第3話 鑑定覚醒
野村澄子に電話をしたのは、その日の午前だった。
「あら、誠ちゃん。久しぶりだねえ」
「ご無沙汰しています。実は、隣のご実家のことで相談があって」
「家? ああ、あの家ね。姉さんとも話してたの。どうにもならない家だって」
「一度、中を見せていただけませんか。査定の仕事をしていた者として、放っておけなくて」
電話の向こうで、澄子が笑った。
「査定ねえ。値段なんて付かないよ、あんな家」
「値段は後です。まず、家の状態を正直に知ることが先だと思います」
午後、姉の圭子も交えて、施設の面会室で三人で話した。圭子は七十四歳、澄子は七十一歳。姉妹は顔を見合わせて、圭子が口を開いた。
「誠ちゃんがそこまで言うなら、見てちょうだい。鍵は澄子が持ってる」
「ありがとうございます。勝手なことはしません。見たことは、全部正直にお伝えします」
「それで十分。あの家、嘘をついて売る気はないの」
澄子から鍵を受け取り、誠一は一人、野村邸の玄関に立った。鍵を開けて扉を引くと、九年分の湿った空気が流れ出てきた。
「失礼します」
誰もいない家に声をかけて、一歩入った、その瞬間だった。
視界の端が、滲んだ。いや、滲んだのではない。家の輪郭の上に、何かが重なって見えた。玄関から続く廊下の先、階段とは別の「降りていく構造」が、薄い線画のように浮かんでいた。
「……なんだ、これは」
誠一は目をこすった。線画は消えない。頭の中に、情報が直接流れ込んでくるような感覚があった。
――三階層。核は地下にある。最下層の中心は、この家の台所の真下。
「台所……」
そして断片も見えた。若い頃の姉妹らしい影が、台所で笑いながら何かを作っている、古い残像のような映像。すぐに薄れて消えた。
誠一はその場に立ち尽くした。発現――ダンジョンのある世界で、まれに人が得るスキル。だが自分のそれは戦うためではなく、家を見るためのものだった。
玄関を出て、誠一はその足で姉妹に報告に戻った。
「お二人にお伝えします。告知事項は、正直に言いましょう。その上で、値段の付け方です」
「誠ちゃん、どうしたの。顔色が」
「あの家には、ダンジョンができています。地下に三階層。中心は、台所の真下でした」
圭子の顔から笑みが消えた。
「ダンジョン……あの家に」
「はい。だから普通には売れません。ただ、攻略して、住む人が決まれば、核は消えます。素材は公的に買い取られて、修繕費になります」
「誠ちゃん、そんな話、信じろって言うの」
澄子はそう言いながら、姉の手を握っていた。誠一は手帳を開いて、見えた構造を図に描いて見せた。
「信じられないなら、プロの探索者に確認してもらって構いません。ただ、放っておけば深くなります。許可をいただければ、私が段取りをします。報酬は、成約のときだけで結構です」
長い沈黙のあと、圭子が口を開いた。
「……台所、ね。あの家の一番の場所だよ。そこで決着がつくなら、悪くない」
「姉さん」
「やりましょう、誠ちゃん。あの家を、嘘のない形で終わらせたいの」
誠一は深く頭を下げた。失業保険の残りは、四十六日。その内側で、彼は最初の仕事を自分で作ったのだった。
帰る前、澄子がもう一度だけ呼び止めた。
「誠ちゃん、一つだけ聞いていいかい」
「なんでしょう」
「あんた、会社はどうしたの。平日の昼間に、こんな田舎まで来られる仕事じゃなかったろう」
誠一は一瞬、言葉に詰まった。だが、この姉妹には嘘をつきたくなかった。家について正直に言うと決めた男が、自分のことに嘘をつくわけにはいかなかった。
「……辞めさせられました。AI査定に仕事を取られて」
「あら」
圭子が目を丸くした。澄子は少し黙って、それからゆっくり言った。
「そうかい。じゃあ、あんたも行き場をなくした口だね」
