24 汜水関撤退戦
いやいや、そんなワケねーだろ。
そう言いたかったが、口が動かなかった。
相手は、以前華雄と一騎討ちで互角以上に戦い、軍を半壊させた、あの孫堅である。ありえない話ではない。それが解っているから、否定できなかった。
代わりに隣の高順が口を開く。
「南の戦況は?」
「はっ!李粛殿の指揮の元懸命に守るも孫堅軍の勢いを止めることは敵わず、洛陽へ撤退中です!」
「…洛陽は少数で守れる城ではない。若、我らもここを退いて救援に向かわねば、洛陽が落ちては退路を断たれます」
それは、その通りだ。しかし
「待て、徐栄の兄貴はまだ戻ってないんだぞ!?見捨てるつもりか!」
張遼が大声で代弁する。
すぐに戻ると思っていたが、既に出撃から一日半、気配はない。帰りを待たずにこの汜水関を敵に渡してしまうと、徐栄は敵中に孤立することになる。しかも、そこから徐栄が抜け出すためには、敵の手に落ちた難攻不落の汜水関を少数の騎馬隊で落とさねばならない。それは、まず不可能だ。
かといって、ただ待っていては汜水関自体が孤立してしまう。いつまでも待ち続けられる状況ではない。全滅はないとして、曹操を追ってどこまで行ったか?
「曹操が逃げる先は、酸棗の連合本陣だ」
呂布は考えた事を口に出した。
「はあ?当たり前だそんなもの!今は…」
激昂する張遼を横に、高順が思考を引き継ぐ。
「酸棗までは駆けて1日、戦いながらでは2日弱」
「あの勢いだ、限界まで追うだろう」
「それでも半ばまで。折り返したとすれば、帰りの速さも加えて1日半」
「てことは、言ってる間に戻って来るわけだ」
解を得た呂布の目に輝きが増していくのを、張遼は口を結んで見ていた。張遼自身、同様に考え、だからもう少し待つよう進言するつもりだったのだ。今さら1から考えてそこに辿り着く、というのはいささか遅いが、ただの剛力武術馬鹿というわけでもないらしい。二人合わせて、だが。
「では今しばらく待つ、ということでいいか?」
張遼が確認すると同時に、敵の喚声が大きくなった。
「何事だ!?」
言葉に割り込まれた張遼が、城壁で守兵の指揮に当たっている曹性に呼びかける。返事はすぐに返って来た。
「敵さん、今日は夜通し攻めるつもりみたいです!昨日とは雰囲気が違う!」
華雄を討った、という報告で、勢いづいたか。となるとやはり華雄は……。
3人ともが同じことを考えたが、口には出さなかった。
遠く響くような怒号の中に、天井や壁を激しく叩く矢雨の音が無数に、不規則に混じる。
呂布の目には、己の握る真新しい得物が映っていた。未だ実戦で振るわれたことのないその異形の戟は、槍剣とでも呼ぶべき黒い刃を鈍く光らせている。華雄の姿が、映った気がした。
「よし!」
呂布は壁の上へと登る階段を見上げた。それを見て、張遼が立て掛けてあった弓を手に取る。
「いや、お前は下だ」
「何?」
「お前には兄さんの騎馬隊を率いてもらう」
目一杯顔を歪める張遼に、呂布は意地の悪い笑みを向けた。
「オレと違って騎兵の扱いは一人前なんだろう?まさか兄さんの部隊に不足がある、何て言わねえよなあ」
「言うか!言わんが、打って出ろというのか?どうやって!?」
門の前まで敵は来ており、それを破ろうとしているのだ。こちらから開けてどうする。
「隙はオレが作ってやる。騎馬隊が出た後、戻るまでの門の守りは、高順、いけるな」
高順はため息をついた。
「ご命令とあらば」
その返事を満足げに聞いた呂布は、戟の柄尻を床に突き立てた。
「張遼は開門と同時に全騎馬隊を率いて突撃、一度貫いて背後を取り、後ろから好きなだけ掻き回してやれ!高順は歩兵で続き、門の前を確実に守り切れ!向こうもやる気だ、ただ守ってたんじゃあ徐栄の兄さんを迎えるのも難しい!ましてその後この汜水関は捨てるんだ!すぐに追われたんじゃあ面倒臭え!しばらく追う気が起こらねえよう、きっちり痛めつけるぞ!」
