第2話 辺境伯からの招聘状
王宮の私室へ戻ったのは、夜が白み始めるころだった。
大きな荷物はない。毒見役に許される私物など多くないし、婚約者の屋敷へ移る準備も、結局最後まで進まなかった。箱に詰めたのは、実用書と替えのドレス数枚、師匠から譲られた銀の毒見匙だけだった。
机の上で、黒い蝋印の封書を開く。
差出人は辺境伯エイドリアン・ヴァルト。三十二歳。北西の港町ゼファールを治めるヴァルト家当主。王都では「無愛想で冷酷」「戦でしか笑わない」と好き放題に噂されていた。
だが手紙の文面は驚くほど簡潔で、無駄がなかった。
王都から来る食材と贈答品に不審が多いこと。過去三か月で、食後に倒れた使用人が三人いること。表沙汰にせず原因を探れる人材が必要なこと。待遇は相談のうえ決めること。
最後に、こうあった。
『使い潰されるためではなく、力を使うために来てほしい』
その一文を、私は二度読んだ。
そんな誘い方をされたのは初めてだった。
朝の鐘が鳴る少し前、私は退職届と王宮の身分証をまとめて提出し、北門から外へ出た。侍女たちの好奇心まじりの視線も、衛兵の胡乱な目も、振り返らなかった。
王都の空気はいつも香料と石畳の熱を含んでいる。けれど城門を抜けて馬車へ乗り込んだ瞬間、その重さがようやく身体から剥がれた気がした。
「ゼファール行きで間違いありませんか、お嬢さん」
御者の確認に頷く。
「はい。できるだけ急ぎで」
馬車が動き出す。
揺れに身を任せながら、私は昨夜のことを反芻した。怒りはある。悔しさもある。けれど不思議と涙は出なかった。泣くには、レオンを大切に思いすぎていたのかもしれない。
今はもう、使い道を失った刃物を捨てたような感覚に近い。
三日後、ゼファールへ着いた。
潮の匂いが濃い。王都の整った白壁とは違い、ここは風に削られた石と赤茶の屋根が並ぶ港町だった。荷馬車が行き交い、船乗りたちが怒鳴り合い、魚と香辛料の匂いが混ざる。
生きている場所の匂いがした。
迎えに来たのは、濃紺の外套を着た四十代半ばの女性だった。背筋がまっすぐで、海風にも乱れない灰色の髪をきっちりまとめている。
「リディア・フェルナー様ですね。ヴァルト辺境伯家筆頭侍女のマルタと申します。お迎えに上がりました」
「わざわざありがとうございます」
「歓迎の言葉は、採用が決まってからにいたします」
厳しい声だったが、不思議と嫌味はない。私は少しだけ口元を緩めた。
「ええ。そのほうが健全です」
マルタの眉がわずかに上がる。どうやら試されたらしい。
辺境伯邸は、港を見下ろす高台にあった。華美ではない。けれど堅牢で、潮風に耐えるためか窓も扉も分厚い。館へ入った途端、鼻の奥に微かな違和感が刺さった。
燻製香の下に、乾いた苦み。
私は足を止める。
「どうかされましたか」
「今夜の食事に、魚料理はありますか」
「ええ。伯爵様の晩餐に、香草を詰めた白身魚を」
喉の奥が冷えた。
「それ、誰が味見しました?」
答えを聞く前に、奥から食器の割れる音が響いた。
続いて、男の短い呻き声。
「案内してください」
私はマルタの制止を待たず、音のほうへ駆け出した。




