第2話 帰省
新幹線と在来線を乗り継いで、実家の最寄り駅に着いたのは夕方だった。迎えに来ていた父・正一が、軽トラックの窓から手を振った。
「おう、痩せたな」
「父さんこそ、腰は大丈夫なのか」
「年寄りの腰だ。騒ぐほどのことはない」
家に着くと、母の房江が玄関まで出てきた。
「おかえり。急に帰るなんて言うから、何かあったのかと思ったよ」
「たまには帰らないと、と思ってな」
失業した、とは言えなかった。十五年勤めた会社を朝のチャット一通で切られたなど、台所で包丁を動かす母に告げるには、まだ早かった。
夕食の食卓で、正一が言った。
「仕事の方は、相変わらず忙しいのか」
「まあ、それなりに」
「無理はするなよ。お前は昔から、抱え込むたちだ」
「分かってる」
房江が味噌汁をよそいながら、ふと窓の外を見た。
「そういえば誠一、隣の野村さんの家、まだ空いたままだよ」
「九年、でしたっけ」
「そうそう。圭子さんも澄子さんも、施設と娘さんのところでね。家だけが残ってる」
野村邸は、子どもの頃によく遊びに行った家だった。姉妹の笑い声と、台所から漂う煮物の匂いを、誠一は今も覚えている。
「管理は、どうしてるんですか」
「たまに澄子さんが掃除に来るけど、もう限界だって。この間、言ってたよ。売るにも売れない、壊すにも金がかかるって」
「空き家は、どこも同じだな」
「あんたの仕事みたいなもんだねえ」
誠一は箸を止めた。自分の仕事だったもの、とは言わなかった。
その夜。布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。隣の家の方角が、やけに気になった。雨戸の閉まった野村邸は、月明かりの中で黒く沈んでいた。
――コン、と音がした。
誠一は目を開けた。
「……なんだ」
耳を澄ますと、またコン。何かを叩くような乾いた音だった。台所の方角から聞こえる。子どもの頃に聞いた、まな板に包丁が当たる音に似ていた。
時計を見ると、夜中の二時を回っていた。台所に、誰かいるはずがない。あの家は九年間、空っぽなのだ。
翌朝、朝食の席で、誠一は切り出した。
「隣の家、夜中に音がしませんでしたか」
房江は首をかしげた。
「ああ、あれ。たまにするんだよ。風じゃないかって、澄子さんにも言ったんだけどね」
「風で、あんな規則正しい音はしませんよ」
「誠一、あんた、まさか」
正一が新聞から顔を上げた。
「気になるなら、澄子さんに電話して、見せてもらえばいい。勝手に入っちゃいかんぞ」
「分かってます。許可なしには入りません」
それは営業の鉄則だった。どんな空き家でも、権利者の許可なくして一歩も入らない。誠一は食卓の上で、スマートフォンの連絡先を探し始めた。九年ぶりの隣の家の、今の持ち主の番号を。
昼前、誠一は正一と二人で、野村邸の周りを外からだけ歩いて見た。入る許可はまだない。塀の外から見える範囲で、家の状態を確認するのが、今できる精一杯だった。
「この家はな、俺が郵便を配ってた頃から変わらんな」
「父さん、この辺りも担当だったんですか」
「ああ。野村さんの家は、郵便受けにいつも花が挿してあった。姉妹のどっちかがな、生けるんだ」
塀越しに見える玄関先は、草に埋もれかけていた。正一はしばらく黙って、それから言った。
「家ってのはな、人が出入りしなくなると、急に年を取るんだ」
「……分かります」
「お前の仕事は、その年取った家をどうするか、決める仕事だったんだろう」
「決めるのは持ち主です。俺は、状態を正直に伝えるだけです」
「それで十分立派だ」
誠一は雨樋の歪みと外壁のひびを目で追った。屋根の一部が沈んでいる。夜の音の正体は分からなくても、この家の傷みは本物だった。
「父さん、俺、澄子さんに電話します。中を見せてもらえるか、聞いてみます」
「そうしろ。ただし、無理に話を進めるなよ。高齢の姉妹なんだ」
「分かってます。決めるのは、あの人たちです」
家に戻ると、房江が縁側で洗濯物を畳んでいた。
「どうだった、隣」
「外からだけ見ました。傷みは進んでます」
「そうかい。……圭子さんも澄子さんも、あの家をどうしたらいいか、それだけが心残りだって言ってたよ」
「なら、なおさら正直に状態を知ることからです」
誠一は縁側に座り、九年ぶりの隣の家へ、ようやく澄子の番号を押した。
電話を切ったあとも、誠一は縁側から動けなかった。子どもの頃の記憶が、堰を切ったように戻ってきた。野村邸の台所で、圭子に煮物の味見をさせてもらったこと。澄子に庭の柿を取ってもらったこと。あの家は、隣の家であると同時に、もう一つの我が家のような場所だった。
「誠一、ぼうっとして、どうした」
房江が、お茶を持ってきた。
「いえ、昔のことを思い出して」
「あの家には、よく入り浸ってたもんね。圭子さんが『誠ちゃんは台所の匂いで釣れる』って笑ってたよ」
「ひどい言われようですね」
「でも本当だろう。あんた、ご飯の時間になると、必ず顔を出してた」
二人で笑ったあと、房江の声が少し静かになった。
「ねえ誠一。あの家を売るとか壊すとか、そういう話になったら、あんた、姉妹の気持ちもちゃんと聞いてあげなさいよ」
「もちろんです。家の話は、値段の前に気持ちです」
「あんたの仕事って、そういう仕事だったんだね」
「……今、気づきました」
房江はお茶をすすって、隣の家の屋根を見た。
「昔はね、あの家の台所から、毎晩いい匂いがしてきたの。それがぱったり止んだとき、この辺りも少し寂しくなったよ」
誠一は湯呑みを置いた。昨夜聞いた、台所からの音が耳の奥で重なった。匂いの止んだ台所と、夜だけ音のする台所。その重なりは、偶然にしては出来すぎていた。
「母さん。俺、明日、姉妹に会ってきます」
「うん。よろしく頼むね」
やるべきことが、ようやく一つに定まった。査定人としてではなく、まず隣で育った人間として、あの家の話を聞きに行くのだった。
午後、誠一は一人で家々の周りを歩き、集落の空き家の多さに改めて足を止めた。表札の消えた家、庭木だけが伸び放題の家。どの家にも、ついこの間まで人の暮らしがあったはずだ。
「見てるだけじゃ、何も分からないな」
独り言に、正一が後ろから答えた。散歩のついでに、いつの間にか付いて来ていた。
「当たり前だ。家は、外からじゃ読めない。中にいた人の話を聞いて、初めて読める」
「父さんは、配達のときにそんなふうに家を見てたんですか」
「郵便屋はな、家の玄関で暮らしを読む仕事だ。留守が多い家、新聞の溜まった家、真っ先に気づくのは俺たちだった」
「今の俺の仕事と、似てますね」
「似てるさ。だからお前は、その仕事に向いてたんだろう」
父の何気ない言葉が、クビになった胸のどこかに、静かに沁みた。誠一は野村邸の屋根をもう一度見上げた。明日、あの家の中の話を、姉妹から聞く。その聞き方が、きっとこの先の全部を決めるのだった。
夜、布団の中で、誠一は昼間の外観を手帳に写した。屋根の沈み、雨樋の歪み、外壁のひび。どれも営業時代なら修繕費の見積もりに直結する項目だった。だが今回は、それだけで終わらせたくなかった。音のする台所と、人の声の消えた家。その両方を書ける査定書を、彼はまだ持っていなかった。
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