表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/20

第2話 辺境伯からの招聘状

王宮の私室へ戻ったのは、夜が白み始めるころだった。


 大きな荷物はない。毒見役に許される私物など多くないし、婚約者の屋敷へ移る準備も、結局最後まで進まなかった。箱に詰めたのは、実用書と替えのドレス数枚、師匠から譲られた銀の毒見匙だけだった。


 机の上で、黒い蝋印の封書を開く。


 差出人は辺境伯エイドリアン・ヴァルト。三十二歳。北西の港町ゼファールを治めるヴァルト家当主。王都では「無愛想で冷酷」「戦でしか笑わない」と好き放題に噂されていた。


 だが手紙の文面は驚くほど簡潔で、無駄がなかった。


 王都から来る食材と贈答品に不審が多いこと。過去三か月で、食後に倒れた使用人が三人いること。表沙汰にせず原因を探れる人材が必要なこと。待遇は相談のうえ決めること。


 最後に、こうあった。


『使い潰されるためではなく、力を使うために来てほしい』


 その一文を、私は二度読んだ。


 そんな誘い方をされたのは初めてだった。


 朝の鐘が鳴る少し前、私は退職届と王宮の身分証をまとめて提出し、北門から外へ出た。侍女たちの好奇心まじりの視線も、衛兵の胡乱な目も、振り返らなかった。


 王都の空気はいつも香料と石畳の熱を含んでいる。けれど城門を抜けて馬車へ乗り込んだ瞬間、その重さがようやく身体から剥がれた気がした。


「ゼファール行きで間違いありませんか、お嬢さん」


 御者の確認に頷く。


「はい。できるだけ急ぎで」


 馬車が動き出す。


 揺れに身を任せながら、私は昨夜のことを反芻した。怒りはある。悔しさもある。けれど不思議と涙は出なかった。泣くには、レオンを大切に思いすぎていたのかもしれない。


 今はもう、使い道を失った刃物を捨てたような感覚に近い。


 三日後、ゼファールへ着いた。


 潮の匂いが濃い。王都の整った白壁とは違い、ここは風に削られた石と赤茶の屋根が並ぶ港町だった。荷馬車が行き交い、船乗りたちが怒鳴り合い、魚と香辛料の匂いが混ざる。


 生きている場所の匂いがした。


 迎えに来たのは、濃紺の外套を着た四十代半ばの女性だった。背筋がまっすぐで、海風にも乱れない灰色の髪をきっちりまとめている。


「リディア・フェルナー様ですね。ヴァルト辺境伯家筆頭侍女のマルタと申します。お迎えに上がりました」


「わざわざありがとうございます」


「歓迎の言葉は、採用が決まってからにいたします」


 厳しい声だったが、不思議と嫌味はない。私は少しだけ口元を緩めた。


「ええ。そのほうが健全です」


 マルタの眉がわずかに上がる。どうやら試されたらしい。


 辺境伯邸は、港を見下ろす高台にあった。華美ではない。けれど堅牢で、潮風に耐えるためか窓も扉も分厚い。館へ入った途端、鼻の奥に微かな違和感が刺さった。


 燻製香の下に、乾いた苦み。


 私は足を止める。


「どうかされましたか」


「今夜の食事に、魚料理はありますか」


「ええ。伯爵様の晩餐に、香草を詰めた白身魚を」


 喉の奥が冷えた。


「それ、誰が味見しました?」


 答えを聞く前に、奥から食器の割れる音が響いた。


 続いて、男の短い呻き声。


「案内してください」


 私はマルタの制止を待たず、音のほうへ駆け出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