第29話 消えた香草箱
証拠品の倉庫で、香草箱がひとつ消えたのはその夜だった。
見張り番は眠っていない。鍵も壊されていない。それでも、青い封蝋のついた小箱だけが棚から抜かれている。代わりに残されていたのは、同じ大きさの空箱だった。
「証拠を狙ってきましたね」
私が床へしゃがみ込むと、足元に乾いたフェンネルの種が数粒落ちていた。盗まれた箱には入っていない香りだ。つまり、犯人はほかの荷を運んでいた手で箱を触った。
外へ出ると、夜露の石畳に細い車輪跡が残っている。荷車は軽い。大きな盗賊団ではなく、雇われ一人仕事の跡だ。
跡を追った先は、港外れの貸し馬車小屋だった。中にいたのは三十五歳ほどの運び人で、私たちを見るなり腰を抜かした。
「頼まれただけなんだ! 青い蝋の手紙が来て、あの箱だけ運べば銀貨五枚だって……」
「誰から」
「顔は知らない。倉庫裏に置かれていたんだ」
馬車の座席下から、盗まれた箱はすぐ見つかった。開封もされていない。中身より、封蝋そのものが必要だったのだろう。
エイドリアンが男を兵へ引き渡す間、私は箱を抱え直す。証拠が狙われるということは、こちらの追跡が効いている証拠でもある。
「怖くはないか」
戻り道でエイドリアンが問う。私は少しだけ考えた。
「怖いです。でも、昔よりは」
「なぜだ」
「今は、怖いと言っても誰かが黙らせませんから」
月明かりの下、彼の表情が静かに和らいだ。王宮では、恐怖は弱みだった。ここでは、対策を増やす理由になる。それだけで、立っていられる。




