第41話その瞬間に立て
第41話「その瞬間に立て」
#【羽田空港 JALトレーニングセンター/2021年 秋】
「よーし、それじゃあ始めるぞ。今日は“貨物室火災+爆発”想定の総合訓練だ」
そう言って手を叩いたのは、教官席に座る**佐久間貴志(45)**。
JALの現役教官にして、かつて桐谷が訓練機だった頃の担当教官、いわば“兄貴分”。
「おい桐谷、久々だな。お前がまたここ戻ってくるとは思わなかったぞ」
「……俺もです。まさかまた佐久間さんに怒られるとは」
「ははっ、まあ、成長見せてくれや。あの頃みたいに“燃え尽きてフリーズ”すんなよ?」
後ろの若い副操縦士訓練生がくすっと笑った。
桐谷はちょっと苦笑いして、帽子を軽く直す。
--- 【訓練開始:B787 モックアップ機内】
「貨物室Aに高温反応!煙感知、スモークドア作動!」
副操縦士役の高山が即応報告。
モックアップ内に設置されたスモークマシンが白煙を噴き出し、視界が揺らぐ。
「貨物火災確認、消火手順実施。乗客避難準備に移行――」
桐谷は冷静に手順を口にしながら、次の判断に移ろうとした――が。
**ドンッ!**
後部で模擬爆発。
貨物室のシミュレート用床が傾き、キャビン後方の脱出口が使用不能に。
「後部通路、封鎖!前方からの脱出に切り替えを!」
CA役が焦りながらも報告する。
一瞬の判断の猶予。その間、桐谷の脳裏に訓練資料がよぎった。
その「1秒」の間に――
「……すべての脱出経路、前方に集約!CAは前方非常口誘導を優先!」
遅れた指示。だが、手遅れではない。
---
#### 【訓練終了後/ブリーフィングルーム】
「……まあ、全体としては対応できてた」
佐久間が腕を組んで、白板を背に立った。
「だが――桐谷。あの“1秒”、お前らしくなかったな」
桐谷は黙ってうなずいた。
「昔からそうだった。マニュアル通りに完璧にやろうとする。でもな、緊急事態は教科書より速く、汚く起きるんだ」
佐久間は、視線を桐谷のほうに向けた。
「“瞬間の判断”は、完璧じゃなくていい。**責任持って決めること**が何より大事だ」
「……はい」
「まあでも、ちゃんとまとめたじゃねえか。昔のお前なら、沈黙して全体止まってたぞ」
少し笑って、コーヒーをすする。
「それに……昔みたいに“教官やりません”って引っ込むかと思ってたけど、よく戻ってきたな」
桐谷は息を吐いた。
「実は……もう教官は目指してないんです」
「……あ、そうなの?」
佐久間は少し意外そうな顔で目を細めた。
「ま、いいんじゃねえの? 向き不向きもある。でもな、お前が今こうして空に戻って、しっかりフライトしてるってだけで――俺は正直、うれしいよ」
言葉のトーンが、少しだけ柔らかくなった。
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【夕暮れの訓練センター・ロビー】
桐谷が荷物を持って出てくると、佐久間が自販機の前で缶コーヒーを買っていた。
「ほれ、ブラック。甘いやつはもう卒業したんだろ?」
「……ありがとうございます」
「それと、何年経っても、教官ってのはな、教える側より“育ってくヤツ”のほうが本物の証なんだよ」
「?」
「つまりな、お前がこうして生きて空飛んでりゃ、俺の仕事も無駄じゃなかったってことだ。そういうこった」
佐久間はそう言って、片手を上げて去っていった。
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【夜、ホテルの部屋】
スマホが震える。
画面には、「アンナ」の名前。
> 「今日の訓練、大変だったでしょ?
> でも、あなたはあなたらしくていいんだよ」
桐谷は画面を見つめ、小さく笑った。
教官じゃなくても、自分が空の中で“何かを託されている”という実感。
それが、今の自分を支えていた。もちろんです。では、**第40話「その瞬間に立て」**の**後半**を、桐谷と佐久間の静かな会話、そして訓練後の夜の桐谷の内面に焦点を当てて丁寧に描写します。
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【訓練センター・ロビー/夕方】
秋の夕暮れが訓練センターのガラス窓を淡く染めていた。
ロビーの隅、自販機の前に立つ佐久間が、缶コーヒーを2本手にして振り返った。
「ほら。ひとつ、やるよ。相変わらずブラックだろ?」
「……ありがとうございます」
受け取った缶コーヒーの温かさが、冷えた指先にじんわりと染みる。
桐谷は無言でプルトップを引き、少しだけ口をつけた。
「今日は、悪くなかったぞ。正直言うと……予想よりずっと動けてた」
「……あの“間”は、自分でも分かってました」
「まあな。お前、昔から慎重で、考えすぎるクセがある。あのときもあっただろ、シミュレーターで非常用酸素マスク出すの3秒遅れて、俺に怒鳴られた日」
「……ええ。忘れたくても、忘れられませんよ」
ふっと二人の間に笑いが生まれる。
「でも、お前、あのとき“遅れてでも出した”。だから生きてた。あれで十分だったんだよ、本当はな」
佐久間は空になった缶をゴミ箱に放り投げた。
「世の中には“理想の判断”ってやつがある。でも現場で必要なのは“最善の決断”だ」
「……“理想”じゃなくて、“責任”ですね」
「そういうこと。どんなに迷っても、最後は自分で決めて、自分の声で指示を出す。機長ってのは、それだけの存在だ」
言葉が胸にじわじわとしみてくる。
「……それにしても、お前が教官目指さないってのは意外だったな。もっと“伝える側”に向いてると思ってた」
「……俺、誰かに“教える”より、今はまだ、“自分が飛ぶ理由”を探していたいんです」
「……いい答えだな」
佐久間はそう言って、ぽんと桐谷の肩を叩いた。
「空の上でな。お前みたいに迷いながら飛ぶやつが、一番信用できるんだ。変に自信家より、よっぽど安心だよ」
「ありがとうございます。……また訓練で怒られたら、よろしくお願いします」
「怒鳴るのは若い連中だけにしとくよ。お前はもう、叱られる側じゃない。**決める側**だろ?」
そう言って、佐久間はいつもの飄々とした笑みを残し、訓練センターのドアを出ていった。
桐谷は、わずかに深呼吸した。
冷たい秋風が吹き込むロビー。手の中の缶コーヒーが、まだほんのり温かかった。
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【ホテルの部屋・夜】
バスタブの湯気とともに、一日の緊張がようやくほどけていく。
ふとスマートフォンが振動した。
画面には、小机アンナの名前。
> 「今日の訓練、無事だった?
> あなたは“正しくあろうとする人”だから、時々疲れてしまうかもしれないね。
> でも私は、それがとても素敵だと思ってるよ。」
静かにメッセージを読み、桐谷は少しだけ目を伏せた。
誰かの言葉が、自分の輪郭を照らしてくれることがある。
“自分は、自分のままでいいのかもしれない”
そう思えたのは、いつぶりだっただろう。
ベッド脇の棚には、明日の訓練資料と、整備されたフライトバッグ。
桐谷はそれらを見ながら、スマホを握り直し、返信を打った。
> 「ありがとう。
> 明日も、俺は空に向かうよ。
> 君がくれた言葉を、背中に背負って。」
送信ボタンを押したとき、外では秋の風が静かに吹いていた




