第47話決意の翼
第47話「決意の翼」
機体が羽田空港に着陸し、いつものように滑走路を滑るタイヤの震動が機体全体に伝わった。
JALのボーイング787、JL821便――メキシコシティからの帰路。操縦席に座る桐谷は、ふと手元の操縦桿を見つめていた。
あの空の中で交わした言葉。あの眼差し。佐久間の声が、いまだ鼓膜の奥に残っていた。
「あと一年って、そう簡単に言えるもんじゃないですよ…」
アンナの声がインカム越しに聞こえた。
「……ああ。でも、あいつは笑ってたよ。いつもみたいに、前向いて」
桐谷はタキシングを終え、ゲートへ向かう間もどこか心ここにあらずだった。
佐久間が、東京に戻ったら手術を受けると言っていた。
成功の確率は五分五分。だが、それに賭けるという。
「帰国したらすぐ入院して、手術するよ」
それが、佐久間から届いたメッセージだった。
ゲートに機体を停止させ、システムをシャットダウンする。
「アンナ、俺……ちょっと病院行く」
「佐久間さんのこと?」
「ああ、手術前に一目でも会っておきたい」
東京国際病院まで——
桐谷は浜松町からモノレールを飛び降りるようにして、タクシーに飛び乗った。
雨がフロントガラスを打ちつけている。
ワイパーがリズムを刻むたびに、不安だけが増していく。
タクシーの中、スマートフォンを握りしめたまま、佐久間の言葉を繰り返す。
「操縦席で、もう一度君の背中を見れてよかった」
「お前が飛ぶ空なら、命を預けてもいい」
「……でも、今度は俺自身の命をかける時なんだ」
病院の建物が視界に入ると同時に、桐谷は走った。
制服のジャケットが雨に濡れ、靴音がエントランスに響く。
「佐久間翔太さんの病室はどこですか!?」
看護師が目を丸くして応える。
「12階の特別病棟、手術前の個室です。エレベーター奥です!」
息を切らしながら12階に到着し、個室の扉をノックもせずに開けた。
「佐久間さん……!」
「……来たか、キャプテン」
佐久間は手術着に着替えた状態で、窓際の椅子に座っていた。
青ざめた顔、しかしその瞳はいつものように強く、まっすぐだった。
「最後に見送ってほしかったんだ。……もし目が覚めなくても、俺は後悔しない」
「何言ってんすか、佐久間さん」
「お前がいるから、俺は空を信じられた。だから、今度はお前が俺を信じてくれ」
桐谷は彼の手を握った。
「生きてください。もう一度、俺のフライトに乗ってください」
佐久間は笑った。
「お前の飛行機なら、きっと未来まで運んでくれる」
そして、病室の時計が午後3時を告げた時、
看護師がやってきた。
「準備が整いました。手術室へご案内します」
担架に乗る直前、佐久間はふと振り返り――
「空の上でまた会おうぜ、キャプテン」
桐谷は力強くうなずいた。
「約束です」
佐久間が手術室に運ばれていったのは、午後3時すぎだった。
それから3時間が経っても、何の連絡も来なかった。
東京国際病院の12階、手術待合室。白い蛍光灯の光が、静けさの中に妙な緊張を漂わせていた。
桐谷は手元のスマートフォンを何度も見つめる。画面は真っ黒だ。
時折着信があってほしいと願いながら、それが“何の着信”なのかは自分でもわからなかった。
「……隼人」
声をかけてきたのは、小机アンナだった。勤務を終えてすぐ、ここまで駆けつけてくれたのだろう。
制服のままの姿で、手には缶コーヒーを2本持っている。
「ありがとう……来てくれて」
「当然でしょ。……佐久間さん、頑張ってくれてるよ」
桐谷は黙って1本を受け取ると、プルトップを開けて一口だけ口に含む。温かさだけが喉を通り抜けていった。
「この前のフライト中、俺……本当にいろいろ思い出してた。佐久間さんと訓練した日々とか、怒られたこととか。だけど――」
「……だけど?」
「どれも“生きてた時間”だった。あの人と、全力でぶつかってた時間だった」
アンナはそっと彼の肩に手を添えた。
「佐久間さん、きっとまた戻ってくる。あの人は、あきらめない人だから」
「……そうだな。俺たちに“諦めるな”って言い続けてきた人だからな」
その時、ドアの向こうから足音がした。
医師の白衣が、廊下の奥から現れる。
「桐谷隼人さんですね?」
「はいっ……!」
「手術は無事終了しました。今は麻酔が効いていますが、容態は安定しています。……予定よりも少し長引きましたが、成功と言っていいでしょう」
その瞬間、桐谷の身体から力が抜けるように、ゆっくりとソファへ腰を落とした。
胸の奥に溜まっていた息を、初めて吐き出せた気がした。
「ありがとうございます……ほんとに、ありがとうございます」
アンナも、安堵の表情を浮かべた。
彼女は隣で、小さくつぶやいた。
「……よかった」
桐谷は手のひらで顔を覆いながら、声を震わせた。
「もうダメかもしれないって……あんなに怖かったの、初めてだった。……でも、生きてる……ほんとに、生きてる」
その時、心のどこかでようやく“夜明け”が見えた気がした。
空を飛ぶこと。
人を乗せること。
命を預かること。
すべてが、ただの職務ではなかった。
それを教えてくれた人が――まだ、生きていてくれる。
数時間後、集中治療室の窓越しに見えた佐久間の眠る姿。
まだ意識は戻っていないが、心電図の波が確かに“今を生きている”ことを教えてくれていた。
「また飛びましょう、佐久間さん」
桐谷は、窓越しにそう告げた。
「次は……俺がもっといい機長になって、最高の空を飛びますから」
アンナが隣で微笑んだ。
「その時は、私も一緒に乗ってるね」
二人は無言で、病室の前で並んで立った。
その静けさは、希望のような静寂だった。




