第10話 元婚約者は辺境まで追ってくる
「やあ、リディア」
夜の港に似合わない、磨き抜かれた声だった。
レオンは王都にいた時と同じように完璧な身なりで、焦げ臭い空気の中へ降り立つ。上等な外套の裾が泥に触れるのも気にしていない。つまり、ここへ来る目的はかなり明確なのだ。
「どうしてここに」
「君を迎えに来た」
即答だった。
ヘレナが一歩前へ出る。
「不審者なら縛るぞ」
「私は王宮内務局の補佐官だ。辺境伯に面会権がある」
「港の焼け跡でやる話か?」
棘のあるやりとりを制したのはエイドリアンだった。
「続きは屋敷で聞く」
応接室へ移ると、レオンは持参した書状を広げた。内務局の印はたしかに本物だ。だが内容は曖昧で、「事件再調査への協力要請」としか書かれていない。
「君が戻れば穏便に済む」
彼は私だけを見て言う。
「穏便に?」
「夜会の件も、妙な噂もだ。王都ではすでに、君が感情的になって持ち場を放棄したという話が出ている」
「ずいぶん都合のいい噂ですね」
「だから私が止めると言っている」
私はしばらく黙って彼を見た。
昔、この人のこういう顔を見ると安心した。全部うまく収めてくれる大人の顔だと信じていた。今は違う。彼が守ろうとしているのは、自分にとって都合のいい形だけだと知っている。
「では一つだけ教えてください」
「何だ」
「夜会の杯、鑑定しましたか」
レオンの沈黙は、答えそのものだった。
「していないのですね」
「無駄な手間だ。犯人が誰かは――」
「決まっているから?」
私が遮ると、彼の目が冷えた。
「君は変わったな、リディア」
「ええ。ようやくです」
レオンはため息をつく。
「辺境で妙な自信をつけたらしい。だが忠告しておく。セレスティーヌ様を敵に回すのは愚かだ」
その名前が出た瞬間、部屋の空気がさらに冷たくなる。
私は彼の言葉より、纏っている香りへ意識を向けた。
甘い。
海蜜花の香油だ。港のサヴァラン商会で強く漂っていたものと同じ匂い。
やはり繋がっている。
「セレスティーヌ様、ですか」
「口の利き方に気をつけろ」
「愛人に毒見役を押しつけた婚約者が、今さら礼儀を求めるのですね」
レオンの頬がわずかに引きつる。
その時、エイドリアンが静かに口を開いた。
「私の雇員に対して、その話し方はやめてもらおう」
低い声なのに、部屋全体が止まる。
レオンはようやくエイドリアンへ向き直った。
「辺境伯、これは王宮の問題です」
「違うな。港湾密輸と食事への毒混入が王都と結びついているなら、これは私の領地の問題だ」
真っ向から言い返されると思っていなかったのだろう。レオンは一瞬だけ表情を失った。
「証拠でも?」
「集めている最中だ」
「集まる前に、あなたの雇員は王都へ連れて行く」
「断る」
即答だった。
私は息を吐く。
王都では、こんなふうに私の言葉へ先回りして、守るための拒絶をしてくれる人はいなかった。
レオンは立ち上がり、私へ最後の視線を投げた。
「後悔するぞ、リディア」
「もう十分しました」
それだけ返すと、彼は何も言えなかった。
扉が閉まったあと、しばらく誰も口を開かない。
やがて私は小さく笑った。
「あの人、海蜜花の香油を使っていました」
ノエルが身を乗り出す。
「サヴァラン商会と繋がってる?」
「可能性は高いです。少なくとも、あの店を知らない匂いではありません」
エイドリアンが頷く。
「なら次は夜会だ。商人たちを集める」
「餌を撒くのですね」
「食いつくと思うか」
私は、まだ残る甘い香りを思い出した。
「ええ。今度は私が、毒の入る前に食卓を見ていますから」




