23 汜水関の戦い
先頭に翻るは『曹』の旗印。
その報告に、端正な徐栄の顔には渋い笑みが浮かんだ。
「……あのガキ、ようやくか」
その深い声は地に落ち、足元に染み渡る低音が耳の奥で微かに響く。聞く者を惹き付けるその響きは怒りと狂気を内包してなおその力を損なわず、場に静かなる戦意と緊張感をもたらしていた。
汗が滲み出すような錯覚を覚える。
横目で隣を確認すると、横目の高順と目が合った。無言で、視線を戻す。完全に同意見だ。
(これは、ヤバい)
静謐の中、上座の男から流れ出す殺気は全体へと伝播し、膨れ上がっていく。空気は重さを増し、やがて充満する殺気のその源にあるのは、闇色の鎧装束に身を包み、変わらぬ余裕を湛えた徐栄の姿。この違和感。それは圧倒的な狂気と魅力をもって、渦巻く殺気を一つに纏め上げていた。
先頃、汜水関から打って出た徐栄は連合軍の前衛・王匡の軍を壊滅させている。
ごく少数で夜襲をかけて陣から釣り出し、そこに突撃を当てる。ただそれだけで、1万の王匡軍は四散したのだ。戦場は、幅があるとは言え一本道、実際に刃を交えた人数は数千人、王匡軍の戦死者も15000程度である。少なくはないが、壊滅、というような被害ではない。それでも軍が四散した、その理由は。
恐怖。
最初の夜襲は100名足らずで、数度繰り返された。王匡側の被害は見張りの兵など、数十人。
反撃のために陣を出た王匡軍に対し、逃げるふりをしながら戦い、倒した兵が100程度。
そして、陣から引き離された事に気付いて脚を止めた王匡軍に、一斉に突撃をかけて討ったのが、およそ1000。
その犠牲者のほとんど全てが、首を切り落とされていたのだ。
夜襲の時点では、それは挑発に感じられただろう。だからこそ王匡は出陣し、勢いよく追ったのだ。追いながらも倒される仲間の首が、ことごとく失われてく。全員が気付くワケはないが、前線の者は、気付いたハズだ。徐栄軍の余裕に。その狂気に。殺す事を、楽しまれている。そこに恐怖が生まれる。本来最も意気盛んであるべき、最前列に、である。脚は鈍り、やがて止まる。そして。
一斉突撃で、接敵している兵全てが首を狙われたのだ。戦意よりも恐怖が先走り、波紋の如く広がるその恐怖を追うかのように、目の前で首無しの死体が崩れ落ちる。恐慌を呼ぶには、十分過ぎた。
戦意喪失。
こうして王匡軍は壊滅した。
先頭から崩壊し散り散りに逃げる王匡軍に対し、徐栄の追撃は緩かったと聞く。恐怖を増大させるために遅れた者の首だけを狙い、恐怖を拡散するためにわざと多く逃したのだ。
呂布は改めて徐栄を見た。
勝ち戦の後、調子に乗って見せしめに残虐行為に走る、というのはよくある話だ。丁原はその気が強かったし、董卓軍内にもそういう将がいるようである。弱者ゆえの虚勢。呂布はそう思っている。だが、徐栄の“首狩り”は違う。戦の中に、勝負の最中に残虐性が入り込んでいるのだ。だからこそ、ヤバい。
普通に戦えばより簡単に多くの敵兵を討てたはずだ。手間の分、余計な被害も出ているだろう。にもかかわらず、おそらくは当然のこととして、首を狩り続けたのだ。
黒い気配の充満する中いつもと変わらぬ徐栄の姿に、呂布は生まれて始めて「怖い」と思った。それは、一対一ならば、などという自負は問題にならない、本能的な恐怖であった。
「呂布」
「おう!」
冷気を払うように大声で返す。
「悪いが留守番を頼めるか?俺はあのガキの首を狙いに出る」
「わかった。後ろは任せてくれ」
即答する呂布に、徐栄は軽く微笑む。どんな指示でも受けるつもりだった。この恐ろしい男は、その恐怖の分、恐ろしいほどの信頼感を併せ持っている。味方にいることがこれほど頼もしく思えるとは。これもまた、呂布にとっては生まれて初めての感覚であった。
「出撃は5000。残りは騎馬にて待機。曹操が前にいるうちに突撃をかける。門を開く機は、呂布に任せる。……以上だ。準備にかかれ!」
連合の先頭を駆ける曹操は、行く手に迫る汜水関の巨大な門を睨みつけていた。
(出てくる、か?)
