第42話静かな空の下で
第42話「静かな空の下で」
【羽田空港・ブリーフィングルーム/午前6時】
「……おはようございます」
「おお、来たな桐谷。今日はよろしく頼むぞ」
朝のまだ眠気が残る空気のなか、佐久間の声はいつもより少し低かった。
だがそれに気づいたのは、後になってからだった。
この日のフライトは、羽田発・上海行きJL879便。機材はボーイング787。
桐谷は副操縦士、機長席には――かつての教官、佐久間真吾が座っていた。
「まさかまた一緒に飛べる日が来るとはな。……あの頃よりお前、目が据わってる」
「それは佐久間さんに鍛えられたおかげですよ」
「ふん、調子のいいこと言うようになったな。ま、俺も歳とったってことか」
互いに少し笑い合って、ブリーフィングを終える。
二人は、かつて訓練で何度も対峙したコクピットへと向かった。
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### 【JL879便・上海行き上空】
離陸はスムーズだった。
千葉上空で管制からの指示を受け、巡航高度へ。エンジンの音が静かになり、穏やかな空の旅が始まった。
「ところで桐谷、お前……教官になる話、ほんとにやめたのか?」
「ええ。もうしばらくは、空の中で、自分を試したいと思ってます」
「そうか。ま、俺も向いてねぇと思ってたけど、あっという間に何十人も育てちまったよ。気づけば、今のお前みたいなやつばっかりだ」
「……今日の佐久間さん、なんかいつもと違いますね。大丈夫ですか?」
「ああ? ……いや、ちょっと最近、胃の調子が悪くてな。まあ年相応のアレだよ」
笑ってごまかすその顔に、少しだけ汗が滲んでいた。
けれどそのときは、深く詮索するのはやめた。
上海へのフライトは順調に進み、現地で数時間の折り返し準備のあと、JL880便として帰国の途についた。
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### 【JL880便・日本上空/羽田まであと30分】
「……う、っ……」
巡航中の静けさのなか、佐久間が小さくうめいた。
「佐久間さん?」
「……ちょっとな。腹が、さっきから妙に……っ、痛ぇ……」
明らかに様子が違っていた。額に脂汗、顔面蒼白。
体をかがめ、腹部を押さえながら椅子に深く沈み込む。
「ちょっと待ってください。客室に伝えます」
桐谷は即座にキャビンとインターホンで連絡を取った。
「こちらコックピット。機長の佐久間が腹部の激痛を訴えています。医療対応の準備をお願いします」
「了解しました。医療従事者の乗客にも確認します」
すぐにベテランのチーフパーサーが対応に回り、状況確認と機内アナウンス、さらに地上への連絡に入った。
桐谷は自ら操縦した
佐久間さん着陸しますよ
(100…50…40…30…20…10…)
佐久間は急いで病院に搬送された…。
**病院の一室**
佐久間貴志は、病院のベッドに横たわっていた。医師の診断は確定的だった。末期の胃がん。すでに治療が遅れており、病状は急速に進行しているという。
「佐久間さん、気持ちを強く持ってください。まだ諦めてはいけません」
医師がそう声をかけたが、貴志はそれに答えることなく、窓の外を見つめていた。その目には、もはや力強さはなく、ただ空を見上げるような、遠くを見つめる視線が漂っていた。
桐谷隼人は、病院の廊下を静かに歩きながら、貴志の元へ向かっていた。先週、貴志から突然連絡があり、入院していることを知らされたのだ。桐谷は一度は驚き、心配したが、今はただただ早く会いたい一心で病室の扉を開けた。
「貴志さん」
桐谷が病室に入ると、貴志はその声に少しだけ反応を示したが、表情を変えることはなかった。
「隼人か。来てくれたか」
桐谷はその沈黙の中で、少し躊躇しながらも言葉を続けた。
「貴志さん、無理しないでください。どうしてこんなことに…」
「無理だ。もう駄目だ。俺は、今の状態で飛行機を操縦するのは無理だって、さっき医者に言われたんだ」
貴志は言葉を詰まらせながらも、静かに続けた。
「胃がんだ。進行が早すぎるらしい。もうパイロットとしての仕事はできないだろう。俺、もう……引退しないといけないんだ」
桐谷はその言葉に胸が痛んだ。彼が長年見てきた、誰よりも空を愛し、航空業界の中で尊敬される存在だった貴志が、こんな形で引退を決意するなんて信じられなかった。
「でも、まだ……貴志さん、まだ諦めるには早いんじゃないですか?」
桐谷が必死にそう言ったが、貴志は静かに首を振った。
「隼人、わかるだろ? 俺がどれだけ空を愛していたか。でも、今はもう、無理だ。体がついてこない。フライト中に倒れたら、お前たちに迷惑をかけるし、乗客にも危険を及ぼす。それだけは避けたかった」
桐谷は言葉を失った。貴志の表情には、どこか清々しさも感じられる一方で、深い悲しみが滲んでいた。空を飛ぶことができなくなること。それが、彼にとってどれほど辛いことなのかは桐谷にもよくわかっていた。
「でも、まだ引退なんて…」
桐谷は言いかけたが、貴志は優しく手を挙げて彼を制した。
「隼人、俺が引退することは決めたんだ。これ以上お前たちに心配をかけたくない」
その言葉を聞いて、桐谷はようやく理解した。貴志がどれほど悩み、どれほど空に未練を抱いていたとしても、それを乗り越えて、自分の体の限界を受け入れたということ。
「ありがとう、隼人。お前には、本当にお世話になったな」
桐谷は静かにうなずいた。言葉が出なかった。彼にとって貴志は、師匠であり、憧れの存在であり、今でも空を飛ぶために全力を尽くす姿を見続けたかった。しかし、現実はそれを許さなかった。
「貴志さん、これからもずっと、僕は空を飛び続けます。貴志さんの教えを胸に、僕が空を守りますから」
桐谷の目には涙が浮かんでいたが、貴志は微笑んだ。
「頼んだぞ、隼人」
その言葉が最後の言葉となった。貴志は目を閉じ、静かに横たわった。桐谷はしばらくその場に立ち尽くし、心の中で誓った。自分もまた、貴志のように、空を愛し、空に生きることを。




