒していたが、どうやらこちらを狙う者はいないらしい。何の真似だ?駆け抜ける騎馬の列の蹄音の中、呂布は考えた。何が何でも徐栄を狙いたいのか、それともオレが舐められているのか。どちらにせよ、この山賊を討ち取ってさっさと追う必要がある。幾分かの注意を騎馬隊に向けながら、改めて張飛に向かった。
「よく頑張ったが、ここまでだ。言い残すことはあるか」
「……け。クソ野郎が」
一拍開けて、呂布の戟剣が張飛の首に向かう。風を切る音は、駆け抜ける馬群に踏み散らされた。
最後尾が駆け抜けたあと、呂布の前には大きな影があった。放った一撃は、張飛の首の直前で止まっている。馬に跨ったまま張飛の背後に現れたその男は、呂布の一撃を左手の大刀で受け止めていた。力を加えても、揺るがない。
呂布が、目を見開く。見覚えのある、幅広で、特大の刀。
視線を、徐々に上げる。赤黒く日に焼けたような手が映り、腕が見え、その横に髭が揺れていた。その髭を辿り、顔まで視線を上げると、目が合った。
「…てめえ、その刀、どうした?」
一気に湧き出した暴発しそうな力を抑えながら訊く呂布の声は、腹の底の深みから発せられていた。
異様に、髭の長い、大男。
その男は答える代わりに大刀を跳ね上げ、呂布の得物を打ち返す。
「これは戦利品よ。勝者が奪うは世の理、違うか?呂布、奉先」
言い終わった時には髭の男は馬上から吹き飛ばされていた。旋風が起こり、木々がざわめく。大刀を体の横に立てて呂布の薙ぎ払いを防いだ構えのままで着地した男に向かい、呂布が吐き捨てる。
「気安く名前を呼ぶな」
槍を振り抜いた姿勢で大きく呼吸をして溢れ出る殺気を身体に閉じ込めると、呂布はゆっくりと腰を落とし、槍の構えをとった。
「…名乗れ、ヒゲ」
この場で殺してやる。
殺意に満ちた眼光を真正面から受け止めた髭の男は、華雄の大刀を右手に持ち替えると手首を返して軽々と振り回した後、右を奥にして構えた。
「我が名は関羽。関羽、雲長」
ようやく昇った朝日の光が、二人を照らす。空には冬の長い雲が、龍のごとき姿を並べていた。