今汜水関にいる董卓軍は、徐栄と、呂布。兵数はおよそ1万5000で、こちらのおよそ半数。だが城攻めには倍の兵力があっても余りはない。まして汜水関は難関、戦力で考えればこちらが劣っている。
董卓の右腕たる徐栄は、主の暗殺を謀った曹操を深く憎んでいると聞く。王匡軍に対する首狩りは見せしめだけではなく、自分に対する挑発も含んでのことに違いない。だからこそ、先陣を切ったのだ。自らを餌に、徐栄を釣り出す。
董卓に仕えていたとはいえ、曹操はその騎馬隊を戦場で見たことはない。しかしその力は認識していた。馬と共に生きる西涼の連中に自由に暴れられては厄介だ。出てきたら引いて自軍の奥に引き込み、包んで脚を殺し、討つ。単純な策だが、自軍に絶対の自信を持つ董卓軍には有効だろう。有利な防衛より、多少不利でも騎馬で駆けることを選ぶ気風もある。
「張邈殿、鮑信殿、両翼は、城攻めはお任せします!」
「曹操殿こそ、相手は董卓軍の精鋭、気をつけられよ!」
「御武運を!」
弓の射程に入る手前で、左右の軍を率いる将と別れる。両名とも、将も兵も士気は高い。幸いというべきか、あの首狩りはふるいの役目を果たしていた。不甲斐ない連中の士気は大いに削がれ地に墜ちたが、一方で進む志のある者の士気は跳ね上がったのだ。元より否戦派など当てにしていなかった分、得をしたとも言える。
(少々、人道に外れるか)
「猛徳(※曹操の字)!」
背後から荒い声がかかった。隣まで駆け並んできたのは、曹操の副官、夏侯惇である。
夏侯惇、字を元譲という。曹操の従兄弟にあたる彼は幼い頃より気性が激しく、14歳の頃には学問の師を侮辱した男をその場で打ち殺すほどの豪腕を併せ持っていた。学問・兵法をよく学び、文武両道の将に成長した彼は、曹操が全幅の信頼を置く数少ない人間の筆頭であった。曹操が董卓に仕えている間、本拠の陳留で将来曹操軍となる兵を集め、鍛えていたのも、この夏侯惇である。
「ここまで鍛えた部下の初陣が囮の撤退役とは気に入らん!董卓軍は、徐栄は本当にそれほどのものなのか!?」
この場に至って最前列で堂々と不服を述べる副官に苦笑いを浮かべながら、怒鳴り返す。
「想像を、遥かに上回ると覚悟しておけ!西涼の騎兵は中央のそれとは別種の強さ、その中の最強の部隊が相手だぞ!名誉だろうが!」
憮然とする夏侯惇。
「…まあよい!将はお前だ、存分に指揮を執れい!他の者も配置についておる!最強とやら、きっちり滅ぼしてくれるわ!」
それだけ言うと、乱暴な副官は下がっていった。
汜水関の高い城壁からは、既に矢が届く距離だ。左右の軍を確認し、速度を上げる。歩兵をできるだけ壁に近付けるために、まずは騎馬が的にならねばならない。両翼とも、同時に加速した。馬群の轟音の中に風切り音が聞こえたかと思うと、右翼の騎兵が派手に吹き飛んだ。思わず目がいくが、直ぐに正面に戻す。壁面から、無数の小さな黒線が空へと上がった。
「速度そのまま!伏せーぃっ!」
後方から夏侯惇の声が響き、全員が姿勢を下げる。曹操だけは、顔を上げていた。矢の進行を見定める。僅かに、左右に割れている。
線だったものは矢となり、天から降り注ぐ。曹操の軍を避けるように両翼へ散ったその矢の多くは、駆ける騎馬隊の前に落下した。先頭の者の一部は落馬したようだが、ごく僅かである。ただ、少し脚が遅れた。射返すには、まだ遠い。中央の曹操軍が若干突出したまま、駆け続ける。再び、微かな風切り音。今度は左翼の兵が吹き飛ぶ。そして、黒線の雨。上がった瞬間、両翼の速度がさらに僅かに落ちた。
(さっきのは、これが狙いか!)
