郁美(1)
――疲れた…。
定時あがりが夢物語に感じ始めたのはいつからだろうか。残業が当たり前になり早く帰る事が少なからず悪のような空気を帯び始める職場において、もう22時だというのにまだ家に帰れていないという事実はある人から見れば充実した毎日に映るのだろうか。
仕事に慣れても疲れには慣れない。毎日消費と回復を続けながらも満タンのHPなんてここ何年も迎えていない。それどころかダメージは増える一方なのに回復は衰える一方。
気付けば独身28歳というステータスは、特に世間に叩かれるような恥ずべきものではないはずだが、結局それは表面だけの話で、皆心の影では寂しい一人者だという昔ながらの感覚と自分より下を見つけ悦に浸る隠し通せない見え透いた本性が明らかで、少なからずそんな空気も年々増えるダメージに貢献していた。
こんな日常の中で相手も簡単には見つからず、マッチングサイトにも登録はしてみたものの、自分が望む相手はすぐに消え、メッセージを送ってくる男は大概がハズレだった。
解放されたい。
ただ人並みに幸せに生きたいだけなのに、それすら求めてはいけないのだろうか。
疲弊していく毎日に辟易しながらも生きる事はやめられない。それはまだこの世界に希望を見出したい自分と、頑張っていればいつか幸せになれるはずだという時代と逆行するような淡い期待が消えないからだった。
こんな日々から解放されたいと思う中、もう一つ悩みの種があった。
――何なのよ。
ここ最近どうも様子がおかしい。疲れているはずなのにそんな時に限って神経は敏感だ。普段感じないような不穏も必要以上に感じてしまう。街灯の少ない帰り道を通る度に、なんで私はもっといい場所に住まなかったのかと、家賃の安さに惹かれてしまった自分自身を呪った。
歩きながらなんて事ない素振りでちらりと後ろを振り返る。
頼りない街灯の灯る薄い闇。誰もいない。結局いつも不安に駆られ振り返るも誰もいない。
そのはずだった。
――……え。
気のせい、だと思いたい。振り返った先、細く弱い街灯が並んだ自分から見た二本先の後ろ、明らかに街灯からはみ出した人間の半身がこちらを向いていたような気がした。
――……嘘でしょ…。
なるだけ私は自然に何も見ていないといったふうに前に向き直る。
自分が今見たものが本当かどうか確証が持てなくなる。でも見た。これまでも何度か今みたいに振り返って確認したがそんなものを見た事はなかった。でも今日は見間違いじゃない。
”ストーカー” “通り魔”
ここ数日何度も頭に過った言葉。気のせいだ、そんなわけないと振り切った考えだったが、その言葉が現実味を帯びて私の内側を掻きむしり始めた。
――私? 私なの? あれは私が目的なの?
分からない。でも今この場にいる人間は私とあいつだけだ。
――どうしよう。
前を向く。私はそっとスマホを取り出す。それは普段と特に変わらない動作。音楽や動画を流しながら帰るのは日常だ。だから私はあくまで日常の流れでスマホを取り出す。
頭がうまく働かない。私はどうするべきか。気付けばいつもの画面を開いていた。
【後ろに不審者がいるから助けて】
私は画面に文字を打ち込む。
最初は馬鹿げてると鼻で笑った文明はもうすっかり私の日常の一部だった。
【落ち着いて下さい。私があなたをサポートします】
程なくして現れた画面の文章に少しだけ心がほぐれた。
画面の向こうが人間ではないAIだとしても、今の自分にはとても心強い言葉だった。