「え」
「あの家と一緒だよ。値段が付かないって言われた者同士。……だからあんたに見てほしいのかもね、私たち」
「澄子さん」
「報酬のことは心配しなくていい。あんたが言う通り、成約のときで。ただ、一つ約束して」
「はい」
「危なくなったら、すぐやめること。家のために人が傷つくのは、私たち、本望じゃないから」
「約束します。撤退の判断は、私がします」
圭子が車椅子の上から、小さく手を振った。
「台所によろしくね。あの台所、人が集まるのが好きな場所だったから」
帰りの電車の中で、誠一は手帳の新しいページを開いた。野村邸、空き家歴九年、三階層、ボスは台所。書き終えて、彼はページの隅に一行添えた。
――依頼人の条件:人を傷つけないこと。
それが、彼が自分で作った最初の仕事の、最初の告知事項だった。
翌日、誠一は朝から実家の居間で、見取り図を清書していた。鑑定で見た線画を、他人に渡せる資料にする作業だ。線一本の意味を言葉で添え、危険な場所には印をつけ、分からない場所は分からないと書く。手順は営業時代の査定書作りと同じ。違うのは、今回の読み手が会社ではなく一人の探索者だということだった。
房江が覗き込んだ。
「誠一、それがあの家の図面かい」
「ええ。地下の構造を、姉妹にも探索者にも分かる形にしています」
「地下だなんて、本当にあるのかい」
「あります。だからこそ、嘘のない図が要るんです」
正一が新聞を置いて言った。
「昔、配達で回ってた頃は、この辺りの家はみんな表から裏まで読めたもんだ。今は空き家が増えて、家の顔が分からなくなった」
「だから、読める人間が要るんです」
「お前がその一人になったってわけだ」
誠一はペンを止めた。父の言葉は大げさだったが、嫌ではなかった。
昼前に澄子から電話があり、探索者を探す段取りに入る許可も改めて確認できた。
「誠ちゃん、探索者さんには、台所のことをちゃんと伝えてね」
「もちろんです。危険も含めて、全部伝えます」
「姉さんも言ってた。『あの家の一番大事な場所だから、最後は一番いい形で』って」
「一番いい形で、終わらせましょう。終わりではなく、次に住む人へ渡す形で」
電話を切って、誠一は図面の最後に依頼人の言葉をそのまま書き添えた。査定書の余白に依頼人の声を残す――AIの出す紙にはないものだった。
夕食の席で、房江が心配そうに聞いた。
「誠一、地下だとか、危ないんじゃないのかい」
「危険はあります。だから一人では入りません。探索者の方と組みます」
「お前が戦うんじゃないんだろうね」
「私は戦いません。武器も持ちません。地図を渡して、危なくなれば止める。それが私の役割です」
正一が頷いた。
「昔から、お前は体より頭の方が向いてたからな」
「父さん、それ、褒めてますか」
「褒めてる。役割が分かってる人間が一番強い」
房江はまだ不安そうだったが、味噌汁をよそいながら言った。
「姉妹のためにも、無事に終わらせておくれ」
「はい。正直に伝えて、正直に進めます」
食卓の明かりの中で、誠一は明日の募集の文面を組み立てた。条件も家のことも、正直に書く。その文面に応えてくれる探索者がいるかどうかは、まだ分からなかった。
清書した見取り図は、三階層の降りていく構造と、地上の間取りを一枚に重ねたものになった。一階層目は元の家の基礎の形を、二階層目は二階の部屋割りを引き写したようになっていて、最下層の中心に、台所の真下の丸い空白があった。家がそのまま地下に沈んでいくような図だった。誠一はその空白を、まだ塗りつぶさなかった。ボスの部屋は、最後まで自分の目で確かめる場所として残しておきたかった。
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