第43話記憶の旋律(メロディ)
第43話「記憶の旋律」
【羽田空港・B滑走路/午前8時】
エンジンの始動音が、コクピットの中に静かに広がる。
機体はボーイング787、目的地は札幌・新千歳空港。
今日のフライトはJL503便。桐谷隼人は副操縦士ではない。
機長として――左席に、初めて佐久間がいない日だった。
「クリア・プロップ、スタートアップ完了。準備は整いました」
右席の若い副操縦士が声をかけてくる。
彼の名は、稲葉翔。まだ経験は浅いが、どこか昔の自分を見ているような青年だった。
「……よし、行こう。今日は俺たちが空を守る番だ」
タキシーウェイに出た瞬間、冬の朝焼けが滑走路を染めていた。
その光の中に、桐谷はふと、過去のひとコマを見た気がした。
【訓練初日】
「おい、桐谷! お前、そんな甘い操作じゃ飛行機は動かねぇぞ!」
初めてのシミュレーター訓練の日。
目の前で吐き捨てるように言ったのが、佐久間貴志だった。
「はいっ! すみません!」
声は震えていた。だが、悔しさと共に、心の奥で小さな灯がともった瞬間でもあった。
(あの人に認められたい。いつか、並んで飛びたい)
【JL503便・離陸滑走】
機体が滑走路を加速していく。
タイヤが地面を離れる瞬間――桐谷の手が自然にスロットルを押し出す。
「V1……Rotate……Positive rate……Gear up」
操縦桿に伝わる微かな振動が、手のひらを通して心に響く。
桐谷は、空へ舞い上がるその感覚に、懐かしさとともに、静かに思いを馳せていた。
【初単独フライト】
「お前の飛び方は、まだ未熟だ。でも……空を見る目は、本物だ」
訓練を終え、初めて単独で短距離フライトを終えた日。
佐久間がくれたその言葉は、何よりの勲章だった。
桐谷は、心の中で何度も何度もその言葉を繰り返し、苦しい夜を乗り越えてきた。
【JL503便・巡航中/東京湾上空】
副操縦士・稲葉がコーヒーを差し出す。
「桐谷機長、どうぞ。少し落ち着きましたか?」
「ありがとう、稲葉。……なあ、お前、飛ぶとき、誰の顔を思い浮かべる?」
稲葉は少し驚いた顔をしながら、少しだけ目を細めた。
「自分の親父です。元自衛官で。……ずっと背中を見てきたから、なんか、思い出すんです」
「そうか……いいな。俺はな、佐久間貴志っていう機長を思い出すんだ」
「……例の、先日引退されたっていう……」
桐谷は小さく頷いた。
「教官で、師匠で……たぶん、俺が空を好きになった理由の半分くらいが、あの人だった」
【教官としての最後の言葉】
「いいか、空ってのは、何が起きるかわからねぇ。でもな、どんな時でも、迷うな。責任から逃げるな。……それが、機長ってもんだ」
最終訓練の日、夜の管制塔を背景に語られたその言葉は、
今でも桐谷の中で、風のように吹き続けている。
【JL503便・新千歳アプローチ】
札幌の白い街が、雲間からゆっくりと姿を現す。
無線のやり取りが続く中、桐谷は左手で操縦桿を握りしめた。
「……ファイナル、安定。ギア・ダウン、フラップ25。滑走路確認」
すべてが訓練通り。
けれどその中で、確かに“佐久間の教え”が生きていた。
【最後のフライトで】
「お前に、すべてを託せる。……それが、俺の最後の誇りだ」
病室で、わずかに力を振り絞って語ったその言葉。
それは、教官と生徒ではなく、一人の空を愛した男が、
もう一人の空を愛する後輩に託した、命の旋律だった。
【JL503便・タッチダウン】
「100…50…40…30…20…10…」
着陸の衝撃が機体を通して伝わる。
だが、それはどこか優しく、温かい感覚だった。
【新千歳空港・駐機場】
エンジンが止まり、静けさが戻る。
「ナイス・ランディングです、機長」
稲葉の言葉に、桐谷は静かに微笑んだ。
「ありがとう。……これから、お前が飛ぶ空にも、きっと誰かの想いが乗ってる。それを忘れるな」
「はい、必ず」
外の空は、どこまでも青く澄んでいた。
けれどその青さの奥に、確かに――佐久間貴志の姿が、今も浮かんでいる気がした。
(貴志さん。これからも、俺は空を守り続けます。あなたが愛した、この空を)
風が機体を優しく撫でる。
それはまるで、どこかから届いた、微かな“ありがとう”の声のようだった。
【函館・ホテル/夜】
窓の外に広がる函館の夜景が、まるで冷たい海のように、胸の奥まで静かに染み込んでくる。
淡い灯りに浮かび上がる街並みは美しく、でも今夜の桐谷には、その美しさすら痛みに変わっていた。
スーツを脱ぎ、白いシャツのままベッドに腰を下ろす。
無意識に、機内で使っていたフライトバッグのチャックを開け、手帳を取り出した。
ふと、ページの間に一枚の写真がはさまっていた。
それは、初めて副操縦士として佐久間と飛んだ日、二人で撮った訓練最終日の記念写真。
桐谷はまだ幼さの残る顔で、不器用に笑っていた。隣の佐久間は無表情だが、どこか誇らしげな目をしていた。
その瞬間だった。
押し込めていた記憶が、堰を切ったようにあふれ出した。
「……降下率、もう少しおさえろ。気流の変化を読め」
「は、はいっ!」
訓練時代、佐久間の声はいつも厳しかった。
でも、その背中は頼もしかった。
ひとつの判断で命が左右される現場で、佐久間は常に冷静で、正確だった。
「桐谷、飛行機の操縦はな……ただの技術じゃねえ。人の命を預かる責任そのものだ」
一度、夜の羽田の訓練センターで、終電がなくなった日。
佐久間は、缶コーヒーを差し出しながらそう言った。
あのときの言葉は、今も桐谷の心のど真ん中に残っている。
さらに、もっと最近の記憶。
2日前、病院の病室。
ベッドに横たわる佐久間は、もうかつてのような強さを宿してはいなかった。
「頼んだぞ、隼人」
その声も、その手のぬくもりも、今はもう、目の前にない。
思い出すたびに、胸の奥がギュウと音を立てる。
こらえきれず、桐谷は顔を伏せた。
シャツの袖で目をこすったが、涙は止まらなかった。
「……っ、くそ……」
声にならない嗚咽が、部屋の静寂を破る。
自分が思っていた以上に、佐久間という存在は大きかった。
師匠として、パイロットとして、そして人生の導き手として。
「俺が空を飛んでる限り、佐久間さんは生き続ける……だろ?」
そう言い聞かせてみても、答えてくれる声はどこにもなかった。
ホテルの部屋の窓辺に立ち、遠く夜の滑走路を見下ろす。
誘導灯の光が、まるで彼の残した道のように思えた。
桐谷は、その光に向かって小さくつぶやいた。
「俺、まだ、教官になるのは怖いっすよ……でも……。いつか、あんたみたいになれるように、頑張ってみます」
また涙がこぼれる。けれど今度は、ほんの少しだけ、あたたかかった。
それは、確かに佐久間が遺してくれたものだった。
夜は深く、函館の空には、一機の旅客機が静かに旋回していた。
その機影が、どこか佐久間の姿に重なって見えた。
空の上で生きた男の記憶は、これからもずっと、桐谷隼人の中で飛び続ける――。




