第6話 無愛想伯爵と最初の夕食
手紙の文面は、驚くほど丁寧だった。
『リディアへ。誤解が広がる前に戻ってきてほしい。君の名誉を守れるのは私だけだ』
最後まで読み切る前に、私は紙を畳んだ。
「戻る気はないようだな」
エイドリアンが机越しに言う。
「ええ。名誉を踏みにじった本人が守れると言う時点で、冗談としても質が悪いので」
執務室の空気が一瞬止まり、それからヘレナが吹き出した。マルタまで咳払いで笑いを隠している。
エイドリアンだけは無表情のままだったが、目元の硬さが少し和らいだ気がした。
「返事は」
「必要でしょうか」
「いる。逃げたと思わせるな」
私は便箋を引き寄せる。
『王宮毒見役リディア・フェルナーは正式に辞職いたしました。今後はヴァルト辺境伯家の雇員として働きます。私の名誉について配慮があるなら、まず夜会当日の杯の鑑定結果を公表してください』
そこまで書いて、少し考えた。
そして最後に一文だけ付け足す。
『もう私は、あなたの都合で沈黙しません』
封をすると、胸の奥に溜まっていた澱が少し薄くなった。
「今夜、返事を出します」
「いい」
短い承認のあと、エイドリアンは机上の別の紙束へ視線を落とした。港湾税の記録だろうか、数字がびっしり並んでいる。
「食事はどうしますか」
私が訊くと、彼は顔を上げる。
「どう、とは」
「今夜も別室で味見だけにしますか。それとも昨夜の続きにしますか」
昨夜、同じ食卓へ着いたことを口にした途端、自分で少し気恥ずかしくなった。
だがエイドリアンは迷わなかった。
「同じ卓だ」
夕刻。食堂には昨日よりずっと少ない皿だけが並んだ。マルタの案で、調理工程を絞り、持ち込む人数も半分にしたのだ。
今夜の献立は野菜の煮込みと薄切り肉のソテー、硬めの白パン。私は一つずつ確認してから席へ着く。
「王都では、毒見役も一緒に食べるのですか」
エイドリアンの問いに首を振った。
「いいえ。味だけ見て、壁際へ下がります」
「馬鹿げている」
「そう言われたのは初めてです」
「毒を見る人間が腹を空かせていて、まともな判断ができるのか」
その言葉に、私は少しだけ返答を失った。
できるかできないかで言えば、できる。そう訓練されてきた。けれど、空腹が当たり前だっただけで、正しいと思ったことは一度もなかった。
「……できるようにされていました」
私がそう言うと、エイドリアンはそれ以上聞かなかった。
代わりに、肉の皿をこちらへ寄せる。
「先に食え」
「伯爵様の前で」
「今さらだろう」
不器用なのに、拒みにくい人だ。
私は薄く笑って、一口だけ食べた。塩気は控えめで、肉の火入れが絶妙だった。
「美味しいです」
「そうか」
それだけなのに、なぜか空気が柔らかくなる。
「伯爵様は、食事へ毒が混じるようになってから、ずっと一人で?」
「大勢で食うより、問題が少ない」
「寂しくは」
「効率の話をしている」
切り返しは冷たい。けれど否定の仕方が少し早い。
そこで踏み込むのはやめた。代わりに私は皿の端を見つめる。
「王都では、食卓はいつも戦場でした」
ぽつりとこぼすと、エイドリアンがナイフを止めた。
「ここも似たようなものだ」
「そうかもしれません。でも」
私はパンをちぎった。
「戦場でも、同じ側の人と食べるなら少しは違います」
沈黙が落ちる。
長かった。けれど嫌な沈黙ではなかった。
やがてエイドリアンが言う。
「なら、今後も同じ側で食え」
その一言が、驚くほど胸に残った。
食後、下がろうとしたとき、マルタが私へ小さな木箱を渡してきた。
「伯爵様からです」
中には、新しい銀匙と小型の封蝋印が入っていた。持ち手には、港を模した波の紋章。
蓋の裏に短く刻まれている。
『食卓管理権限 リディア』
私は箱を見つめたまま、しばらく動けなかった。




