第35話 婚約披露の前菜
港祭の献立を決める夜、厨房には妙な静けさがあった。
前菜は香草パンと白身魚の燻製、温菜は豆と春野菜の煮込み、締めに澄んだ魚介スープ。派手ではないが、素材の良し悪しが誤魔化せない料理ばかりだ。
「まるで試験ですね」
私がメニュー札へ書き込むと、エイドリアンが隣で答えた。
「そのつもりだ」
「商人たちへの?」
「いや」
彼は少しだけ間を置く。
「私のほうだ。祭の席で、君を婚約者として紹介したい」
手が止まった。火にかけた鍋の音だけが小さく響く。
「今、このタイミングで?」
「今だからだ。君の居場所を、誰にも曖昧にさせたくない」
胸の奥が熱くなる。王都では、私はいつも誰かの都合で立場を決められた。けれどこれは違う。押しつけではなく、確認だ。私が望むかどうかを待つ、前置きのある言葉だ。
「ひとつ条件があります」
「聞こう」
「祝福より前に、料理の検品を終えること」
エイドリアンの口元がわずかに緩む。
「それが君らしい」
「もうひとつ。紹介されるのは、飾りではなく仕事をしている私です」
「もちろんだ」
そこでやっと、私はうなずいた。
「では前菜の次くらいでお願いします。空腹すぎる人たちは、人の話を聞きませんから」
低い笑い声が返る。鍋の蓋を持つ私の手元には、まだ少しだけ震えが残っていた。けれど嫌な震えではない。明日の席で、自分の名前を自分の意思で受け取れる。その予感だった。