一息に叫んだ呂布は、跳ねるように壁の上へと駆け登る。暗くなりゆく世界の中、篝火に火が入り、殺伐とした戦にあってその光景は一種の美しさのようなものを感じさせた。手近にあった板切れで頭上を守りつつ、曹性に近付く。
「若?まさか上から行くんですか?」
緊迫する場面でこそ、曹性は笑って軽口を叩く。呂布はそういう曹性の気の利いた言葉が気に入っていた。笑い返し、壁の下を見る。方々に火が灯っており、上がる煙が士気の高さを感じさせた。
それを、折る。
敵左翼、山と門との中間辺りに、炎に照らされた大きな旗が見えた。壁面には、半壊して放置された長梯子が幾つか残っている。
「じゃあ、あそこにするか!」
呂布は足元にあった綱を拾ってその正面に移動すると、壁の凸部に手際よく括り付け、
「曹性!オレが降りたら、門の前に矢を集めて一射だ!その後、すぐ門を開け!」
目を丸くしている曹性に大声で指示を与えた。その声に我に返った曹性は、
「またそういう無茶な事を…」
ぼやくように言いながら、自分の剣を鞘ごと呂布に投げ渡す。空中で受け取ると、
「今回はコイツがあるからな、たぶん出番は無いぞ?」
呂布は己の戟を掲げて見せた。曹性は笑う。
「お守りですよ。効き目は、誰かさんのお墨付きです」
呂布はその剣を腰に差すと、再び笑い返した。
「じゃあちょっとの間、借りていくぜ!」
左手に綱を通して壁から身を躍らせた呂布は、崩れかけの梯子の上に両足で着地した。衝撃で壁沿いに傾き始めた梯子の上を、跳ねるように駆け下りる。左手の綱は、握っていない。あくまで保険である。壁の真下には敵兵はいない。門を突破することに狙いを定め、両翼は弓での援護に徹底しているようだ。降りる分には楽でいい。敵の弓兵には呂布に気付いた者もいるだろうが、狙って当てられるものではない。何せ本人も予測できない動きをしているのだ。梯子の角度がきつくなっていくに連れ倒れる速度が上がり、さすがに足がついていかなくなったところで左手の綱を握って一瞬宙吊りの状態になる。左肩が抜けるような衝撃。それに耐えると壁に両足を着け、握りを緩めながら呂布は壁を斜めに駆け降りた。何本かの矢が飛来するが、あえなく壁を撃つ。地面まであと僅か、と思ったところで、左手の感触が消えた。体温が一気に下がる感覚。体勢が悪い。しかも空中である。が、どうにか両手両足で同時に着地し、衝撃を分散させられた。全身が痺れる。しかし、骨に響くほどではない。
(これのおかげ、なのか?)
立ち上がった呂布は、左腰の剣を見た。これの重さがあったからこそ、両手両足が同時に地に着いた、のだろうか?
ともかく、こうして呂布は、瞬く間に敵陣に降り立った。
(さて、ちょっと困ったぞこれは)
地に降り立ったはいいが、思っていたより敵が遠い。しかも、全員弓を手にしている。一斉に撃たれたら、防ぎ切れる気がしない。降りる途中にも射掛けられていたのだ、すぐ動かなければ。
呂布が標的である大きな大将旗へと駆け出すのとほぼ同時に、呂布の視界の敵兵に鋭い雨が降り注いだ。纏まった攻撃に、敵陣が怯む。
この隙に、一息、近づける。
(やるな曹性!助かった!)
自分の出した指示とは違うが、咄嗟の判断だろう。感謝しつつ、走る。長身を低く屈め、地を這うように猛然と駆ける。次射では指示通り、門の前を射るはずだ。その前に、こちらに意識を向けさせる!
月明かりと篝火の日を背景に、呂布は敵陣の最前列に文字通り跳びかかった。
「「呂布奉先、ここにあり!勇将、鮑信殿の首、頂きに参ったぁっ!」」
右手一本で勢いよく振り下ろしたその黒い刃は、不幸な敵兵の身体を二つに断ち割った。手応えが、軽い。恐ろしい斬れ味だ。柄の端を持って剣を振るように戟を振り回すと、今までなら軸で打ち据えていた相手が、全て刃に切り裂かれていく。闇に舞う血飛沫はさながら黒い旋風のようだった。
(これは、これは凄い業物だぞ、華雄の叔父貴!)
