第48話空に祈る名前
第48話「空に祈る名前」
仁川行きのJL959便が、夜の羽田空港第3ターミナルを静かに離れたのは、定刻より5分遅れの午後8時35分だった。
梅雨入り直前の空はどこか不安定で、上昇直後は薄い雲のヴェールがライトを滲ませていたが、FL320に達する頃には星空が覗き、機体は安定飛行へと移っていった。
「皆さま、シートベルトをお確かめください。まもなく、気流の乱れが予想されます」
穏やかな声でアナウンスするのは、チーフパーサーとして乗務する小机アンナだった。
彼女の声は落ち着いていて、安心感を乗客に届けていた。
コックピット内では、桐谷隼人が機長席に身を預け、右席の副操縦士と簡単な業務連絡を終えたばかりだった。
フライトプラン通り、仁川到着は現地時間で午後10時40分の予定。機体はボーイング787、長距離国際線に特化した機材だ。
――だが、彼の内心は静かではなかった。
佐久間の手術から日が浅く、未だに彼の表情が頭に浮かぶ。
そして今夜のフライトが「仁川」だということも、どこかで心を揺らしていた。
仁川国際空港・Crewホテル(深夜)
フライトは順調に進み、仁川国際空港に無事着陸。
各乗客が下機した後、乗務員たちは手早く業務を終え、空港からクルーホテルへと送迎された。
チェックインを終えた後、桐谷と小机はふとロビーで顔を合わせた。
どちらからともなく、ホテル内のラウンジでコーヒーを飲むことになった。
「……今日の空、綺麗だったね」
「うん。高層雲の向こうに、星がよく見えた」
カップを置いた音が静かに響く。
小机が少し視線を外して、問いかけた。
「ねぇ、隼人。……ひとつ、聞いてもいい?」
「ん?」
「どうして、JALに入ろうと思ったの?」
その質問に、桐谷の手が少しだけ止まった。
彼は窓の外、ネオンのぼやけた光を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……小さい頃に、よく空港に行ってたんだ。飛行機を見るのが好きだった。だけど――それだけじゃない」
「うん」
「……俺の祖母が、日航123便の事故で亡くなってる」
一瞬、言葉が止まった。
ラウンジのBGMが、まるで音を失ったように感じられた。
「1985年の8月12日。羽田から伊丹に向かうボーイング747。乗客509名、乗員15名。520人中、505人が亡くなった。……日本の航空史上、最大の事故」
小机は息を飲んで、静かに目を伏せた。
桐谷は、言葉を絞るように続けた。
「当時、祖母はらしい仕事で伊丹に向かう予定だった。家族にも何も言わず、急遽乗ったらしい。……ニュースで、名前が出てきて初めて知ったんだ」
「……そうだったんだ……」
「子どもだった俺は、ただ飛行機が怖かった。でも、大人になって、パイロットになる訓練を受けるうちに、思ったんだ。あの事故を知らないふりはできない。忘れちゃいけないって」
彼は深く息を吐いてから、視線をアンナに戻した。
「JALに入ったのは、“そこから逃げたくなかった”からなんだ。――あの空の続きを、誰よりも知りたかった」
小机は、そっと彼の手を握った。
「……ありがとう、話してくれて。知らなかった。そんな気持ちを抱えて、空を飛んでたなんて」
「……もう乗れないと思った日もあった。でも、今は違う。飛ぶたびに、誰かの『ただいま』の一部になれる。……それが、俺の答えだと思ってる」
ふたりの沈黙は、決して重くなかった。
それは、語られた痛みと、その先にある“願い”を共有した静寂だった。
小机は、微笑んだ。
「ねえ、これからも、私……あなたのフライトに、乗りたいな」
「……じゃあ、毎回CAのスケジュール確認するの、大変だな」
ふたりは笑った。
そして、夜のラウンジには、小さな希望の灯りがともった。桐谷の言葉が、深くラウンジの空気に沁みていた。
「アンナはなんだ?」
「入りたくなった理由」
その言葉に、小机アンナはゆっくりと頷き、静かに視線を落とした。
沈黙が数秒続いた。
その中で、小机がぽつりと、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「……私の友達も、同じ事故で死んだの」
桐谷が驚いたように目を上げる。
「……え?」
小机は微笑んだ。だが、その微笑みは、苦しみに満ちたものだった。
笑おうとするたび、顔の筋肉が震えた。目元が潤み、声がかすれていく。
「……同じね。どこまで、似ているのだろう……」
ぽつ、ぽつと落ちる涙。
それは止めようとしても止まらず、微笑みに重なって、逆に彼女の心の深さを浮き彫りにしていた。
「ねぇ……おかしいわよね、こんなの。私……笑おうとしてるのに、涙が止まらないの。……変ね」
その声には、あふれるような痛みと、同時に小さな救いがあった。
桐谷は、言葉を失っていた。
「私も、ずっと黙ってた。誰にも言わなかったの……。言ったら、壊れそうだったから。
静寂がふたりを包んでいた。
何も言葉を交わさなくても、彼女の気持ちは伝わってきたし、自分の中にも言葉にならない想いが満ちていた。
それでも、今はまだそのすべてを語るには、少しだけ早い気がした。
桐谷はゆっくりと視線を落とし、そして静かに言葉を探すように口を開いた。
「……アンナ」
彼女が顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
「来週、もう一本、監査フライトがあるんだ。今度こそ、本当に最後になると思う」
「……うん」
彼女が頷くのを見てから、桐谷は続けた。
「それが終わったら、俺のほうからも……話したいことがある。今日みたいに、少しだけ時間をもらえないか?」
アンナは驚いたように目を見開いたあと、ゆっくりと、でも確かに微笑んだ。
「……うん、待ってる」
それだけで、胸の奥に小さな灯がともったような気がした。
深夜の空港。
離陸も到着もない、ほんのわずかな静寂の時間。
その中で、ふたりの間に生まれた約束は、言葉以上の重みを持っていた。