眼前に落ちる矢雨を見せることで次射に対する左右の速度を落とし、中央、つまり曹操の軍を意図的に突出させたのだ。やはり、狙われているのはこの曹操だ。
だが、こちらも囮になる覚悟で来ている。壁が近付く。あと僅かで、壁上に届く。曹操は門を睨み付け、右手を上げた。
「弓!構えええいっ!」
気配だけで一拍待ち、右手を前に振り下ろす。
「てええーっ!」
背後の自軍から、遅れて左右の軍からも、汜水関の上へと矢が放たれる。だが曹操の目は、その矢を確認していなかった。
汜水関の、門が開く。
「開門急げ!」
身を低くし、大きな板を頭上に掲げながら呂布は叫んだ。
「こ、ここまで引っ張らなくっても良かったんじゃ!?」
隣で曹性が情けない声を上げる。
「馬鹿、徐栄の兄さんには最高のお膳立てをしたいだろ?」
笑いかける呂布の腕には、厚い木の板を叩く音と共に突き刺さる矢の振動が響く。
「お前の腕は凄いよ、良くやった」
空いている左手で肩を叩いてやると、曹性もどうにか笑顔を見せた。
実際、凄い腕だった。
呂布が自身の長大な剛弓で敵の先頭辺りを射ると、それを元に自分の矢の飛距離を読み、全守兵の見本となるように城壁上の踊り場に登って、そこから角度を示しつつ、狙い通りに矢を放つ。こんな離れ業を成功させたのである。
呂布は異常に強い弓を使っているため、常人の距離ならその矢は驚くほどに真っ直ぐに飛ぶ。だからこそ、細かく狙いをつけられるのだ。それを曹性は、他者の、それも常ならぬ剛弓による矢の挙動を見て、それを参考に自身の弓の狙いをつけたのである。
弓の腕は、曹性の方が上だ。たった今それを実感した呂布は、その事実が嬉しかった。自分より上がいる、というのは、楽しいものだ。
「徐栄将軍、出ます!」
下から高順の声が響く。
「閉められるか!?」
「問題なく!」
「よし!弓隊は曹性の指揮だ!矢はまだまだある、引き続き射掛けろ!他は油と松明、投石の用意!」
「えええ!」
「反論は認めねえぞ!高順、閉めたら上がって来い!」
言い切った呂布は、弓をつがえて立ち上がると狙いを探した。左右の軍に2台ずつ、井闌(攻城用の移動櫓のこと。城壁の上の敵を攻撃し、また壁上に直接乗りこむために使われる)が見える。こちらの城壁よりは少々低いが、邪魔な兵器には変わりない。まだ遠い、と思ったが、曹性を真似て標的の斜め上に適当に狙いをつけ、放つ。空を裂いて飛び立った矢は、狙った井闌の右に大きく逸れた。
「……」
呂布は曹性を見た。あたふたしながらも、足元を駆け回る騎兵ではなく、その奥から寄せて来る歩兵を狙い、一斉に矢を放たせていた。非常に、理にかなっている。
妙な悔しさを感じた呂布は、心に決めた。
(あれの上の連中は、全部射落としてやる!)
覚悟は決めていた。予想外の事態は起こっていない。
それでも、曹操は自分の体温が下がって行くのを感じた。
開かれた汜水関の門から現れた徐栄の軍は、悪鬼と呼ぶに相応しい、禍々しい姿であった。全身黒い鎧装束で揃えられた一団の中央で、徐栄は一人上から赤い布を纏っており、左右には長大な刃を持つ戈(矛の一種で、刃が柄に対して真横に伸びている、鎌のような武器)を携えた兵を従えていた。背後にたなびく黒地に濃い赤文字の『徐』の旗は、さながら血文字のようであった。
出陣の銅鑼の音もなく、静かに現れたその騎馬隊は、それでもその場の連合軍全員の視線を奪った。そしてその姿以上に、目に見えるほどの黒い殺気が、見た者全てに恐怖を感じさせた。
徐栄の視線が、自分を貫く感覚。
「猛徳!退くぞ!」
怒鳴り声で我に返った曹操の目には、声も上げずにこちらに向かっている徐栄の軍が映っていた。
「手筈どおり退く!引き離しすぎぬよう速度を…」
「阿呆かおまえは!あれはそんなぬるい速さじゃあない!全力で退いても追いつかれるぞ!」
徐栄を初めて見た夏侯惇が、あの夏侯惇が、まだ遠いこの距離で焦っている。それは曹操にはない、野生の本能のようなものだろう。十分、信用に足る。
「我が隊は全力で退く!左右に潜る兵は即時分かれよ!元譲、殿は任せるぞ!」
「おう!さっさと行けぃ!」
聞く前に駆け出す。獣の本能などは持ち合わせていない。なればこそ、冷静に。
真正面を見据え、味方の布陣を確認し、最大限の速度で駆ける曹操。それでもその背後に感じるのは、殿の夏侯惇ではなく、その奥から追ってくる徐栄の殺意であった。
徐栄の隊に、命令の声はない。全神経を、行動にのみ注ぐ。乗馬と一体となり、荷ではなく加速する筋肉となって、ただ獲物を追う。今はその時であり、隊の全員が一致して動いていた。左右に割れる敵兵に一度たりとも刃を振るうことなく、その場の誰もが目を奪われるほどの速度で戦場に黒い墨が引かれていく。
両側面から、槍が突き出された。捉えられた数十騎が崩れる。速度は落ちない。先頭の徐栄が剣を抜き、全体の気配が変わった。殺気が、さらに前面に出る。徐栄の後ろにいる戈持ちの2名が、その得物を振りかぶる。
駆ける先で、再び槍が襲う。対して、振るわれた戈には血が滴り、黒い蛇が駆け抜けた後には首無しの死体が倒れていた。槍で敵兵の顔面を貫いた者はその場に槍ごと捨て、剣を抜く。崩れたのは、数騎のみ。
次いで、矢が飛来する。が、崩れる者はいなかった。狙いが、まるで合っていない。運悪く腕や脚に受けた者もいるが、速度は変わらない。
一度だけ徐栄が剣を振るい、矢を打ち払った。一人、腕の良いのがいる。だが、それだけだ。黒蛇の目は、逃げる曹操軍の最後尾を捉えていた。
何だこの馬鹿げた速さは!
