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To be continued  作者: 綾瀬大和
国際線編
44/50

第44話心のフライト

第44話「心のフライト」


2024年7月、早朝――

桜新町。曇天。

静かな住宅街にキャリーバッグのタイヤが小さく鳴った。


JAL機長・桐谷隼人(33歳)は、ネイビーのスーツに白いシャツ、左肩には機長のストライプを付けて歩いていた。

今日は国際線の長距離フライト。羽田空港から成田を経由し、そこから北米へ飛ぶロングホールだ。クルー集合は羽田・8時30分。


彼は時間に余裕を持って、午前7時すぎに自宅を出た。

だが――浜松町駅の東京モノレール改札で、その余裕は一瞬にして打ち砕かれる。


「……現在、東京モノレールは整備場での点検作業により、全線で40分以上の遅延が発生しております。運転再開の目処は立っておりません――」


係員のアナウンスと表示板の「遅延」文字が、冷や汗となって桐谷の背中をつたった。

午前7時45分。

ここで足止めされれば、羽田のブリーフィングに間に合わない。


「……マジかよ……」


一瞬、視界が揺れる。

この便は彼が機長として責任を持って指揮する、国際線。

遅れれば自分一人の問題では済まされない。乗員・整備・地上運航……すべての歯車が狂う。


だが――そのとき。

心の奥で、ある言葉が蘇った。


「何が起きようと、機長が最初に諦めたら終わりだ。

それが、空を託される者の覚悟だろ?」

かつての上司であり、教官であり、尊敬していた男――佐久間貴志。

もうこの世にはいない、空を愛した男の声が、あの病室で、最後に彼に遺した言葉が――胸を強く打った。


「お前なら、きっと飛び続けられる。止まるな、隼人」

桐谷は顔を上げた。

手元のスマホを操作する。モノレール以外のルートを探す。


「京急か……泉岳寺経由で羽田へ。間に合う、まだ間に合う……!」


キャリーバッグを引き直し、桐谷はモノレールの改札を飛び出した。


品川から京急本線へ飛び乗り、満員電車のなかで息を殺す。

濡れた額を拭いながら、彼の目は何度も時計を見つめていた。


そして――


羽田空港第3ターミナル(国際線)


8時27分。

到着。


機長証を見せてゲートを駆け抜け、ブリーフィングルームに滑り込んだ。


「桐谷機長、到着です」


息を切らせながら告げたその声に、周囲の視線が集まる。

副操縦士、キャビンクルーたち、そして運航ディスパッチャー。


「……まったく、間に合わせるとはな」

副操縦士の青年が、苦笑交じりに言う。


桐谷は軽くうなずき、背筋を正した。


「諦めなかっただけだよ。

……それが、空を預かる者の責任だから」


搭乗準備中のB777-300ERのコックピット

ふと座席に腰を下ろした桐谷は、左手の窓から雲の切れ間を見つめた。

そこには、かつて佐久間が語った“未来の空”が広がっていた。


「俺の代わりに、あの空の向こうへ飛んでくれよ、隼人」

「はい、行きますよ。

……今日は、あんたの言葉に救われました」


心のなかでつぶやきながら、桐谷は一つ息を吐き、フライトプランを開いた。 

羽田空港・第3ターミナル。

クルー集合時間8時30分ぴったり。桐谷隼人は機長として、ギリギリながら堂々とブリーフィングルームに足を踏み入れた。


「桐谷機長、到着確認しました」

ディスパッチャーが言うと、周囲のクルーたちが一斉に顔を上げた。


副操縦士の若月(29歳)は軽く片眉を上げる。「ギリギリでしたね」

「悪天候とモノレール遅延。空より地上の方が波乱でした」と桐谷は肩をすくめながらも、すぐにフライトブリーフィングへと意識を切り替えた。


目的地:ロサンゼルス国際空港(LAX)

機材:B777-300ER(JA740J)

飛行時間:10時間45分

出発:羽田10:00 → 到着:ロサンゼルス現地時間3:45


整備状況、天候、ルート、代替空港、燃料量――

全てを一つひとつ確認しながら、桐谷は機長としての判断を的確に下していく。


副操縦士やチーフパーサーとも言葉を交わしながら、彼の中には自然と落ち着きが戻っていた。


「今日は順風の上層風が少し味方してくれそうですね」

「帰りは逆風になるけど、行きは楽できます」


言葉の端々に余裕が出てくる。

そう、“遅れ”に飲まれず、自分のペースを取り戻したのだ。


午前9時20分

ターミナルからブリッジを抜け、コックピットへ。


広い操縦室。目の前には、高度3万フィートの世界への扉。

機長席に腰を下ろし、左手でヘッドセットを装着する。

通電音、計器の起動音、無数のランプの明滅が空への緊張と期待を呼び覚ます。


「Pre-flight checklist」

「Checked and complete」


若月副操縦士と共に、桐谷は一つひとつ手順をこなす。

出発準備完了。


9時58分、プッシュバック開始。


滑走路34R。

桐谷の目の前に、灰色の空が広がる。

梅雨前線の影響で雲が厚く、湿った空気が機体を包んでいた。


「JAL006便、クリアード・フォー・テイクオフ」

管制塔の許可が入る。


「クリアード・フォー・テイクオフ、JAL006。レッツゴー」

スロットルを押し込む。

GE90エンジンの唸りが機体を揺らし、巨大な機体がゆっくりと動き出す。


「80ノット」

「チェック」


「V1」

「ローテート」


副操縦士のコールを受けて、桐谷は機首をゆっくりと引いた。


離陸。


東京湾を背に、機体は厚い雲を突き抜ける。

機体が雲の上に出た瞬間――

そこには、雲海とその上に浮かぶ真っ青な空が広がっていた。


静かで、広くて、自由で。

それは地上の混乱とは無縁の世界だった。


「……やっぱり、この空ですね」

隣の若月がつぶやく。


桐谷は静かにうなずいた。

たとえ地上でどんなトラブルがあろうと、空の上にはいつも“変わらぬ場所”がある。

そして――その空を守り、導くのが、機長である自分の使命だ。


その頃、客室では小机アンナをはじめとするCAたちが、落ち着いたサービスを進めていた。

「本日はご搭乗ありがとうございます。間もなく巡航高度に達します……」


いつもの声。いつもの空。

けれど桐谷は、心の中で小さくつぶやいた。


「……佐久間さん。今、俺、ちゃんと飛んでますよ」

そして彼の操縦する機体は、9,000キロの空路を西へ――

太平洋の果て、ロサンゼルスへ向かって静かに進んでいった。



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