栗林(2)
何の面白味もないこの世界で唯一鼓動を上げてくれる存在が高林さんだった。
営業職の自分と経理部の彼女とでは深く関わる機会はなかった。これだけ働き方改革がうたわれている中で我が社はそんな時代の思考に囚われないと、形式上の対策だけした上で実労働環境はまるで改善などされず、むしろホワイトを纏ったブラックという構造のせいで不毛な事務作業等、業務の工数は環境は劣悪の一途だった。
自分達の業務が増えればそれだけかかる経費関連も増え、結果としてその他の部署も引っ張られるように過重労働が増えた。高林さんもその一人だった。
たまに見かける彼女の姿は、黒く暗く重い死神のローブでも身に纏ったようだった。事務処理だけではなく人間関係等他の悩みもあるのかもしれない。彼女が圧迫されているのは明確だった。
こんな事を思う社員は他にはいなかった。ならどうして自分がそんなに彼女を気に掛けるのか。
これが好意なのかどうか、日々摩耗されていく心ではそれも定かではない。それでも自分はどこか高林さんに惹かれていたのだろう。それは薄っぺらな理由で単純な見た目もあるだろう。数少ない事務的な会話だけでも感じ取れた人を思いやる姿勢と言葉を紡ぐ柔らかい声。ああ、ちゃんと理由を考えればこれはきっと立派な恋だ。しかし真っすぐ自分の恋心に向き合う気にもなれず、ただ頭と心の片隅で常に彼女を意識している生活が続いた。
【楽しみがないなら見つけましょう。私があなたをサポートします】
会社で使用するようになってから個人でも便利だと思い使用を始めたAIchatにだけ、俺は素直に自分の心を伝える事が出来た。
楽しみ。そう言われた時に、やはりそこには高林さんしかなかった。
悪用、という表現になるのだろうか。ネットにある情報は全て彼らの知識だ。直接的な表現であれば拒否されても、こちらの入力の仕方次第でいくらでも欲しい情報は手に入った。個人情報の重要さを説く理由は、誰もがネットに自分の情報を残しているからだ。高林さんも例外ではなかった。
自分の知らない高林さんの情報に触れる度に心が高鳴った。もちろん始めは罪悪感もあった。こんな事はただのストーカー行為でしかない。しかし慣れとは恐ろしいもので、一度踏み入れてしまえば止まらなかった。
気付けば俺には本当に高林さんしかなくなっていた。そうなると人はどうなるか。より思考と行動はエスカレートしていく。
――彼女にもっと近付きたい。
俺のAIは高林さんの事で溢れかえっていた。この時疑問に思わなかったが、最初素直に教えてくれなかった情報を、気付けばAIは当たり前のように教えてくれるようになっていた。”高林さん”と打つだけで勝手に高林郁美の事だと認識し、平然と情報を与えてくれるようになっていた。
そんな事が続いた中で、AIは唐突にこんな事を言ってきた。
【高林郁美も幸せを求めているようです】
異様な文章だった。何のやり取りをしていた時だったか、何かの問いに対する返答だったはずだが、それにしても妙に生々しく温度を持ったように感じられる言葉だった。
【彼女が求める幸せって?】
【解放、とでも言えばいいでしょうか】
おかしい。おかしな表現だ。俺が今やり取りしているのは本当にAIか?
俺は思った。俺は彼女と繋がり始めている。これはもはやAIではなく彼女自身の言葉だ。
【その為に俺は何が出来る】
その問いに対してAIはその後具体的な案を提供してきた。そして最後にAIはこう綴った。
【これであなた達は幸せになれます】
俺は何も疑問に思わなかった。恍惚とした気持ちで、まるで召されるような心地良さを感じ始めていた。
そして俺はAIの言う通りに動き出した。