片手で剣として振るい、両手で槍として突きを放ち、再び払うと同時に敵を斬り裂く。その一つ一つが、必殺の威力を持つのだ。いままで体験したことのない力に、呂布の心は酔った。コレがあれば、何人にでも勝てる!そう思えた。思いながら、実際に屍の山を築いていった。遠慮なく振るわれる戟の前に、敵兵は肉片と化し、血煙と共に宙を舞う。
黒い刃を嬉々として振るい、思うままに人を斬り裂くその姿は、相手にとってはもはや“恐怖”そのものであった。周囲の兵は距離を取り、そして注視した。来たら、逃げなければならない。連合軍の左翼本陣に向かう呂布を止めるものは減り、逆に遠くの者も呂布を確認せずにはいられなかった。
「中央、衝車(破城槌を取り付けた、屋根突きの台車のような攻城兵器。門などを壊すのに用いる)の周りの兵を狙え!構えっ!……てぇっ!」
曹性の号令の元、統率のとれた射撃が頭上から降り注ぎ、汜水関の城門攻撃部隊は明らかに怯んでいた。そもそも、呂布が暴れている左翼側を気にしている者が相当多い。そして。
「開門!開門急げ!」
斉射の直後、一瞬の隙に内から開いた門の中からは、先日戦場全体に恐怖を撒いて行ったあの黒装束の騎馬隊が現れる。
怯えるな、と言うには無理がある状況だった。
しかし、己の目で恐怖を見ている最前線の兵はともかく、その他の兵の、一度上がった集団の士気というものは、そうそう落ちるものではない。南側の孫堅軍は、董卓軍の一角である華雄を討ったのだ。こちらも、勝つ。相手は、いずれ汜水関から退くしかないのだから。
流れに乗じた必勝の気合と、それを折ろうとする呂布達は、真っ向からぶつかっていた。
門の正面の敵を蹴散らしその奥へと抜けた張遼は、次の行動を決めるのに逡巡した。敵軍後衛は士気が高い。両翼とも、後方に抜けたこちらに向かって来ている。歩兵のみで脚はないが、槍を並べられているのは厄介だ。とは言え汜水関の門からあまり離れるわけにも行かない。張遼は隊を反転させ、脚を止めた。
正面から打ち破る。左か右か。左翼は、呂布が壁から飛び降りている。どうやったのか知らんが、信じ難い馬鹿だ。さぞ目立ったことだろう。援護のためにも左翼に向かうべきか。
脚だけで乗馬に気を伝え、駆け出す。後に続く徐栄の騎馬隊はさすがに優秀で、微塵の遅れも無い。自然と口角が上がる。これはいい。正面に、槍を並べた歩兵が迫る。向かうは、左。
(「騎兵の扱いは一人前か?」と聞いたな?)
張遼は槍の直前までに最加速すると、脚、手綱、身体全体を使い、騎馬を宙に舞わせた。跳んだ馬は突き出された槍の上を越え、兵を踏みつけ着地する。同時に張遼の槍が唸りを上げ、正面の敵兵を貫いた。
(左翼を切り裂き、貴様の前まで迎えに行ってやるぞ、呂布!)
