第3話 海風の屋敷と冷たい伯爵
食堂の前には、すでに人だかりができていた。
「下がってください!」
私が割って入ると、床に膝をついた若い給仕が喉を押さえていた。二十代半ばくらいの男性だ。皿は割れ、白身魚のソースが石床に広がっている。
「味見をしたの?」
「は、はい……旦那様の前に、私が……」
息はある。だが瞳孔が開き気味で、指先が細かく震えている。即死性ではない。量も少ない。けれど時間が経てば痙攣が強くなる。
「塩水を。できればぬるま湯で薄く」
近くの侍女へ指示し、私は床に落ちたソースを指でほんの少しだけすくった。舌先に触れるか触れないかで止める。
海藻の旨味の奥に、鉄みたいな渋み。
「青影草です」
聞き慣れない低い声がした。
「その根を焼くと、そういう顔になる」
見上げると、食卓の奥に男が立っていた。
三十二歳のエイドリアン・ヴァルトは、噂どおり愛想のない顔をしていた。灰青の目、日に焼けた肌、癖のない黒髪。質素な濃色の上着を着ているのに、一歩立つだけで部屋の温度が変わるような人だ。
「ご存じなら、なおさら台所を止めてください」
「止めた。今、誰も火に触れさせていない」
短く答えたあと、彼は私を見た。
「王宮から来た毒見役か」
「リディア・フェルナーと申します」
「到着早々、働く気はあるらしい」
「採用されるなら、ですが」
青い目が細められる。試すような沈黙が落ちた。
そこへマルタが戻ってきて、塩水を受け取った私は給仕に少しずつ飲ませる。吐き気を誘い、舌を洗わせる。息が浅くなるのを確認しながら背を支えると、給仕はどうにか胃の中身を吐き戻した。
「医師を」
侍女が走る。
私は立ち上がり、割れた皿の欠片を見た。毒は魚身ではなく、仕上げの緑のソースに混じっている。しかも全体ではなく、表面の一部だけ。見つかりにくく、しかし確実に最初の一口へ入る量。
「台所に案内を」
言った直後、エイドリアンが口を開いた。
「証明できるか」
「できます。ソースに混ぜたなら、調理器具より、最後に振った塩壺か香草皿に痕が残っているはずです」
「外れたら?」
「その時は今すぐ帰ります」
少しだけ、彼の口元が動いた。笑ったわけではない。ただ、興味を持たれたのだとわかった。
「いいだろう。マルタ、同行を」
厨房は張りつめていた。料理長ヨナス、五十を過ぎた大柄な男が、赤い顔で怒鳴る。
「うちの料理に難癖をつける気か」
「難癖ならよかったのですけれど」
私は並べられた器具を順に見た。大鍋、包丁、香草桶、塩壺。問題は、毒が最後に混ぜられたかどうか。
香草皿の端に、青い粉が爪の間ほど残っていた。
「これです」
指で示すと、マルタが布越しに皿を取り上げる。私は銀の毒見匙を軽く当てた。表面が鈍く曇る。
「青影草の粉末。魚全体ではなく、最後に塗った香草の層へ混ぜてあります」
ヨナスが息を呑んだ。
「そんな、俺は……」
「料理長が自分でやったとは限りません」
私は皿の並びと調味棚を見回した。塩壺だけが、ほかより少し手前に出ている。誰かが急いで戻した位置だ。
「伯爵様」
振り返る。
「これは一度きりではありません。狙われているのは食堂そのものです。もし雇ってくださるなら、私は台所と配膳の流れを一から洗います」
エイドリアンはしばらく黙っていた。
やがて、食堂の長卓へ視線を移す。倒れた給仕は医師へ運ばれ、割れた皿は片づけられつつある。なのに、食事の時間だけが空白のまま残っていた。
「条件を言え」
「食材庫、台所、配膳表、使用人名簿の閲覧権。それから、私の判断で食卓を止める権限を」
「大きく出るな」
「命を守る仕事ですので」
潮風が窓を叩く。
エイドリアンは一度だけ頷いた。
「採用だ、リディア・フェルナー」
その言葉に安堵しかけた瞬間、彼は続けた。
「ただし今夜の食事は別だ。代わりの皿を作らせる。お前がそれを見て、食えると言うまで、私は何も口にしない」
私は息を止めた。
試験は、まだ始まったばかりらしい。




