6.4月18日
トイレは最低だった。荷袋には携帯排泄処理があったから外の世界でもまだ不服じゃなかったけれど、あれは処理なんてものじゃない。遠くに離しただけだ。清浄用ミストもないし、悪臭は扉を隔てていても関係なしに漂ってきて不快きわまりなかった。
でも、不満を感じる以上に眠かった。水分と食料を腹に詰めたあと眠くなり、僕はソファらしき弾力のある腰掛けに横たわった。
「シュカー!」
タウノシンの怒号が聞こえる。まだ眠いんだ。演説のある日でも開演一時間前までは起こすなといつも言っているだろう?
「シュカ、逃げるぞ! 起きろ!」
逃げると聞いて僕は跳ね起きた。そうだ。鼻が曲がるほど臭い。こんなところに居られない。
「タウノシン、どこ?」
暗くて見えない、と手を伸ばしたら掴まれた。紐のような手触りにほっとひと息つく、と思いきや引っ張られて足がもつれてしまった。
「やつらが来る。早くしろ……荷袋は持っていけ」
ぱっと灯りがついて、そばに見覚えのある袋が浮かび上がった。反射的に引っ掴み、肩に馴染み深い重さを覚えながら僕は駆け出した。
「あっ」
荷袋のうえに置いてあった紙が舞う。僕は夢中だったせいで必要もないのにそれらをかき集めて荷袋に詰め、部屋を飛び出した。
「……なんだ今のは?」
「わかんない。それよりどこに行けばいい?」
「右手側だ」
「右……」
「俺の乗っかってるほうだ」
僕は走った。タウノシンからはノロマだの徒歩と変わらないだのと怒鳴られながらも、必死に走った。
「そこを左に曲がるんだ」
「左?」
「……俺のいないほう」
足を向けるとミスト室ほどの広さの空間があった。
「隠れたいから灯りはこれくらいにしておく」
タウノシンは地面に降り立ち、僕は息継ぎをするのに荷袋を降ろしてへたり込んだ。
「……いったいなんなんだよ。まだ顔も洗っていないし、朝食どころかカフェすら済ませてなかったのに」
「のんきなやつだな。俺が必死に逃げ出してきたっていうのに、ひとりきりで不自由はなかったってのか?」
「そうだ。タウノシンは攫われてしまって……すごく不安だったんだ。いったいどこに行ってたの?」
「メハズクとラケルの住処だ。わりに豪勢な暮らしをしていやがったぞ」
「えっ? ミスト室あった?」
「そんなものはない。けどたくさん本があった。食料と、あと武器らしきものも」
「ブキ?」
「銃や剣だ。火薬もあったみたいだった」
「火薬って、なにするの?」
「おそらくだが、ここの土に埋まっている部分を掘り起こすためだろう。まさかテロじゃあるまい」
「テロってなに?」
「……それよりさっき持ってきたのはなんだ? 見せてみろ」
「えっと……どこやったっけ?」
「それだ。荷袋の一番うえ」
タウノシンの指摘どおりに取り出して差し出すと、ほうと言いながらタウノシンは受け取って読み始めた。
「……愛している。わたしと生きてくれるというならすべてを捨てる覚悟だ。家は妻に譲ることにはなるが、息子たちの養育費を考えたら仕方がない。貧乏暮らしになるかもしれないが、それでもいいなら受け入れて欲しい。返事を待っている。わたしたちで子どもを幸福にしてやろう……臭え文だな」
「ほんとだ。鼻栓しないと読めないね」
「匂いじゃねえ。内容のことだ。あ、こいつは返事じゃないか?」
「返事?」
「わたしも愛しています。あなたの覚悟を知れて飛び上がりそうです。いまこの瞬間に死んでもいいくらい嬉しい。いえ、死んでしまってはだめですね。この子があなた似なのか、わたしに似てしまったかわからないのですから。わたしも働きますから、三人でなんとか生きていきましょう」
「……なんだか手紙のなかの自体は生活のことばかりだね」
「そりゃそうだろ。戦争は二十年続いたって話だ。以前はネットワークが主流で、紙で残っていたものはほとんど焼けちまったはずだ。今あるのは戦時中か戦後のものばかりだろう」
「うん。でも戦後ならルーウィン機関が台頭しているはずだがら、生活に対する不安なんて必要ないはずだよ?」
「過渡期だったんじゃないのか?」
「カトキ?」
「いや、違うな。これは大昔の手紙かもしれん……わからないな。次のも読んでみるか」
タウノシンは手紙の束をめくり出し、これだと目をつけたものを上に重ねた。
「すまない。仕事がなかなかやめられないんだ。もう少し待っていて欲しい」
「あれ? まだ一緒に暮らしてないの?」
「みたいだな……これは続きか? あなたの『もう少し』という言葉を糧に待ちました。息子は三歳です。わたしはあなたのために議員の妻の座も捨て、メイドのいる生活から背を向けました。あの人との子ができなかったのは幸いでしたが、溺愛されていましたから数十年耐えさえすれば遺産はたっぷりもらえていたでしょう。別荘での秘書や年に数度の海外旅行、異国の政界人との交流もすべて捨てて、場末のバーで愛想を売る仕事に身を落としたのです。なにもかもあなたのために。なのにあなたはまだ捨ててくれない。ヒロシはパパに会ってみたいと毎晩わたしを困らせます。一度も会いに来てくれないなんて……クソ野郎だな」
