第十六話 夢
空を仰ぐ。
―――ああ。曇り空、だ。
眼前に広がるのは、厚い雲に覆われた空。結界によって分かたれた、窮屈な空。
―――あの時も、こう、だったなぁ。
悔しさに心潰された、あの時。
―――それは、それは…………嗚呼。思い出せないなぁ。
嫌な過去にいつまでも囚われては、いけない。でも―――。
―――悔しいなぁ。憎いなぁ。
あの時湧き上がってきた、この感情だけは今も覚えている。
私は、とにかく負けず嫌いだった。何事にも負けるのが嫌だった。誰が相手であっても、容赦と言う選択肢は存在しなかった。誰であっても加減はしない、常に全力で、どんな手段を執ってでも、勝つ。これが私だった。
この時も、そうだ。
デブ男とチビガキの魔法使い。ああ、コイツらも格下だ。ちっちゃくて、醜くて、弱い奴…………。だと思ってたのに………。
今、こんな格下に、負けた。
実力も、運も、全てにおいて私よりも明らかに劣ってるのに、負けた。
『嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくない。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。ああ、ああああああああ――――』
まだだ、まだいける。まだ立てる。まだ戦える。まだ意識はある。まだ闘志がある。消えてない。消させない。負けなんて認めない。認めさせない。絶対に勝つ。勝ってやる。殺してやる。焼いて切り刻んで沈めて呪って、殺してやる。ああ、そうだ。ウチはこうして生き甲斐を得るのだから。弱い生き物は、強者に踏み潰される。ウチは強い、だから弱いモノを自由に出来る―――。それこそ、勝者だけに許された褒美。それこそ、勝者の特権。そして、ウチこそ勝者―――――!
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ペトナの放った一撃は、正確にエクーネの胸を穿った。風穴が空き、臓器を抉り取り、そして貫いた。こうしてエクーネは血肉を撒き散らしながら膝から崩れ落ち、絶命した。と、誰しもが思った。
「―――――っ!マジ、かよ……」
力無く臥せるヴァイロフの目の前で、あり得ない事が起きる。にわかには信じがたい事が―――。
風穴の空いた胸。
確かにその一撃は、背骨をも破壊した。
だが、ソレは再び起き上がり、立ったのだ。
心臓も肺も脊椎も無い筈なのに、ソレはまだ戦いを選んだ。
ソレの目からは、果てることの無い憎悪と殺意、闘志が有る。
「―――――」
ソレは、一言も放つこと無く、朽ち果てた陣を展開する。もはや、原型さえ留めない陣。先程みせた歪な陣、それをも凌ぐ異形の陣。
「ヴァイロフ、撤退よ!撤た―――」
ペトナはそう言い終えることなく、ヴァイロフに力一杯しがみ付き、テレポートによる撤退を敢行する。
既に手負いのヴァイロフをカバーしながらの戦闘は、不可能だ。
対峙する彼女も相当なダメージを負っている。筈なのに、彼女はより一層、激しさを増している。
趨勢は、明らかにあちらに決している。
「何処でもいい!テレポート………!」
そうして、彼女の前から、二つの動く肉塊は姿を消した。敗者に相応しい、惨めな撤退。今、彼女の心には、何事にも代えがたい愉悦がある。弱者を甚振り、殺す。彼女の癖は極地へと達した。
「―――――」
殺せなかった。ああ、イライラする。また逃げられた。でも、また奴らは戦いに来る。今度は、脚を狙おう。一撃で殺っちゃったら、面白くない。そしたら次は、魔臓を潰そう。魔法を封じたら、もう逃げられない。
「―――――」
テレポートは完璧な魔法じゃない。魔法単体だと、とても使い物にならない。予め目的地にアンカーの設置が必要になる。とすれば、ある程度目的地を絞ることが出来る。
彼女、エクーネは覚束ない足取りで高楼の端へと向かい、躊躇いなく飛び降りる。どう着地するか、そんなことなど考えてもいない。只本能のままに、飛び降りた。本来の目的である心のアンカーの処理の遂行の為に。
既に別に行動している部下が居る。まずは、それとの合流を目指す。
「―――――」
一歩、二歩、三歩…………。覚束ない足取り、ふらつく視界。なぜ生きているのか、彼女にさえ解らない。負けたくないと言う信念なのか、はたまた呪いなのか。
怒りは無い。哀しみも無い。先程まであった愉悦も無い。無い無い無い無い。
空っぽの心に、もう一度。もう一度あの快感を、あの愉悦を、あの優越感を。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
――少し遡り――
「始まったか………」
中央区で戦の火蓋が切られる。
感じられる魔力が増大し、誰かが結界を飽和する。
「少しは耐えてくれよ。こっちも余裕は無いからな。死ぬなよ………」
遠方から微かに聞こえる戦闘音以外、何も無い。静けさに包まれる夜の西部地区を、奏は一人突き進む。目的は、無論北部の白霧の正体について調べること。と最愛の姉の居場所を掴むこと。
「――――ほっ!」
背の高さはある塀を難なく飛び越え、大通りを走り抜け、聳え立つ工場の煙突を通り過ぎ、北部地区の末端、白霧の境目まで辿り着く。
「ふぅ、着いたな―――」
吹き荒れる霧の嵐。だが、風を感じられない。無風ではないが、これ程の霧を廻す力は無い。