鍛えに鍛えた騎馬隊がいとも容易く追いつかれ、最後尾に食いつかれている。待ち伏せに配置していた部隊の攻撃も、その速さにほぼ意味を成していなかった。この速さでは、それらの隊が追撃できるわけがない。夏侯惇は奥歯をきつく噛み締めた。
元々は、この辺りで反転し、数の減った徐栄軍を全軍で囲む手筈だった。1000ずつ3部隊を待ち伏せに残したため、今逃げているのは2000。対する徐栄軍はほぼ減っていない、おそらく5000程度。
この兵力差、錬度の差で、脚を止めるのは自殺行為である。しかし、このまま駆け続けても徐々に食い破られていくだけだ。
何だこれは!
最初に猛徳が言ったように、想像を、常識を上回っている。これと戦うには、別の策、別の戦力、別の訓練が必要だ。後日、その機会を得るためには。
夏侯惇は僅かに速度を落とした。
これを経験した兵を、残す必要がある。こんな非常識な相手は、戦ったことがなければ理解できない。こいつらを生かすことが、後の強さに、対抗する強さに繋がる。
最後尾の部下に、巨大な戈が振るわれるのが見えた。馬上から崩れ落ちる身体。そこには、首がなかった。
時間が止まる。
舐められている。
この数年間、血を吐く思いをさせてまで鍛えてきた部下である。役人のクズ兵士とはわけが違う。
それが、あの王匡の雑魚兵士と同じように、狩りの獲物のように処理されている。
後日の雪辱を考えていた冷静な思考は消え去り、視界が焦点を失う。瞬きも、呼吸さえも、感覚がなくなる。全身の血液が熱く激しく流れ、やがてその温度も感覚も消えていく。
―許さん。
顔を出したのは、本能を塗り潰す、怒りの殺意。
黒い蛇の目の前に来た夏侯惇に、長大な牙が振るわれる。
夏侯惇はその刃を左の拳で撃ち上げると、同時に右手の槍を凄まじい捻りと共に繰り出した。馬と共に態勢を傾けた徐栄の部下に対し、その突きは首をかするに留まる。しかし、かすっただけのその傷は捻りの衝撃で見る間に裂け広がり、首を折ると共に身体をも馬上から吹き飛ばした。
すぐ傍でそれを見ていた徐栄の視線が、夏侯惇に向かう。手綱を放すと、剣を構えた。速度が夏侯惇に合わさる。同時に、ほぼ直線で後ろに続いていた徐栄の隊が、左右3騎ずつに広がった。
その全てを一度に認識し、夏侯惇は再度、叫ぶ。
―許さん。
夜を迎えて一旦戦闘が停止し、汜水関は一時の静けさを取り戻していた。
門が破られるような状況ではないが、呂布はなかなかに苦戦していた。脆弱だとばかり思っていた連合軍が、かなり優秀なのだ。特に左翼、鮑信という将軍は、自ら前線に立つ勇猛さと、危険を察知し素早く退く用兵を持ち合わせており、騎兵での戦闘以外は苦手な呂布の馬鹿正直な守備のせいもあってか、戦況が有利に傾く気配はなかった。
現在守備についている兵力は呂布隊の5000で、徐栄隊の残り5000はいざというときの騎馬戦力として置いてあるのも、その理由の一つである。攻め手はおよそ2万であり、それでもどうにか守ることができる汜水関の堅牢さに甘える形で、呂布はみずから兵力差をつけてしまっていた。
ただ、呂布はそれで正しいと思っていた。徐栄が戻って来る時、迎えに撃って出る必要がある。根拠はないが、そう確信していた。
そして翌日。
先日同様の競り合いが一日中繰り広げられ、徐栄も戻って来ないまま再び夜を迎えようとしていた汜水関に、にわかには信じ難い報告が届いたのである。
―洛陽南部、梁県の山中にて、華雄将軍、孫堅軍の手により、討死―




