第1話 チャットでクビ
朝、スマートフォンが震えた。寝起きの誠一が画面を見ると、社内チャットの通知だった。
『黒部誠一様。貴殿の担当業務については、AI査定システムへの移行に伴い、本日をもって終了といたします』
続けて、人事担当者からの短い文面が並ぶ。
『私物は午前中に引き取りください。引き継ぎ資料は共有フォルダへ格納のこと』
誠一は布団の上に座ったまま、画面を見つめていた。
「……チャットか」
声に出すと、思いのほか平静だった。十五年勤めた会社の終わりが、既読のつかない通知で来た。
出社すると、営業部のフロアは静まり返っていた。自分の机の上には、荷物を詰めるための段ボールが一つ置いてある。
「黒部さん」
後ろから声をかけたのは、元上司の榊原聡だった。AI査定部の部長、と肩書きの変わった男が、タブレットを抱えて立っている。
「驚かせて済まなかったね。会社の決定だ」
「決定は分かりました。引き継ぎは、どこまでやればいいですか」
「君の担当物件は、もう全部AIに渡っている。共有フォルダに査定書を入れてくれれば、それでいい」
誠一は机の引き出しを開けた。名刺の束、古いボールペン、そして紙の査定手帳が一冊。現地で査定した空き家の走り書きだった。
「これは会社の資料ですか」
榊原は手帳をちらと見て、肩をすくめた。
「個人のメモだろう。査定書の原本はシステムの中にある。持って帰っていい」
「そうですか」
誠一は手帳を段ボールではなく鞄に入れた。三十一件分。足を運び、雨漏りの跡を見て、相続人の話を聞いて書いた記録だけが、手元に残った。
帰り際、元後輩の三浦翔太が、エレベーターの前で待っていた。
「黒部さん、本当に今日で終わりなんですか」
「ああ。チャットで通知が来たよ」
「ひどいですよ。十五年ですよ」
「三浦は、残るんだろう」
「……はい。AI査定の営業支援に回されるみたいです」
「なら、現場の話だけは忘れるな。査定書の数字の向こうに、住んでた人がいる」
「分かってます。俺、それだけは」
エレベーターが着いて扉が開いた。三浦は深く頭を下げた。
「また連絡します。絶対しますから」
「無理はするなよ」
会社を出ると、まだ昼前で、やることが何もなかった。誠一は駅前の喫茶店に入り、手帳を開いた。空き家の住所、築年数とは別の放置年数。相続人の名前、話の途中で出た家族の事情。AIの査定書には載らない欄ばかりだった。
『価値ゼロ』
ある物件の隅に、自分の字でそう書いてある。会社がそう判定した、という意味のメモだった。
「値段が付かない家、か」
コーヒーは冷めていた。そのとき、鞄の中でスマートフォンが震えた。今度は実家からだった。
『誠一、元気にしてるか。父さんの腰がまた悪くなってな。顔を見せに帰ってこないか』
母・房江の、短い文面だった。誠一は返信欄に指を置いた。
『仕事は大丈夫なのか』と、続けて届いた。
しばらく迷って、誠一は打った。
『大丈夫だ。近々、帰る』
嘘だった。仕事はもうない。ただ、手帳の三十一件のうち何件かは実家近くの物件で、隣の野村さんの家もその一軒だった。
「……一度、見てくるか」
誠一は冷めたコーヒーを一気に飲み干して、店を出た。行く場所がない男の足が、自然と実家の方へ向いていた。
その夜、自宅のアパートで、誠一は母に電話をした。文面だけでは足りず、声が聞きたくなったのだ。
「もしもし、誠一かい。どうした、こんな時間に」
「いや、帰る日の相談で。週末に顔を出すよ」
「本当かい。父さんにも言っとくよ。……あんた、声が疲れてるね」
「気のせいだよ。仕事が立て込んでるだけだ」
嘘は、二度目になると少し上手くなった。だが母は、すぐに話を変えた。
「あんたの好きだった煮物、作っとくからね。あと、布団も干しとく」
「ありがとう。無理はしないでくれよ」
「無理なんてしないよ。あ、そうだ。野村さんの家のこと、澄子さんに聞いといたよ。鍵は澄子さんが持ってて、見に来るならいつでもいいって」
誠一は受話器を握る手に、少しだけ力を込めた。
「母さん、俺が頼んだわけじゃ――」
「あんた、帰るたびに隣の家を見てただろう。気になってるんだと思ってさ」
否定はできなかった。子どもの頃に遊んだ家が、売れもせず壊せもせず、九年も空いたままなのだ。不動産屋としてではなく、隣で育った人間として、放っておけなかった。
「じゃあ、帰ったら澄子さんに挨拶するよ」
「うん。父さんも喜ぶよ」
電話を切って、誠一は手帳を鞄から出した。野村邸のページを開く。昔、自分が査定の練習のように書き込んだ走り書きがあった。間取りの癖、陽当たりの良さ、そして隅に小さく『台所が広い』とある。
「値段の付かない家にも、見なきゃいけないことはある」
誠一は小さな旅行鞄に着替えを詰め、手帳を一番上に入れた。十五年で初めて、査定書のためではなく、自分の意志で家を見に行く旅だった。
鞄を閉めたところで、スマートフォンが震えた。三浦翔太からだった。
「もしもし、黒部さん。今、大丈夫ですか」
「ああ。どうした」
「荷物、取りに来たんですけど、机の上に黒部さんの名刺入れが残ってて。送りますか」
「悪いな。着払いでいいから、実家に送ってくれ」
「実家に帰るんですか」
「ああ。少し顔を出してくる」
電話の向こうで、三浦が一拍置いた。
「黒部さん、あの、変なこと聞きますけど。AI査定って、本当に全部合ってるんですかね」
「どうした、急に」
「引き継ぎの画面を見てたら、黒部さんが現地で見た物件まで、一律で同じような点数が付いてて。俺、ちょっと怖くなったんです」
誠一は手帳の表紙を、指でなでた。
「数字は嘘をつかない。だが、数字に入っていないものは、数字じゃ見えない。それだけだ」
「……やっぱり、黒部さんがいないと不安ですよ」
「不安なら、現場に行け。画面の前で悩む前に、家を見て、人に会え。それが営業の仕事だ」
「はい。……はい、分かりました」
「名刺入れ、頼んだぞ」
電話を切ると、部屋が急に静かになった。誠一は手帳を開き、三十一件の査定を一枚ずつ確かめた。住所、持ち主、家の状態、自分が現地で聞いた言葉。手元に残ったのは肩書きでも名刺でもなく、この薄い手帳一冊分の、足で稼いだ記録だけだった。
「これで、もう一度始められるかもしれない」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、夜のアパートに小さく落ちた。
翌朝早く、誠一はアパートの鍵を管理用の封筒に入れて駅へ向かった。道すがら、母から電話が来た。
「もう出たのかい」
「ああ、今、駅に向かってる」
「父さんが、駅まで迎えに行くって張り切ってるよ」
「腰が悪いのに、無理しなくていいと伝えてくれ」
「言っても聞かないよ、あの人は。息子が帰るのが嬉しいんだろうね」
誠一は足を止めずに笑った。故郷は遠いはずなのに、声の距離は近かった。
「母さん、野村さんの家、見せてもらえることになったら、俺、少し長く滞在するかもしれない」
「いいよ。布団は干してある。あんたの部屋も、そのままにしてあるから」
「ありがとう」
電車の音が近づいてきた。誠一は鞄の手帳の重さを確かめて、ホームへの階段を上った。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