「チッ、気味が悪いな……うん?―――」
霧の向こう側。微かに影として映る禍々しい高楼。乱雑に建てられたそれは、今まで見れなかった。ここに来て、観測が出来たのだ。
「―――魔力の、塊なのか?それとも、いや、魔恐か?―――………」
唖然とし、天高く見上げる奏。霧の境界、その先に広がる空白の世界。そして、白を侵す黒。この世界の常識など、とうに通用しない。
このメルググラードを覆う結界の中では、理不尽な死と、情け容赦の無い弱者の淘汰が繰り広げられる筈であった。部外者の送り込んだ殺戮兵器と純然たる呪いの物品によって。だが、違った。
「………――――くっ、気が狂う…なんだ、この感じ、は―――」
忽然と訪れる、心の不調。
上手く言葉に出来ない、気持ち悪さ。頭に濃霧がかかっては、消える。先程まであった信念はすっかり消え失せ、残るは強い失意のみ。
身体は動くが、動かしたくない。とにかく、動かすことが怠い。疲れる。面倒臭い。
「…………あれ?――――は?」
気付けば、奏は知らない場所に立っている。
「なんだよ、ざっけんなよ。く、そが―――」
どこか暖かくて、静かで、寂しくない場所。美しい景色に、美しい生命。澄み渡っている青い空に、透き通る深い海。雲が遠くを飾り、燦然と輝き、降り注ぐ陽射しが眼前に広がる野原を照らす。
「――ぐっうぅう」
不意に、腹の虫が鳴る。
草木生い茂る野原の真ん中に、奏は独り立っている。
そこには、見たことの無い生き物に見たことの無い建築物が点在している。
異世界とは、この事を言うのだろう。奏は、昔聞かされた噺の一部を再上映する。
『俺たちはな、異世界から来たんだ。すごいぞ、すごかったんだぞ!車、て言う箱が世界中にあって、皆がそれに乗っているか―――』
確か、男の若い転生者だった筈。何でも、トラック、と言うモノに轢かれたらしい。そうして気付いたら此処に居た、と。
『車なら、一応あるぞ。此処にも。皆が乗れる、って訳じゃないけど…………』
『へぇ、そうか。なら、俺のチート能力について教えてやるよッ!』
彼は、得意気だった。
自分の力じゃないのに、努力で掴み取った力じゃないのに、彼は自分だけの特別な力だと盲信していた。とても憐れで哀れで正直、こっちも恥ずかしくなってきた。
『そうだなぁ、多すぎて困るなぁー………』
あれ?脱線してしまったか。
俺は、異世界についてを思い出したかったのに………見知らぬバカアホの下らない夢まで思い出してしまった。
「………気分、悪いな。でも、不思議と気持ちいい…………なんでだろうな、何なんだろうな、俺って」
不要な感傷だと解っておきながら、つい耽ってしまう。変わらないなぁ。と思いつつ、この世界の探査に行こう。そう思い立つ。
「あれ?」
意欲が湧いてくる。失意の底だった筈が、今や希望と欲に心身を委ねている。自ずとこうなっていた。あれをしたい、これをしてみたい。なんて取るに足らない夢ばかり見ていた。
この世界の、全てを、愛したい。
この世界の、全てを、見てみたい。
この世界の、全てを、巡りたい。
昔、姉さんが言っていた言葉。まだ、あの時の姉さんは、幼かった。でも、見る夢は、誰よりも立派で誇らしいものだった。やっと叶ったと、思ったのに。
なんで、今?なんで、今それを、思い出したのだろう?
「おかしい、おかしい。 俺が、姉さんの夢を?意識の共有なんてカタログスペック上だけの筈。何故今になって!?」
「いや、違う。姉さんが、今も見ている夢だ。姉さんが、俺と繋がっている―――!」
イドの底から、繋がっている。
姉さんが、俺を掴んでいる。
この時、一つの嫌な仮説が、脳裏を過る。
この時、一つの悲しい事実が、裏付けられる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「むぅう?奏の反応が、消えたじゃとぉお!」
メルググラードの空に浮くエヴォイは、進める準備を止めて、存在すら消失した奏の全ての記録を探る。
「ぐぬぬぬぬ。ダブルタスクは出来んと言ったのに…………不覚なりぃぃ………―――」
そして、エヴォイは、今、最も恐れていた事態になったと、理解した。
「―――――あ」
この作戦。奏ありきで進んでいる。
奏は、ただその時まで隠れていればよかった。なのに、彼の存在が消えてしまった。それは、作戦の破綻を意味する。敗北と同義である。
「…………………」
言葉が出てこない。
今に相応しい言葉が浮かばない。
「…………ああ。そうだ。ヴァイロフたちに伝えなくては、な」
最早、何の感情も湧いてこない。
ここまで来ると怒りや焦りなどは無く、極めて冷静になってしまう。
魔道具を手に取り、魔力を送る。
魔道電話とは実に便利なものだ。相手の脳に直接伝えたいことを、自分の言葉で伝えられるのだから。
「………ああ。二人とも、大丈夫かな?余じゃよ余じゃよ」
ふざけることも出来てしまう。ヒトでも白エルフでも同じみたいだ。
「―――あん?大丈夫、だと思うか?」
怒りの混じったヴァイロフの返答。それもその筈、エクーネに身体を破壊されて、敢え無く撤退したばかり。悔しさの滲む、とても短い戦いであった。
だが、話さなくてはならない。
我々の失敗を。我々の敗北を。
「お、おう。すまない。じゃが、その………皆に伝えたい、事があるのじゃぁが―――」




