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第1話 退職届と毒の杯

王宮の夜会は、昔から嫌いだった。


 磨き上げられた銀器も、蜂蜜色のシャンデリアも、甘い弦楽器の音も、私にとっては全部同じ意味しか持たない。誰かが口に入れる前に、私が毒を確かめるための場所だ。


 二十七歳の王宮毒見役、リディア・フェルナー。


 それが私の肩書きで、同時に、婚約者のレオン・ハードウィックにとって都合のいい便利道具でもあった。


「遅いわ、リディア」


 金糸の刺繍が眩しい深紅のドレス姿で、セレスティーヌ・アルヴェが扇を揺らした。二十九歳。最近になって急に夜会へ顔を出すようになった伯爵未亡人で、今はレオンの愛人だと、王宮では知らない者のほうが少ない。


「申し訳ありません。温菜の確認が長引きました」


「言い訳はいいの。白葡萄酒を先に見てちょうだい。レオン様が心配しているの」


 私の婚約者が、愛人の杯を心配している。


 もう何度も見た光景なのに、胸の奥は慣れてくれなかった。


 私はセレスティーヌの前に置かれた細い脚の杯を受け取った。澄んだ黄金色。揺らす。香りを立てる。甘い果実香の奥に、ほんの少しだけ乾いた苦みが混じっていた。


 舌先に一滴だけのせる。


 次の瞬間、私は眉を寄せた。


 舌の奥に残る、痺れるような青臭さ。眠り花の根を乾かして砕いたときにだけ出る後味だ。量が多ければ呼吸を止める。少量でも、身体の自由を奪うには十分。


「お飲みにならないでください」


 私が杯を下ろした瞬間、セレスティーヌが目を丸くする。


「まあ。どうしたの?」


「毒が入っています」


 言い切ると、近くの会話がすっと止んだ。


 レオンが足早に寄ってくる。三十一歳。端正な顔立ちも、整った声も、昔は好きだった。今はもう、うまく磨かれた刃物にしか見えない。


「騒ぎにするな、リディア」


「騒ぎにしないために申し上げています。これは眠り花です。舌に残る痺れがあります」


 レオンは私の手から杯を取り上げ、ほんの少しだけ香りを嗅いだ。彼に味はわからない。けれど次に彼が浮かべた表情は、驚きではなく、面倒を押しつけるときのそれだった。


「……なるほど」


 そう言って、彼は周囲へ向き直った。


「申し訳ない。彼女が少し取り乱したようだ」


「レオン?」


「リディア、嫉妬はみっともないぞ。君がセレスティーヌに杯を渡す直前、持ち場を外していたことは侍女たちも見ている」


 耳の奥で何かが切れる音がした。


「私が、毒を?」


「違うなら、なぜ毒の名まで即座に言えた?」


「毒見役だからです」


「ならば、なおさら疑われる」


 苦しいほど静かな笑みを浮かべて、レオンは続けた。


「王宮で働く婚約者として、私は君を信じたかった。だがセレスティーヌを危険にさらす真似は見過ごせない」


 信じたかった。


 その言葉が、今夜いちばん白々しかった。


 周囲の貴族たちがざわつく。視線が刺さる。けれど私の頭は、かえって冷えていった。


 ああ、この人は最初からこうするつもりだったのだ。


 愛人の盾に私を使い、何か起きたら全部かぶせる。毒見役は毒に詳しい。だからこそ、犯人に仕立てやすい。


「杯はそのまま保全してください」


 私はレオンではなく、給仕長に言った。


「銀盆ごと封を。温度が落ちる前なら、薬草係でも成分を拾えます」


 給仕長が戸惑いながらも頷く。その横から、年老いた宮廷執事ヒューゴが一歩出た。


「その通りにいたします」


 八つ当たりのように、レオンが舌打ちを飲み込む。


「ヒューゴ殿」


「証拠を残すのは当然でしょう、レオン様」


 その一言で、今度はレオンのほうが黙った。


 私は胸の前で手を重ね、静かに頭を下げた。


「王宮毒見役リディア・フェルナー、本日をもって辞職いたします」


「何を勝手に」


「勝手で結構です。婚約も解消してください。愛人の毒見まで務める婚約者は、私は今日で終わりにします」


 セレスティーヌが小さく息を呑む。レオンは顔色を失い、それでもすぐに取り繕った。


「……出て行くなら好きにしろ。どうせ君は、王宮の外で生きていけない」


 その言葉で、未練がきれいに消えた。


 私は一礼し、夜会の広間を後にする。扉が閉まる直前、背後でヒューゴの低い声が聞こえた。


「リディア殿、こちらを」


 差し出された封書には、見慣れない黒い蝋印が押されていた。


「辺境伯エイドリアン・ヴァルト様から、経験ある毒見役を求める打診です。あなたが王宮を去る日が来たら渡してほしいと、以前から預かっておりました」


 私は封書を見つめた。


 王宮を去る日が来たら。


 どうやら、今夜はずっと前から決まっていたらしい。

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