「クソ野郎って、なんで?」
「約束しておいて無下にしてるんだぞ?」
「ムゲ? 約束して叶えてくれないなら、八つ裂きにしてやればいいじゃん? 三歳ってどれくらい重いのかな?」
「……重さを聞くのはどういう了見だ?」
「運べないくらい大変なのかなって。だって手紙って手に取って読むものだろう? 居場所がわかってる前提だ。だったら会いに行けばいいのに、なんで行かないの?」
「立場がどうのってあるじゃねえか。要は不倫なんだろ」
「フリン?」
「パパとママが居た時代の背徳的概念だ。生涯をともにする契約を結ぶのが結婚だろ? その契約を破って、別の相手と関係を持つことを不倫という」
そういえば結婚なる概念を説明されていた。生涯決まった相手と生活をともにするという契約だ。不倫というのは破ることをいうのだから、おそらく罰があるのだろう。死ぬまで同じ相手と過ごすなんて考えるだけでも恐ろしいというのに、他の者に目を向けたら罰を受けるとはなんたることだ。ラケルの笑みを見たときより……いや、トイレの汚さ以上に僕はぞっとした。
「……吐きそう」
「吐くほど腹が満たされてるのか? ……うわ、本気で吐きやがった。もうここにはいられねえじゃねえか」
「ねえ、タウノシン。ドリンクちょうだい……」
舌打ちが聞こえて、目の前にボトルが差し出された。受け取りながらふと思う。タウノシンに舌はあっただろうか。
「まずい。灯りを消すぞ」
「なに?」
いきなりあたりが暗くなり、僕の吐き出した汚物の匂いだけが鼻につく状況となった。
「真っ暗でなにも見えないよ」
「静かにしろ」
不満に唾を吐き出していると、遠くに足音のようなものが聞こえてきた。近くにもしゅるしゅると衣擦れのような音がする。いったいなんだろう。タウノシンからは一度も聞こえたことのない音だ。
「ねえ、タウノシン」
「……静かにしろって言ってんだろ」
「いや、でもさ」
「おまえは俺がいなくとも帰れるっていうのか?」
「えっ? 帰れないよ。どこかに行くつもり?」
「俺の意思じゃなくともラケルたちに見つかったら連れ攫われる可能性があるんだぞ?」
「嫌だよ! もうひとりにしないで」
「だから静かにしろって言ってんだ。俺が必要なら全力で守れ。ここじゃおまえより俺のほうに価値があるんだから」
「次期管理官の僕より?」
「おまえは食料を消費して糞するしか脳がないだろ? 人質にするとしても、中でのおまえにも俺なしでの価値があるかよ」
「そんなこと……」
僕は口を尖らせつつ反論しようとしたけれど、ふいにタウノシンが壊れてからの日々を思い出し、不思議に納得してしまった。外のこの地で孤独になるのと同様、中でも似た思いを抱えていた。
「なんだか面白くないね」
「だろうな。だが、だからおまえは次期管理官の地位にまで行けたんだろ。他のやつらは俺の仲間を全部ぶっ壊しちまったけど、おまえだけは俺じゃなきゃだめだって修理までしてくれたんだ。おまえは無意識ながらに理解しているんだろう。俺という相対的立場があってこそ支持されているってことを」
「……よくわからない。単にタウノシンがいなきゃ誰も話を聞いてくれなくなっただけだよ」
「そうだ。だが、同じことをされて他の為政者どもはどうした? 無理解だなどと言って厳罰に処したり、制度を変えようと躍起になっただけだろう?」
タウノシンと同じ型のロボットは以前何百体といた。なのに今ではタウノシンのみとなり、新たにつくってもらっても設定が同じにできない。設定というのか性格というのか。もともとの初期設定データは削除されたとの話だった。
「……要はおまえ以外は自分を腐す存在が許容できなかったんだ。俺という反抗的な味方がいるだけで、民衆は戒律さえも受け入れるというのに」
「僕はただタウノシンって声をかけても返ってこないのが虚しかっただけだよ」
「……ほう。寂しかったのか。俺がいなくて」
「寂しいってどんな感情?」
「心細いとか不安になる感覚だ」
「そうだね。タウノシンがいなくて寂しかった。返事がないって、不愉快じゃない?」
「おまえが俺に頼りきりだからだろ……っと、足音がしないな。あいつらはいなくなったようだな」
タウノシンは僕の腕のなかから飛び降りて、じりじりとした足取りで通路のほうへ忍び寄った。瞬間、タウノシンの姿が消えて僕は声にならない声をあげた。息を飲み、ぬっと現れた陰に叫び声をあげそうになった。
「みいつけた」
甘い声。そして白い髪と幼気な顔立ち。メハズクだった。