張遼、文遠。彼は董卓軍では『態度は悪いが実はいい奴』として有名だった。
「ひ、一人で暴れている呂布が、どんどんこの本陣に近付いています!」
「敵騎馬隊、止まりません!ここに来るのも時間の問題かと!」
次々ともたらされる報告は、理解の範疇を越えている。だが連合軍左翼の将・鮑信は勇敢にして賢明であった。
左翼の自分が狙われている間に、右翼が汜水関を落としてくれればよい。この本陣を狙っているというなら、狙われていない兵は右翼に合流させ、被害は最小限に留める。即断即決、これを実行に移したため、被害はそこまで大きくなかった。しかしそれは同時に、鮑信自身を捨石にし、それを守る兵すら減らす、という策でもあった。
無人になった陣から出て、正面で戦う呂布の姿を見据える。篝火の向こうで、影のみの姿の大男が槍を棒切れのように振るい、部下の上半身が飛沫を上げながら回転して吹き飛んだ。作り話の一場面のような、現実感の無い光景。恐怖を通り越えて、滑稽にすら思えた。あれが、董卓軍20万を数百騎で襲い、数万を屠ったという、呂布奉先か。噂は、あながち誇張ではないのかも知れん。だが、鮑信の心に臆するところは無かった。剣を抜き、歩き出す。戦で死ぬは武門の誉れ、最強と戦って果てるなら、先に逝った部下達と共に、大いに誇ってやろうではないか。
一歩ごとに大きくなる呂布の姿に、鮑信は歪な笑みを浮かべ、駆け出す。
「我が名は鮑信!呂布よ、いざ!」
「若、半端ないなあ……」
壁の上で戦いながら、敵の左翼が壊滅していく様を見ていた曹性は、幻を見ているような気分だった。最初に剣を貸した時は、こちらはただの兵卒で、憧れのような感情を持って『呂布殿』と呼んでいた。顔を覚えられ、いつしか高順殿を真似て冗談交じりに『若』と呼ばせてもらえるほどに近付いていたが、当の若の方は、現実から離れていっているようだ。
そんな思いが頭に浮かんでいながらも、曹性の目は視界の中の小さな変化を見逃さなかった。
遠く、ごく小さい点だが、火が揺れている。軍勢が、こちらに向かっているのだ。夜でなくとも見えない程の距離だが、それでも、不思議と確信があった。あの頼りになる董卓軍筆頭が、曹操ごとき裏切り者に敗れる道理は無い。あれは、徐栄の兄さんに違いない。
「鮑信将軍、見事な男であった」
張遼の言葉に、呂布も頷く。
体格の大きい方ではない鮑信は、それでも一片の躊躇も見せずに呂布に立ち向かったのだ。呂布の斬撃を受け、半身を斬り離されてなお、右腕の剣は呂布を襲い、呂布の左手甲を叩き割っていた。
丁度鮑信の陣に辿り着いた張遼は、その最期を見届けていた。ここへ至る途中、敵兵が抗戦よりも右翼への移動を優先していたのも、この将軍の命なのだろう。自らの命を餌に、兵の無駄死にを避けるとは。
しばし追悼の意を闇夜の沈黙に込めていたところに、汜水関から銅鑼の音が響く。その響きは、徐栄の帰還の合図であった。
二人は汜水関に背を向け、目を凝らした。遠くに松明らしき光は見える。が、当然何者かなど確認できない。
「曹性の奴、勘で鳴らしやがったな」
張遼は答えない。
二人とも、近付く馬蹄の音に、その清廉な気配に、確信を持っていた。
確信に、誤りは無く。
「遅くなった、すまん」
そう言って笑う徐栄の渋い顔には、さすがに疲労の色があった。騎馬隊全体からも、同様の熱が感じられた。およそ2日走っているのだ、それも当然である。だが、呂布、張遼と合流して駆けるその姿は、音も無く、ただ獲物を狩るために磨かれてきたその動きは、疲労してなお力強さを失っていなかった。
徐栄と共に戦う機会を得た張遼は俄然張り切り、自身が率いてきた徐栄隊の半数を指揮して、右翼の敵を多いに討った。汜水関に戻ることが目的であり、既に攻撃を中止して退却を始めていた連合軍の右翼を襲う必要はなかったのだが、敵兵は減らしておくに越した事はない。呂布も徐栄も、止めはしなかった。
攻城する敵の半数と将を討ち、撤退させた。
これで、汜水関からの撤退戦は、完勝だろう。
暴れる張遼を横目にそう考えていた呂布は、程よい満足感と共に隣を駆ける徐栄に尋ねた。
「徐栄の兄さん、結局曹操は捉えられなかったのか?」
「ああ、なかなかどうして、骨のあるのがいてな。あのガキ、いい部下を連れてやがる」
あの徐栄隊の追撃を振り切ったというのは、相当だな。そんな呂布の感想は、続く徐栄の言葉に掻き消された。
「……けどな、ガキの代わりに大物が釣れたぜ」
にやりと笑う徐栄。
?釣れ、た?どういうことだ?
呂布の頭が冷静に働く前に、眼前に迫っていた汜水関の壁上から、曹性の大声が轟いた。
「遠方!一面に松明!大!軍!です!」
予想外の事態に、呂布の口は開いたままになっていた。隣から、楽しげな、渋い、深い声が聞こえる。
「都の大将のお出ましだ」




